第2話「小此木美咲」
──女みたいにナヨナヨしやがって、きめえんだよ!!
──わ、悪かったからもうやめてくれ!!
──お前はとんでもないことをしてくれたな。
──アレはお前の女であって、俺の母ちゃんじゃねーだろ。
──聞いたか、一年の中居って奴が三年をボコボコにしたらしいぜ?
──お前は問題ばかり起こして、私の立場が危うくなったら責任が取れるのか?
…………。
……。
最悪の夢で目を覚ます。
思い出したくもないことを鮮明に思い出してしまい、目覚めは最悪だ。二度寝しようかとも思ったが、もう朝日も昇ってカーテンの隙間から光が差し込んでいた。
時間を見ると七時ちょっと前。支度のことを考えると、そろそろ起きてもいい頃合いだった。
俺はインナーだけ赤のシャツに着替えてから、階段を降りて居間に移動する。
「…………。」
食卓には新聞紙を広げて読み耽る親父がいて、台所では親父の弁当を作るあの女の姿があった。
息子が起きてきたというのに、二人とも一切俺に目を向けることも、声をかけることもなく、各々の行動を続けていた。
家庭崩壊もいいところだが、こんなことは今に始まったことではない。
親父とあの女、交互に数秒睨んでから、俺は食卓の隅にあった食パンを一枚取り出して、それを齧りながら居間を後にした。
流し込むようにパンを食べた後、洗面台で顔を洗い、歯を磨き、整髪料を使って髪をオールバックに整えて、髭を剃って、終われば部屋に戻って短ランにボンタンを着込んで、準備が終われば足早に家を出る。
こんな家、できれば一秒だって居たくない。
──家にいるだけでむしゃくしゃするんだわ。
内田東高校まではバス通学だ。
最寄りのバス停まで五分ほど徒歩移動で、バスに揺られること三十分、東高校前という停留所で降りて校舎までは徒歩三分。
まだ時間的に余裕はあるが、早く来たことには理由があった。
玄関で上履きに履き替えた俺が向かったのは、職員室。
「……高宮」
「え!? ああ、中居君、おはよう」
担任の高宮の名前を呼ぶと、奴はビクッと体を震わせた。
眼鏡をかけた冴えない中年男で、見た目通り度胸のない奴ではあるが、一応生徒である俺にそこまでビビることもないだろ。
若干高宮にイライラしながら、俺は潰したカバンの中から一枚の紙を取り出す。
「藤村に言ったのアンタだろ……ほら、進路希望調査」
それは藤村に言われた進路希望調査票である。
面倒くさいが、提出しなかったら高宮がまた藤村に伝言を頼むだろう。
だから昨日の晩に殴り書きをして、今日提出することにした。
「ああ、ありがとう……」
「いちいち藤村に伝言頼まねーで、俺に直接言えよな……」
「すまない。えーっと……あー、就職でいいんだね?」
高宮からの確認に、俺は眉間に皺を寄せる。
「なんか悪ぃの?」
「ああ、いや、悪くはないんだけど……本当にいいのかい?」
「なにがだよ?」
「だって中居君、テストの点数自体は悪くはないでしょ? 頑張れば君なら進学もできると思うんだけど……」
高宮は俺を褒めているわけではなく、あくまで事実に基づいて発言している。
実際、俺の通知表は出席日数や授業態度が悪いため、数字だけで見たら決して良くはないのだが、テストの点数自体は悪くはないため、三以下の数字が記されてはいない。
確かに高宮の言う通り、受験勉強すれば学力的には大学に受かるかもしれない。
「俺、さっさと家出たいんで」
「でも大卒のほうが給与の条件はいい傾向だし、進学した方が将来的には……」
「うちの親が金出すわけないでしょ。アンタ、親父に会ったことあるでしょ?」
「それはでも、僕からも説得すれば……」
「もういいって。俺の人生でしょ、俺が決めることなんで……じゃあこれで」
そう言い残し、高宮に背を向けて職員室を後にした。
──やっぱり高宮は、ただの先公だ。
東高はあまり偏差値的に高いわけではないが、それでも進学者が一人でも多ければ多いほど、その教師の手柄にはなるだろう。
どうせ高宮だってそれが狙いだろうし、そもそも大学に行く気もなければ、金銭的にも無理だろうから、高宮の戯言を聞く価値はないと思った。
だってそうだろ。
俺は、自分で進路を選ぶこともできないんだから。
むしゃくしゃしながら歩いていると、二年三組の教室の前に到着した。
早い気もするが、他にやることもないので教室に入ることにした。
「……はあ」
ため息を吐きながら自分の机にカバンを投げつけ、席に勢いよく腰を下ろす。
「なんか今日の中居君、荒れてるね」
「進路希望調査出してきたんじゃない? 高宮にも怒られたとか」
「えー、でも高宮が中居君に怒る度胸はなさそうじゃない?」
「それあるー。じゃあ藤村さんに会うのが憂鬱とかかな?」
「昨日すっごい言われてたもんね。そのあと授業サボっていたし」
