第四十三話 期限はおよそ一週間
デスが解析機関で通信を分析していた時から、今度の件に関わりがあると睨んでいた人物。その男は今日の夕方、バックス・ロウの「殺人事件現場」を見に来ていた。私がベスナル・グリーン通り近くまで追いかけて見失った彼は、「ヘンリー・クライド子爵」というらしい。
子爵と会うため――厳密には「私を子爵と会わせるため」、デスは観劇へ出かけるつもりだった。
ところで。
「その劇の中身が、頭の二つある人間、なのですか? なんだか上流階級が観に行く演劇というより、見世物小屋の出し物みたいに聞こえますね」
ロンドンに限らず、大都会での娯楽は幅広い。舞台で見る娯楽に限っても、貴族や王侯がしょっちゅう臨席する大劇場もあれば、ミドルクラス向けの新しくおしゃれな劇場があり、また大衆向けの演芸場やミュージックホールも数多くあった。出し物も劇場によって、イタリア語のオペラに始まり、パントマイムやシェイクスピア劇など古典劇、メロドラマ(音楽で感情を煽る演出の芝居)、コメディ、歌や腹話術もある。子ども連れの家族が見るお芝居もあれば、男性客をターゲットにしたお色気ダンスなども様々、用意されている。
社会階層によって行き先が決まっているようでいながら、近年は、郊外住まいの中産階級のうちの富裕層が貴族同然の豪華な衣服で着飾り、上流階級を真似て中心部の大劇場へ観に来るのも流行っているようだ。それから、これは「昔から」だろうが、上流紳士が平民の格好で大衆劇場の踊り子目当てに通うのもよく聞く話だ。
もっと下町へ行けば、怪しげな小部屋を借りて看板を上げ、次行けばもう消えているような見世物小屋の類もある。歌に踊り、曲芸、手品など芸人が何か演じて見せるばかりでなく、奇病や珍しい障害のある人の、病変した身体や症状自体を見せ物としていることもあった。
私はそんな見せ物を想像し、
「『驚異の双頭人間』、とか?……しかしシャム双生児と言えば、体の途中がくっついた状態で生まれた双子でしょう。頭だけが二つある、などという人間は、作り物の可能性が高いと思いますね」
と言った。デスは
「違う違う、さっきのウナギのことは忘れて。頭二つ、は喩えだよ」
と否定する。
「ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件(Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde)』が原作の劇で」
デスは書斎を見回し、しばらく佇んだが、すぐに何百とある本の中から一冊、ソフトカバーの小さい本を見つけて持ってきた。
「これ」
彼はその冊子をこちらへ手渡す。
「中身は自分で読みたいだろうから、話の筋はバラさないんだけど。現代人、少なくとも都会暮らしである程度の社会的地位で、この本が読める程度の境遇の人間にとっては『完全に思い当たる』とまで言わないにしても、『自分と無関係』とも思わせない内容だったんだろう。二年前に出版されると、すぐ評判になった」
と、気になる解説をした。
「その後、リチャード・マンスフィールドっていうイギリス育ちの俳優が演劇に翻案して、まずアメリカで上演した。去年の夏にボストン。それからニューヨークのブロードウェイ。劇も大ヒット、大評判。そんなわけで今月頭から、ライシアム劇場へツアー公演に来てる」
と説明する。
「ライシアム劇場というと」
「ストランド街へ入るところに、目立つ円柱を並べた、神殿みたいな立派なエントランスがあるよ」
「ピカデリー・サーカスからストランド辺りは劇場街でしたね。そうか、ライシアム劇場は元の英国オペラ劇場。火災や経営破綻を繰り返すので、一部関係者からは『呪われた劇場』なんて言われていたような。でも、十年前から看板俳優でアクター・マネジャー(出し物・役者の決定や演出のみならず劇場内全般の方向性を決定する役職)のヘンリー・アーヴィングが取り仕切って以来、ずっと昇り調子じゃなかったですか?」
「まさに。っていうか僕は、そうなってからの歴史しか知らないけどね。歌劇じゃないロンドンの演劇といえば、まずシェイクスピアでアーヴィングでライシアム、って感じ」
「そう、シェイクスピアだ。古典劇の新解釈演出で毎回評判を取り、今やロンドン一の大劇場とか」
「うん。王室の人たちもお出かけになる。ばかりか、アーヴィング一座を宮廷へ招いたりもする。クライドに限らず、誰を誘っても喜ばれそうな場所だろ?」
それは確かに、と肯けるところだ。
「あとは本を読んでみてよ、僕の考えたこともわかるだろうし。『フランケンシュタイン』やダーウィンは明日、ビルに頼んで新聞と一緒に、あなたの部屋まで持ってってもらうよ」
「ありがとうございます、ではこれ、お借りします。すぐ読みますね」
