第四話 貴族と従者とレディと泥棒
窓を塞いだ四輪箱馬車は、暗い中、スピッタルフィールズ青果市場の近くに止まったようだ。
馬車の中で、謎の男は驚くべきことを口にしていた。
「貴族と従者にレディが二人、あとの一人は大泥棒」
今夜の異常な冒険の結果、乗り合わせている五人を、そう形容したのだ。
彼は私を知っているのだろうか。私の素性と「仕事」のことを? しかし何故。どうやって?
ところが、私が口を開くより早く、ポリーさんがワッと泣き出した。
「やっぱり私を捕まえに来たんだ」
「うぇっ?!」
隣の男がギョッとなる。ポリーさんは泣き上戸のスイッチでも入ったのか、涙の合間に激しく訴えた。
「だけど、そんなのあんまりじゃないの。黙って出て行ったのは、しょうがないよ。家庭、守るのに失敗した女だからって……足元見られて。タダ同然で雇って、行儀だけは、良いとこの女中みたいに厳しく言うんだ。お酒、呑まなきゃ耐えられないほど、たっぷり惨めな気持ちにしてくれといて、お酒は絶対ダメ。酷いよ。とても居られない。仕事用にって貰った服は、私が貰ったもんですよ。あの……引き出しで見つけたお金。あれだって、貰って当たり前のお給金。ほんのちょっぴり。なのに泥棒だなんて。もっと取ってるヤツもいるのに! 私のは、どうにもしょうがなかったんですよぅ」
思わぬ言葉の奔流で、引き金を引いた張本人の男は狼狽えている。
「あれっぽっち持って出ても、向こうは何にも、困るような暮らしじゃないですよ。なのに。今になって追っかけてくるなんてぇ……」
ポリーさんは泣き止めない。
すると今度はメアリ・ジェインが目を怒らせ、ドスの効いた声を出した。
「ちょっと、お兄さん。お金持ちだか知らないけど、気の毒な小母さんに因縁つけるのが紳士のやること? 可哀想に、責められたと思って取り乱してるじゃない。それともさっきの『泥棒』ってのは、私に当てこすったわけ?」
「ひえっ」
再び男は息を呑む。
彼は、肉付きは悪いながらもなかなかの体格で、背も軽く六尺(六フィート。一八五センチメートル)ありそうだ。なのに、こういう場面には強くないらしい。メアリの啖呵は加速する。
「そりゃね。あんたらから見れば、私みたいにきちんとお上の許可とって商売してる娼婦だって、泥棒と一緒かもしれないさ。けどそんなの、後で困るほどの金、遣ったヤツが悪いんだろ。野暮なしみったれに限って騒ぐんだ。大体、この小母さんは娼婦でもない。ちゃんと見て話聞いてれば、あんたらには無理でも、私にはわかるんだから」
ポリーさんが何度も頷き、
「そうですよぅ。私は今だって、日銭仕事でも家事手伝いとか。素面のときは、頼まれ仕事、なんかかんかして生きてんです」
と主張した。
メアリは重ねて
「ええ、返事はないの、お兄さん。私らを泥棒呼ばわりするからには、きっちり証拠があるんだろうね? それともあんた、変装したお巡り? 真面目な市民を疑って、迷惑かけるのがお仕事の?」
と、多少、酔いの熱さえ取り戻した威勢で言った。ところが悪いことには、ここで男が急に冷静な早口で、
「いや警官を悪く言うのは違うだろ。警察組織の整備のおかげで犯罪検挙率は上がった。今までだったら闇から闇だった無法地帯の犯罪が、曲がりなりにも捜査され、全部じゃないにせよ明るみへ出され追及されるようになったんだ。巷の無責任な報道は事実と逆で、ロンドンの犯罪率は実質、右肩下がりに低下してるわけ」
と呟いたのだった。
メアリ・ジェインはドン! と馬車の床を踏み締める。
「なんだって? はっきり言って?」
殊更ゆっくり尋ね、彼の方へ身を乗り出した。男は座席の背にへばりついて硬直する。
このままもう少し見ていたい気も、かなりしてきていたが、
「あー。ごめんなさい」
私は優しく割り込んだ。
「こちらの方が言っているのは、私のことだと思います」
「あっ、東洋人への差別だね!」
メアリ・ジェインの心に燃え上がった怒りの炎は、なかなか消えないらしい。むしろあちこち、延焼する勢いだ。
「えーと……私のために怒ってくれるのは、とっても嬉しいですが」
私はなるべく陽気に、革のマスクで見えない口元の分、目元をニコニコさせる。
「駄洒落歌みたいなものは、最後にオチがあるでしょう? それで『泥棒』なんて仰ったんですよ」
「違っ」
隣から聞こえかけたのを、
「ほら、何でしたっけ。『仕立て屋、いかけ屋、兵隊、船乗り』? ありましたよね。占い歌みたいな」
と、素早く被せて誤魔化す。幸い、メアリは彼より私の方を信じてくれた。
「えっ。じゃあ、あれ冗談のつもり? 確かに、そんな歌だったら『金持ち、文無し、乞食に泥棒』って続くけど……」
彼女の言葉を聞き、ポリーさんも
