第五十四話 無知と偏見を望む者
公開死因審問の終わった会場から、私達も人波に運ばれ、外へ出かかる。しかし私はまだ、審問の中身がポリーさん(本当に切り裂かれたのは偽体のぷよちゃんだが)の死因と死に至った経緯をできる限り明らかにするもの「ではなくて」、ポリーさんが「売春婦」だったかどうかを確かめるためのような中身だったことに憤慨していた。
隣を歩くデスはこちらに少し身を屈め、低い声で、
「夜中も過ぎたそんな時間に、女性が一人でホワイトチャペルの路上にいるのはつまり、客引き、売春のため。悲惨な殺され方をした被害者は、生活的にも、道徳的にも落ちぶれた『売春婦』であって、自分達のような『真っ当な市民』とは全然違うんだ。そう思うことで『じゃあ自分達はこの事件とは無関係、安全だ』と思えるじゃないか」
と、審問の流れがそうなったことの背景を考察する。
「誰だかわからない、まだ捕まりもしていない犯人に、今すぐ罪を突きつけ償いを求めて、公正と正義を回復するわけにはいかないだろ。それって審問する側はもちろん、ここへ来た傍聴人や新聞なんかで事件を追ってる市民達にとって、落ち着かないことだよ。犯人が捕まらないのは純粋に不安だし、動機や犯行の背景なんかも確かめられないから『どうしてこんなことが起こったのか』って疑問への答えが全く出なくてモヤモヤする。でもここで『そうか、殺された側にも金欲しさに路上で売春してたなんて落ち度があったんだな』『堕落した生活の結果、危ない殺人鬼を引っ掛けちゃったんならある意味、自業自得かも』なんて少しでも『謎が解けて納得できる』ように思えれば、モヤモヤも少しは治まって安心できる。そんな感じで。大多数の疑問や感情が宥められる『望ましい』方向へ、審問官達は誘導したかった、ってことだろ」
私は言い返した。
「『望ましい』のは、彼女の死の原因が本当に『殺人』だったとして何故そんな犯罪が発生したのか、事実関係や真実が明らかになることでしょうに。特に今回の場合、どう見ても行きずりの通り魔的犯罪なのですから、『被害者』が安全ではない路上で独り、夜を過ごすしかなかったことの問題点こそ大きいですよね。その根を辿れば、原因は『貧しい人はその日の寝床さえあっさり失う』という社会に問題がありそうだ、と結論されるはずでは? それに売春婦だろうが浮浪者だろうが、別段他の人間に危害を加えようとするでもなく、ただただ夜中の路上に独りでいたからってそれだけで『殺されても仕方ない』なんてことあり得ませんよ。法治国家では例え泥棒だって、むしろ人殺しだって、現行犯でも『見つけたら問答無用で即殺害していい』ってことにはならないんですから」
デスが立ち止まり、ビルは私の反対隣へ並んで、退出しようと通路にひしめく人混みから雑に押されないよう配慮してくれている。しかし私は周りを気にするより、まだまだ憤りが抑えきれない気持ちだ。
「少なくとも憶測で『被害者』が道徳的にふしだらだったかなどと詮索し、結局、売春婦だと決め付けるのでは、事実を間違いで上塗りして見えなくしてしまうだけですよ。解決の役に立たないどころか、何にとっても望ましいとは思えません」
ふと、デスが身長六フィート三インチ(約百九十センチメートル)はゆうにある高みから私を見下ろした。明色の瞳の視線が注がれる。彼は、形良いけれど血の気の薄い唇を僅か歪めた。闇から滲み出す霧のような声が
「でも、それこそを。そっちの方こそを、望ましいと思ってる奴がいる。事実を知られたくなくて、真実が間違いと誤解に取り替えられ続けることを、酷く望んでる奴がいるのさ」
と呟く。深く被った帽子の蔭、幽冥界の住人を思わせる陰気さでいながら端麗過ぎる面は、憎悪に裏打ちされているのかと思うほど、冷たい皮肉な表情だった。しかしそんな悪感情を浮かべると、不吉さのある美貌が逆に、異様なまでの冴えを見せる。
私はゾッとすると同時に惹きつけられ、一瞬、どこにいて何をしているのかも忘れて棒立ちになりかけた。
その時、
「御前、それにマダム。早いとこ例の人物に、声を掛けねぇと」
ビルが慌ただしく耳打ちした。私は我に返る。
「そうでした! すぐ見つけます。付いて来て貰えますか」
後列で見ていたはずのクライド子爵とやらは、多分とっくに建物の外へ出ているだろう。とはいっても、
「彼と同じように身分の高そうな男性達、数人で連れ立っていましたからね」
ここにも有名人の貴族が! とばかり新聞記者に囲まれてまではいないにしても、単独で来た人とは違い、さっさと帰りもしないだろう。ビルが、
「きっと、帰りの馬車が回されてくるのを表で待ってるだろう。まさか歩きや地下鉄で来たんじゃないだろうからな」
と、私の考えを補強してくれる。
建物から出る。