「うん、でも徹夜はやめといた方が。明日、検死審問があるかもしれない。逆に、劇へ行けるのは急いでも来週半ばだよ。だから、明後日の日曜日に読むといいよ。日曜は、銀行も閉まって取引全般がストップ。鉄道や馬車は最低限動くにせよ、世間全体に、物事の動きがグッと鈍る。多分、天気も良くないし」
「……あの『殺人鬼』も、『日曜日は休み』だといいんですけどね」
私は、ホワイトチャペルの暗く狭い街並みと、霧の中から影法師になって出てきては消えていく人々のことを思い浮かべた。
「明日や明後日も、またアレが出ないとは限らないんだな」
とつい、呟いてしまう。デスは暖炉の明るい炎へ目をやった。
「それどころか、今夜、今にも事件が起きないなんて、犯人達以外の誰にも確約できないよ。でも、昨日の今日。いや今朝の今夜だ。それに僕らは帰ってきたけれど、所轄の刑事さんや巡回の警察官達は交代で警戒を続けている。わざわざ、警戒厳重な時と場所を狙って動くことはないだろ」
「しかしアレは、巡査達の鼻先を簡単に掠めて、ポリーさんを『殺し』ましたよ」
厳密には、すり替えた偽体が切り裂かれたのだが。
「今夜はアレが現れても、寸前でぷよちゃんとすり替えて助けてくれるあなた達はいません」
それなのに今夜も、ポリーさんのように、泊まる場所が確保できず路上を彷徨う人達がロンドンには大勢いるはずなのだった。
「……だからって私達が、アレを探して毎日毎晩、ロンドン中をパトロールするのも不可能ですしね」
現実に直面し、ため息をつく。
「休息を取らないとまともに動けません。ああ、もう。機械のように、疲労しないで休みなく動き続けられる、鉄の体でも欲しくなりますね」
慨嘆すると、デスが意地悪く、
「金属だって疲弊するけど? それに、どんな機関も燃料切れになれば止まるしさ」
と言った。
「燃料は補給すればいいですし。壊れた部品は、あなたに取り替えて貰えばいいんじゃないですかね。これ以上、胴を長くしないでくれるなら」
ついそんな軽口も叩く。
「僕らは今ある条件で何とかするしかないでしょ。準備もなく闇雲にホワイトチャペルをうろついても、体力と時間の無駄だ」
デスは低く続ける。
「情報を集めないと。今のままじゃ、もう一度あの『殺人鬼』に接近遭遇することさえ覚束ない。ハンベリー・ストリート二十九番の庭が本当に『実験予定地』なのか。『実験日』はいつなのか。クライドを直接、間接に探ることで、何とかわかるように持っていければ」
「そうでしたね。今も、アレが自由に野放しでいるのかと思うと焦りますが」
「うん。でももし今の瞬間、向こうで事件が起こっても、ここにいる僕らじゃ阻止できないよ。それはそう認識しとくしかない」
言い切った後、彼は情けない声になって
「てかさ。パトロールはお巡りさんに任せようよ。体力と人数勝負な方面で僕らが加勢しても、却って足手まといだよ」
と言う。デスの加勢ならそうかも、と余計な相槌を打ちかけ、私は急いで口を閉じた。
その間にも彼は
「大体、今日はまだ『殺人事件』が発生した当日だろ。警察も、近隣住民も野次馬も、差し当たり今夜は騒いで警戒してる。『殺人実験』の『実験者』達も、それは分かってるよ」
と、自分を宥めるらしい言葉で言っていた。
「未明にやったのと同じ内容の『実験』なら、警戒度が上がってる今を狙ってもう一度、やってみる必要性は薄い。だから高みの見物をしてるはず。『初実験』の成功を祝って、乾杯でもしてるかも」
「想像すると非常に、胸糞悪いですね」
「胸糞……否定はしないけど……」
言い方、とぼやくヴィクトリア朝の若い貴族であったが、
「イーストエンドで。だけじゃなく、この蒸機都市で、事件は毎日起こるんだ。きっと一週間後には、バックス・ロウの殺人の話題も出なくなって、他のニュースが騒がれてる」
と、さらに呟く。澄んだ明色の瞳へ、光が映って明るく揺れる。それでいながら地獄の番人の暗い視線で、彼は虚空を見ていた。
「それは……一週間後あたりが狙い目だと?」
思わず奇妙な美を眺めていた暫時の後、何故か、言葉が口を衝いた。
デスはゆっくり、表情を驚きに変える。どんな表情でも、現世離れした美貌には変わりない。その顔で、こちらを見た。
「一週間……それぐらい」
予言のように。予感のように。私達は頷き合った。
「いいでしょう。そのつもりで確かめ、用意して迎え撃ちましょう」
言ってから、
「違った。迎え撃つのじゃなく、出し抜かねば」
と訂正する。
「人を絶対に殺させないで、捕まえます。次に出た時を、アレの最後にしてやりましょう」
「おかしいな?! 『迎え撃つのじゃなく』とか平和そうに始まっといて、終わりは悪役の決め台詞?!」
デスは椅子の中で、痩せすぎながら見事な骨格の長身を、大袈裟に縮めた。
(つづく)