女子が俺のことをコソコソと噂しているが、声を抑えていても教室が静かなせいで全て筒抜けである。
イライラするが、言っても仕方が無いので机に突っ伏した。
──眠い。
悪夢で目が覚めたせいか、寝不足気味である。
このまま寝てしまおうと、深呼吸をした瞬間だった。
「中居くん」
それは女子の声だったが、噂話をしている連中とは違ったハッキリとした声。
顔を上げると明るいアッシュピンクのミディアムボブの女子生徒が、俺に微笑みかけていた。
「……小此木?」
「おはよう」
苗字を呼ぶと、小此木はにこやかな表情のまま挨拶をしてきた。
その光景がクラスメイトにとっては異様だったのか、注目を浴びているような気がする。
「……おはよ」
クラスメイトの前でシカトするのもどうかと思ったので、小さく挨拶を返す。
「今日は早いんだね」
「まあ、野暮用があったから……」
「そっか、じゃあまた後でね」
「おう……」
やる気なく返事をすると、小此木はルンルンとした足取りで自分の席に戻った。
「驚いたわ……」
今度は藤村が俺に声をかけてきた。
小此木とのやりとりを見ていたのか、藤村は俺を訝しむような顔で見てくる。
「あなた、脅しでもしたの?」
「人聞きの悪いことを言うな」
「そんなことないわ。あなたの日頃の行いと人相の悪さを鑑みると、妥当な言われ様だと思うのだけれど」
相変わらずコイツは、人がヒリつくようなことを平然と言ってくる。
藤村の言動にイラっとした俺は、彼女から顔を逸らして頬杖をついた。
「進路希望調査の件、高宮先生から聞いたわ。提出してくれてありがとう」
「……ああ」
ぶっきらぼうに返事をするが、藤村はまだ俺から離れようとしてくれない。
「……まだなんかあるの?」
「私と連絡先、交換してくれないかしら?」
「は? なんで?」
藤村の要求が意外すぎて、反射的に聞き返しながら彼女の顔を見てしまった。
「昨日、言っていたでしょ? グループに入るのが嫌なら、個人的に連絡事項を伝えてくれればいいって」
「俺そんなこと言ってなくね?」
「聞いたら、それでいいって言っていたわ。言ったも同然だと思うのだけれど?」
確かに藤村の発言に対し、俺は同意するような答え方をした。
得意げに言う藤村にイラっとしたが、これに関しては反論のしようがない。
「嫌かしら? こんなに可愛い子と連絡先を交換できるチャンスだけど」
「自分で可愛いって言うのかよ。はあ、わかったわ……ほら、勝手に登録しろ」
藤村からメッセージが飛んでくる状態になるのは鬱陶しいけど、ここでゴネても昨日の続きになるだけだろうし、最悪ミュートしてシカトすればいいだけの話だ。
俺は渋々、QRコードを表示した画面を藤村に差し出した。
「あら、珍しく素直ね。そういう中居君なら嫌いじゃないわ」
「やかましいわ、さっさと終わらせろ」
「はいはい……ふふ」
なんでコイツ、俺と連絡先を交換して嬉しそうなんだ。
「……で、話戻るけど小此木さんとはどういう関係なのかしら?」
「どうでもいいだろ別に……昨日ちょっと話す機会があったんだよ」
「あら、それだけ?」
まだ俺のことを信じられないからか、藤村が半目で訝しんでくる。
「それだけだし、マジで脅してなんかねーよ」
「ふ~ん。まあいいわ、お願いだから変なことはしないでね」
「しねーよ」
「そう、ならいいわ」
ようやく納得した藤村が踵を返した。
長い髪が靡いて、小此木とは少し違った女の子らしいイイ匂いが鼻に入る。
──なんか、懐かしいニオイのような。
気のせいか、藤村の香りを何処かで嗅いだような記憶がある。
おかしいぞ。俺、藤村の匂いなんか嗅いだことないはずだし、そんなことしようものなら変態として今頃血祭りにあげられている。
きっと何処かで嗅いだ匂いに近いだけ、そうに違いない。
それから俺は、授業中のことはマジで記憶にない。
爆睡していたので午前中の記憶がないのだが、腹時計というのは正確なもので、昼休みに入る直前に目が覚めたのだ。
予鈴が鳴り、昼休みになったので席を立った。
購買で昼飯を買って、直人もいないのでサボり場所でメシを食べようと思った。
「中居くん」
「……はい?」
予想外の人物に声を掛けられたせいで、思わず間抜けな声が出てしまった。
「え、小此木……なに?」
「お昼、迷惑じゃなかったら一緒にどうかなって思ったんだけど……ほら、いつも購買で買ってるみたいだから、昨日のお礼にお弁当作ってきちゃった」
そう言って小此木は、鮮やかな黄色の可愛らしいランチ袋に包まれた弁当箱を突き出し、自信に満ち溢れた表情で存在をアピールしてきた。
当然、小此木の行動にクラス中がざわめき出す。
「ちょ、お前ちょっと来い!!」
「あっ、中居くん!?」