「もうじき夕方ですね。長い審問でした。おや、雨が」
朝からのどんよりした曇り空は、雨模様へとぐずついていた。とはいえ、秋の冷たい霧雨といったところで傘を差すほどの降り方でもない。防塵マスクとゴーグルを着け、
「レンズに水滴が付くと、見え辛くて困りますねえ」
と、ついボヤきながらも、遠眼鏡のアイピースは使いたいので、ゴーグルの右目へ重ね付けしてみた。
「おお。丁度良いのでは?」
カチリと装着できた。片目を閉じれば遠くが見える。ゴーグルが少し重くなったが、それぐらいは仕方ない。横で見守っていたデスが、
「うん、誂えたようにお似合いで。怪しさ四十パーセント増しってとこ」
と、余計なことを言う。ビルの
「御前の感想は気にするな。ご自分がさっきからこっち、ずっと記者達に狙われてるもんで、何を見ても悪く見えてる」
とのフォローへ、
「なるほどね。それなら、ビルさんの顔を立てましょうか」
応じながら、早速、周りを見回した。
三々五々、会場から立ち去る人々には通行人も混じり、あちこちで傘も開き始めて見通しは悪い。それでも、ずらりと並んだ馬車の列に迎えの車を探している人群れへ目を向けると、やがて目当ての顔がアイピースのレンズ内へ捉えられた。
バックス・ロウから路地を追いかけた時は、ほとんど後ろ姿ばかり見ており顔を正面から見たわけではなかった。けれど、体型や背格好、雰囲気、何より動きからして、私には「彼だ」と確信を持って見分けられる。人の特徴は、外観からばかりでなく全体に醸し出されるもので、特に「動き方」には顕著に現れる。
「こちらです」
人混みを縫い、途中からはもたつくデスの腕を軽く引っ張って近付く。
そこにいたのは四、五人の男性達で、年の頃はデスよりおそらく上。とはいえ最年長でもビルと同年代と見えた。つまり皆、三十にはなっていなくて若い――はずなのだが。
私はどうにも彼らが審問の会場で長時間目にしていた、陪審員席の中年男性達とそっくりなように錯覚する。ハゲていたりお腹が出ていたり皮膚がたるんでいたりする、わけではない。そしてまた、金時計をチャラチャラさせたりダイヤの嵌まったカフリンクスをいじったりしているわけでもないのだが。
「不思議ですね。年齢はどう見ても若いのに、ちっとも若々しく感じないというのは?」
一見、さりげない装いと見せかけて、「そのさりげなさに大変な金がかかってるんですがどうですあなたに見抜けますか?」と言わんばかりの、凝って粧した服装のせいだろうか。
彼らは自分達が通行人や新聞記者などの注目を集めることを充分意識した態度で、立ち止まって談笑し、葉巻に火を付けたりしていた。馬車を待つ人々の中でも、押し合ったり辻馬車を大声で呼んだりはせず、上流然と鷹揚に構え、傘もさしていない。
「さてさて、終わってまでも鬱陶しい混みようだな。馬車はまだ来ないのか?」
「そこらの浮浪児に小銭でも渡して、御者のところへ言付けさせ、抜け道へ案内させるべきだったかな」
「まあ気長に待とうよ。往来の連中に僕らのファッションを見る機会を、もう少し長く与えてやるべし、との天の配剤だと思えばいい」
「こんな町だからな。美しいものは何もない」
「殺人鬼が毒牙にかける娼婦でさえ、薹が立ったと言うも愚かな女の出がらし。五人の子持ちのアル中婆さんとはね。今日の審問で『淫楽の街』の実情を知って驚いたよ。全く、地獄より酷いところだね」
「そんなら、僕らが待ちぼうけして突っ立っている数分間も、環境美化に貴重な貢献をするというわけか」
周囲一帯を見下しきった勝手な囀りがいくつか聞こえ、笑い声も混じる。
「うへえ。何故でしょうねえ。まとめて身包み剥いで故買屋に持ち込んだらなかなかの値段になりそうだ、という意味では見るからに魅力的なお金持ちの紳士達なんですが。全くもって近づきたくない気持ちになってきた」
思わず呟いたのが、背後へほとんど貼り付く状態でついて来ていたデスにも聞こえたらしい。
「その物騒な例えには社会通念上、一切共感や同意するわけにいかないけど、彼らの印象に関しては激しく同意。やっぱ、帰る?」
非常に素早い囁きで応えられる。
「いや帰ってどうするんです、せっかく来たのに!」
デスを前に立てねば話も通らない。けれど彼は前に出るどころか後へ退がりそうだ。どうやって押し出すか、と私が動く前に、
「おや?! そこへ来たのは、珍しい!」
「なんとなんと、君も御臨席だったとはね!」
身包みだけは金銭的な意味で魅力的だが会話の中身は正反対な『紳士』達が、こちらへ声をかけて来た。
「まあそうですよね、デスは目立ちますから」
「白々しいな。僕らの後方にいたんなら、間違いなくずっと見てた癖に」
バラバラな感想を口に、寄ってくる彼らと向き合った。
(つづく)