第六話 時の都の小旅行
話の結果、メアリ・ジェインは馬車から降りる。
「じゃあね、ピーペ。午後は遅く来る? 私、一眠りしたら近所で噂集めて、夕方、昨日と同じパブへ行くから。号外も買っとくよ。パブは『テン・ベルズ』の方ね。あなたが先に着いたら、一杯やって待ってて」
メアリが言い、ウィンクして手を振った。
「本当に送らなくていいのか」
降車に手を貸した後、ビルは再び尋ねる。
「いい、いい。私が男連れだと、通りに鼻突き出して詮索してくる暇人が多くてさ。あの辺、いつでも誰かは起きてるんだから。あなたみたいな身なりの良い男前と帰ったら、何始めるんだか見たがって、戸口まで付いてくるよ。目立ちたくないんでしょう?」
メアリは揶揄い混じりに辞退した。
「市場近くは普段から歩いてるとこだし、もう夜も明ける。仕事に行く人たちや馬車が、あっちこっち通ってるじゃない。人の多い道、選んで帰るからね。それよりあなたが御前様やピーペ、ポリーさん乗せたまま離れたら、悪党が馬車ごと盗んじゃうかもよ。気をつけて!」
そんな物騒なことも言う。
「またね! プラムをありがとう」
ビルが差し入れてくれたプラムは、私が一つ、デスも一つ食べ、数個は眠っているポリーさんの膝に置いて、残りを袋ごとメアリにあげた。
まだ白むまで行かないが、どうやら夜の色ではなくなった中。
彼女は果実の紙袋片手に、スピッタルフィールズ青果市場近くから、賃借りの一間へ帰って行った。
ビルが扉を閉めて御者台へ戻る。馬車は石敷きの道を進み始めた。
「そろそろ、窓の覆いを開けても?」
尋ねるとデスは、
「いいよ。いつでも逃げられるよう、どんな道を走るか知っときたいだろうし。このロンドンのごちゃごちゃ道を、果たして覚えられるかは知らないけど」
変わらず皮肉な言い方で応じたが、
「カンテラ消したら、多少、街の様子も見えるかもね」
と、車内の灯りに遮蔽蓋をしてくれた。
街は暗く、霧は紫。しかし既に馬車や人の往来は始まっていた。影と足音、蹄と車輪の音が動き合い、その調子は時と共に活気付く。
ビルは広めの道へ出て、テムズから離れつつ、馬車を西へ向かわせる。古道入り組むロンドン市の中へは入らず、ローマ時代の壁の残骸が区切る範囲の北側を迂回し、より大きな幹線道路へと進んでいく。
大ロンドンを東から西へ、かなりの距離を行くようだが、早朝なのが幸いしてか道は捗った。
白みかけるにつれ、道端のガス灯はますます色あせ、幽霊火めいて薄れる。大きな道路の両側には立派な建物が立ち並び、どこまでも続いている。並木などもない、石とレンガのぎっしりした大都会だ。
「どう、君が知ってるロンドンと、随分変わったんじゃない」
デスが尋ねる。
「変わったと分かるほどに、前を知らないんですよ。地図の上だけの知識で」
「ロンドン万国博覧会の時から後では、来たことないの?」
「そうですね。しかも当時は、三歳の幼児でしたから。街のことは覚えていません。博覧会についても断片的な記憶です。祖父に氷菓子を買ってもらったとか、そんなのだけで」
「三十七年前だよ……その時三歳だと、今、四十歳? それは嘘だろ」
デスは戸惑ったような声を出した。
「どんな意味で『嘘』と仰るのか、分かりませんが」
私の返事を聞き流し、彼は自分でブツブツ言い始める。
「当時三歳、っていうのがまず無理だろ……五十歳過ぎとしたらギリギリ可能か? でもじゃあ今の見た目の無理が、より大きくなる。普通、何歳ぐらい誤魔化せるものなの? 東洋の魔術?」
独りで呟いたと思うと彼はこちらへ向き直り、
「ねぇ、その防毒面外してみてくれない。あと、服も脱いで、体を見せてくれる。よく見えるように今、灯りつけるから」
と突然言い出した。
「やはり紳士じゃなくて変態でしたか?」
「え……」
私の返事を聞き、一呼吸おいて、彼は自分の提案が常識的な範囲を派手に逸脱したと理解できたらしかった。
「ひえっ! 違う! 誤解だ! 純粋に学問的な疑問っていうか……ここまで来たら逆に全部、君が仕掛けた撹乱用の罠じゃん!」
慌てふためいたと思うと、訳のわからない逆恨みを言う。
「辻褄が合わないんだよ。ロンドン万博の時に仕事ができた年齢なら、今は初老のはずで」
「だから現在、四十歳ちょうどで、万博の時には三歳だったと言いましたけれども。女性に何回、歳の話をさせるんです?」
「だから! それなら三歳のヨチヨチの女の子が、展示の目玉だった世界最大のダイヤモンドを盗めるのか、って話だし!」
「ほお。何だか知りませんが、その話には興味がありますね」
私は答え、レザーの防塵マスクを顔から外す。
帽子も少し上げ、顔がよく見えるようにして、デスの方を改めて見た。彼は黙った。