居ても立っても居られなくなった俺は、立ち上がって小此木の手を引いた。
小此木の手は小さく、そして温かかったが、そんなことはどうでもいい。
俺は昨日と同じ場所に小此木を連れて行き、そこで小此木と向かい合った。
「なあ、一体どういうつもりなんだ?」
「えーっと、昨日のお礼?」
小此木は目を泳がせながら、そう答えた。
「別にお礼なんかいらねーからさ、目立つ真似は頼むからやめてくんね?」
「えー、でも中居くんって格好だけでも目立ってるような気がするけど……」
「それとこれとは話別だわ!!」
今朝の件だけでも目立っていたのに、弁当箱なんて差し出されたらもう、クラスメイトの視線が痛かった。
特に昨日振られた芦田なんぞ、めちゃくちゃ不満そうな顔で俺を睨んでいた。
「変な誤解生まれたらどうするんだ?」
「私は別に、芦田くん除けになるなら、そっちのほうが都合いいかなって?」
「余計荒波立つかもしれねーだろ。つーかいいの? オメー好きな人いるって昨日芦田に言ってなかった? 好きな人の耳に入ったらまずくね?」
弱々しい声でそう言っていたことを覚えていたので、余計なお世話かもしれないが心配の言葉をかけてやった。
だがそれを聞いてもなお、小此木はけろっとした様子だった。
「んー、まあアレ、嘘だし……」
「は?」
「だから嘘だよ。いないよ、好きな人なんて」
やっと理解できた。
芦田から逃れたいがため、咄嗟についた嘘だったということか。
「そもそも恋とかよくわからないんだよね。したことないし、縁もなかったし」
「ええ、流石にそれこそ嘘じゃね?」
小此木が可愛いとは本人に直接は言えなかったが、男どもに小此木の評判を聞く限りモテそうなイメージしかない。
「嘘じゃないよ。告白はされたことあるけど、そういうのよくわからないから全部断ってきたし、芦田くんはなんか怖かったから嫌だったし……」
そう語る小此木は、嘘を言っているようには見えなかった。
本当に恋とか愛には興味がなくて、そういうものとは無縁だったのだろう。
「とにかくそういうわけだから!! はいコレお礼のお弁当、食べよ?」
「……ああ、じゃあいただきます」
階段に腰を下ろして、小此木からランチ袋に包まれた弁当を受け取る。
教室だと恥ずかしくて食えたものではないが、ここなら人目はないから遠慮なく食べられる。
包みを解いて弁当箱を開けてみると、彩り豊かな食べ物が並んでいた。
お米が半分、その横にサラダとひじきとウインナーが数個入っていた。
「こんな立派な弁当、マジで作ってくれたの?」
「殆ど冷凍食品とか、お惣菜とか、できあいのものだけどね。いつも余っちゃうし勿体なくて、だからお弁当ってお礼を思いついたの」
小此木からしてみたら合理的な判断だったのだろうが、それでも俺のためにわざわざ手をかけて作ってくれたことには変わりない。
「……いただきます」
弁当と同封されていた箸を持って、まずは塩と胡椒でスパイスされたキャベツを口に運ぶ。
一口、咀嚼すると塩と胡椒が絶妙に絡み合い、想像以上に美味かった。
「あ、うめえ……」
「ほんと!? 良かったーお口に合って」
小此木は安堵したようで、本当に嬉しそうに笑顔を見せた。
「マジでうめえ。小此木、お前料理するの?」
「私の家、共働きでお母さん夜勤の時あるから、お母さんが夜勤で晩と朝いない時とか、私がお父さんの分も一緒に作ってるんだよね」
「なるほどな」
親の手料理など久しく食べていないどころか、うちの親父は金だけ渡して自分でどうにかしろと言ってくる始末なので、手料理というものを食べるのは本当に久しぶりだった。
小此木が作ってくれた弁当がとても有難く、いつも以上に食が進む。
「ごちそうさま」
気づいた時にはもう、米の一粒すら残さず完食していた。
「よかった、喜んでくれて……また作ってくる?」
「いや、それは流石に悪い。もういいよ、感謝は伝わったから」
「うーん。でも毎日じゃないけど、食材余って困る時が週に何回かあるから、できれば食べてくれると嬉しいかな? それに中居くん、食生活偏ってそうだし」
なんだか残飯処理に使おうとしている感があるものの、本人がそう言うなら俺はマトモな飯が食えるので、悪い話ではないと思った。
「……だったらまあ、困ってるんなら作ってもらおうかな?」
「決まりだね!!」
小此木は嬉しそうに、親指を立ててそう言った。
小此木家のフードロス問題が解決することと、俺の食費が浮くことの利害が一致した形だが、とりあえず俺はマトモな飯が食えることが嬉しかった。
──まあ、直人が復帰してくるまで暇だし、丁度いい暇つぶし相手だな。
元気な奴だが、藤村みたいにやかましいわけではない。
小此木とは普通に仲良くしてもいいかなと、俺は思い始めていた。