「なんだ、そうなの。関係ない、歌だった……」
とモゴついた後、静かになった。
隣で男が悔し紛れか、
「へええ。仲良くするのが上手いね。お友達とは、前から知り合いなの」
と呟く。私はつい、
「あなたは、敵を作るのがお上手そうですね」
と余計な言葉で返してしまい、慌てて継いで
「彼女とは昨夜、知り合ったんです。他所者があの辺りで安全な夜を過ごすには、下手に宿へ泊まるより夜遊びするに限る、と教えていただきまして。実践にも付き添っていただいてました」
と説明した。
すると、男はふと声を潜め、
「君らが何をしてたかは、途中、ちょいちょい見てたから大体わかってる。それよりあの辺って、路上に寝てる人、日常的に多かったりする?」
と尋ねる。
「えぇ? 見てた……いや、ええ。どうでしょう。道で寝ている人は結構、昨夜は見かけた気がします」
私の返事を、メアリ・ジェインが
「毎晩、当たり前にいっぱいいるよ。貸し間借りてるんなら、少しは家賃溜めとけるけど。一晩のベッド代だけで雑魚寝させてる宿泊所は、その晩のお代が払えなかったら即、追い出されるんだ」
と、あっさり補強した。聞きつけたポリーさんがブツブツ、
「ベッド代がなけりゃ、救貧院へ行くか……酷いとこだよ、救貧院は! それよか一晩中歩いて、時々ちょっと横になる方が……。だけど悪い奴に襲われるかもしれない。起きてなきゃ。本当には眠れない……門口で座ってるとこ見つかったら、すぐ追い払われる……ああ、今夜も、くたびれたねぇ」
切れぎれに呟く。俯いて黙ったと思うと、次には鼾が聞こえてきた。
「すごくお疲れなんですね」
私の言葉には、メアリが同情的に
「本当に」
と答え、男に
「ポリーさんのこと、ちゃんと送ってあげるんだろうね? この人がいつも泊まってる簡易宿泊所の住所聞いて、その近くまで連れてったげればいいよ。どのみちホワイトチャペルだろうから、私、送るの引き受けようか」
と尋ねた。ところが男は、
「そうはいかないんだなぁ」
と言う。
「今までの話、ちゃんと聞いてたらわかると思うけど。彼女は死んだことになって助かったんだから、顔見知りがいるようなところへ、のこのこ戻ってもらうわけには行かない。そんなことしたら、あの小道で死んだのが本当は誰なのか、って騒ぎになるじゃないか」
「何それ……あっ、やっぱりあんたら、人攫い? 違った、そうだ。始末したい死体をポリーさんってことにして、あそこへ置いてきた、人殺しだ!」
メアリがまたも素早く逆上しそうになり、私は再び「まあ、待って」と止めた。
「こちらの紳士は、どうもさっきから独特で刺激的な言い回しをなさるんですが。それに私達がいちいち反応していると、えー。そう、言葉通り、夜が明けてしまいます」
馬車の外の闇もそろそろ、白んでくる頃かと思い描く。
もう一つ気になることもある。
馬車を止めて以来、御者台にいるはずの男の動向が、伝わってこない。ずっと御者席にいるのか、それとも他所へ行ってしまったのか?
とにかく、まずは隣の男の正体だ。
ポリーさんとすり替えた遺体(本当に遺体ならまだいいが)の出所、そんなことをする目的。昨夜、私達を見張っていたような物言い。何より、私の素性を本当に知っているなら大変だ。
「あなたはご自分達のことを『貴族と従者』と仰いましたが、それはまんざら嘘じゃない気がします」
探るつもりでそう言うと、男は呆れたように手を広げた。上等の手袋で包まれた、ほっそりしているが大きな手だ。彼は、
「何、そんなとこから? え、僕、自己紹介しなかったっけ。ああ、君達がお互い、名前で呼び合わないように気を付けてたから、つい釣られて自分のも伏せちゃってたのか」
と言って、
「僕はデス。デス・グレイヴ。外の連れは僕の従僕で、ウィリアム・アゴラ」
と、あっさり名乗った。
メアリがポカンとし、
「死と墓穴? 変わった名前ね。お連れの苗字も、ちょっと変」
と、驚いた声を出す。
「待ってください。嘘かもしれない」
「随分、聞こえよがしのひそひそ話だね。僕は君とは違う。嘘は吐いてない。まぁ……これが名前の全部でもないけど」
「なるほど、偽名だ。いっぱいある中の、偽名の一つ」
「違うって! 便宜上、省略した一部分って意味。誓って本名だよ」
その時、馬車の扉がノックされた。男はまた「ヒィッ!」と息を呑んだが、
「御前?」
と低い声が聞こえ、落ち着きを取り戻す。彼が腕を伸ばして開けたドアの隙間から、従僕だという連れが軽く会釈し、中を見た。
カンテラの光を受けた顔は、二十代後半といったところ。
「あれ。ねぇ。ちょっと」
メアリ・ジェインが小声で言った。いや、ちょっとではなく、かなり。
従僕は整った顔立ちだった。
(つづく)