「納得ですか?」
黙った、と思ったのはしかし一瞬で、また彼は同じ調子で喋り出した。
「いや全然。口元も何も、老婆じゃないじゃん。どうやって誤魔化してるのか不思議すぎる。不老不死の仙人伝説の土地が実在するとかは、まだ王立地理学会の探検隊も見つけてなかったと思うんだけど」
「不老不死は笑止です。私も、そこにおいでのポリーさんも、同じような感じでしょう。ただ、あなたから見ると、東洋人は実年齢より少し若く、というか子どもっぽく? 見えるのかもしれません。それだけです」
「そんな……そうだ。ちょっと顔の皮、摘んでみていい? ついでに髪の毛も引っ張っていいかな。あと口の中にも指、入れて調べたいんだけど」
「ダメに決まってますが、何を言ってるかご自分で分かってます?」
デスが自分で何を言っているのか、社会常識的な観点から改めて理解するまでに、また少し間が必要だった。私はマスクを着け直す。
「あの……」
ようやくおずおず謝るのかと思ったら、彼は諦めきれないらしい熱心さで、
「館へ着いたらいいかな。身体測定と体力測定と、内臓や血液の医学的な検査。できたら組織のサンプルも採取して、精密な記録を作りたい。写真も撮れるんだ」
と囁いてきた。
「ビルさーん、助けてください。あなたの主人は何らかの偏執狂です」
御者席までは聞こえない程度にだが声を出すと、デスはまた慌てる。
「違うって! なんて言えばいいんだ一体!」
「何も言わないのが一番無事なようですよ、あなたの場合」
とはいえ、こちらも尋ねたいことは増えるばかりだ。
馬車はオックスフォード・ストリートを走り、円形広場で曲がってリージェント・ストリートを南下、ピカデリー・サーカスで横道へ入った。
予想に違わず、貴族達の首都用邸宅が立ち並ぶメイフェア方向へ走る。しかし、高級住宅地をどんどん奥まで行きはしなかった。まだ街なかの活気が感じられる辺りで、馬車は何度か道を折れる。
「まあまあ、これでも空気はマシな方だよ。ちょっと行けばグリーン・パークで宮殿もあるし。並びでセント・ジェイムズ・パーク、ハイド・パーク。気分転換の散歩には便利」
ロンドン中心部では間違いなく第一等の居住エリアを指して、「まあマシ」とは皮肉がキツい。だが、この蒸機都市にいる限り「霧」や騒音から完全には逃れられないことを考えると、「まあマシ」はほとんど第一等の褒め言葉と言えるかもしれない。
錚々たる門構えが続く通りから、裏へ回る。棟を連ねた邸宅、その一つの裏門へ着けた。門が開かれ、裏庭へと進む。馬丁と思われる若者と、その親方か、父親の可能性もある男が迎えた。
デスは、
「ご近所に宣伝したいような招待じゃないから、今日のところは裏から入ってもらう。気を悪くしないよね」
と言う。
馬車が止まったところで、ポリーさんが目を覚ました。戸惑った様子で見回す。私は
「安全な場所に着いたそうです。お膝のフルーツは、召し上がってください、とのことですよ」
と伝えた。しかし、外国人の私を微妙に警戒するのか、彼女の表情は硬い。
「御前」
ビルが馬車の扉を開ける。するとデスが意外に細やかな様子を見せ、
「僕のことは後でいい、っていうか、差し当たり自分でやっとく。ビルはエイチソンに言って、すぐ夫人を呼んできてもらって。こちらのマダムのお世話を任せたいんだ」
とポリーさんを示した。
「何が要るんだろ。やっぱお風呂とご飯とベッド? 何でも。ポリーさんの希望も聞きつつ、ベティさんが良いと思う処置をしてください、って頼んでくれる? ただ、酒類は無しで」
「承知」
ビルは相変わらずの言葉遣いながらも即答し、馬の側にいる年嵩の男へと伝えに言った。
「で、と……。えー、ポリーさん。これから来るエイチソン夫人について行って、まず休んでください。彼女の世話は完璧だし、何でも遠慮なく頼ってみて。今はとりあえず、何も心配しなくていいから。お互い休んだ後で、今後のことも話しましょう。ではまた後ほど」
デスの言葉を聞いても、ポリーさんが「完全に安心したようだった」とは言えなかったが、デスは私達を促して馬車から降ろした。若い馬丁が馬を引き受け、車を車庫の方へ移動させてゆく。
車庫は大きい。他にも馬車が複数、入れてありそうだ。隣に厩があり、それも大きさから、さらに何頭か馬がいるらしく思われた。裏庭の時点で、想像以上の規模に圧倒されてしまう。
「ピーペ! こっち。僕自らのエスコートじゃご不満? でも他に人員がいないんで、妥協してもらうしかない。どうぞ」
開かれた戸口も、裏口のはずだが大きく立派だ。中をガス灯ではなく、白っぽく明るい電灯が照らしている。
私は屋敷へと足を踏み入れた。
(つづく)