第三十八話 こと付け、贈って、さてそれで
あれこれ話すうち、スロール・ストリートの入り口へ到着していた。細い通りは相変わらず暗く、煤けたような古い建物が並んでいる。簡易宿泊所が何軒か集まった、いわゆるドヤ街だ。暗く狭くみすぼらしさいっぱいの路地ながら、往来したり建物に出入りしている人は結構いて、それなりに賑わっている様子でもある。
遠目に眺めつつ、立ち止まったところで、メアリが、
「これから夜中にかけて、あそこに『住んでる』人達が『帰宅』して来る時間だね。出入りしてる全員が泊まるわけじゃないんだけど」
と言う。
「夜中過ぎまでに宿代を工面できればベッドに泊まれる。高い方のベッドなら、朝も遅めまで追い出されずに寝てられるんだ。日雇いの仕事を探すなら、ベッドを何時まで借りられるかに関係なく、早朝から出かけなきゃだけどね。宿に泊まる料金がなくても、常連だったら台所を使って炊事させてもらえるから、こうやって大勢、夕暮れには慣れた宿に集まるんだ。食堂で待ってれば知り合いが来て、もしかしたら宿賃や飲み物、食べ物を借りたり分けてもらったりできるかもだし」
と、簡易宿泊所前の活気の理由を説明してくれた。
「では、ここで私達は帰った方がいいんでしょうね。本当に委細、お任せしてしまって構わないのですか」
ポリーさんの知り合いを探して説明し説得するのを、全部メアリ・ジェインに頼んでしまって大丈夫だろうか。やっぱり何とかして私も付いて行けないか……と、まだ後ろ髪引かれる気持ちでメアリを見る。けれど、彼女は明るく笑った。
「任せといてよ! エレン・ホランドさんって人を探して、ちゃんと話せば良いんだよね!」
次いでグッと声を潜め、
「ポリーさんが本当は生きてて、すごく親切な人達に保護されてる、ってこともよく伝えとく。安全のために、当分は会えないだろうけど、ってことも言っとくね」
とも囁く。
「お願いします。これからも、お友達といえども彼女にポリーさんの消息をお届けしたりできないのは、心苦しいところですけれど。特に説得をお願いしたいのは、警察へ確認に行った時、ご遺体がそれらしくなくても、ポリーさんのために『本人』だと証言して欲しいことです。メアリはよく分かってくれていると思いますが、エレンさんにも分かっていただけるよう、どうかよろしく頼んでくださいね」
私も囁き声で耳打ちした。
「それからエレンさんは昨夜、ではない今朝未明、ポリーさんが最後に話した知り合いだと思います。だから道でお二人が出会って話し、別れた時の詳細を是非、警察の人に教えてあげてくださいともお伝え願えますか? 私はポリーさんから聞いたことを、警察の人へは伝えていません。エレンさんから直接、目撃証言してもらえる方が、又聞きより良いと思います。本庁のアバーライン一等警部補かゴドリー巡査部長、ホワイトチャペル署ならシック部長刑事は、信用できる良い方達です。なんなら名前を出すと早いかも」
「ピーペってば、どうやって今日だけで、そんなにお巡りの知り合い増やしたの? びっくりだよ」
メアリは呆れまじりの驚きを見せつつも、
「ポリーさんやエレンさん自身の安全のため、ピーペはエレンさんとは直接、知り合わない方向で行くんだね。でも私には、また、会いに来てくれるんでしょ? どうなったか聞きにさ!」
と、また明るい声を上げて私に向き直り、何だか色っぽく微笑みかける。
「ええ、それはもう。そうさせてもらえるならば是非」
答えると彼女は、
「東洋からの旅行家が、蒸気都市巡りの一環で、下町のパブに来て『取材』する分には何も変じゃないよ。もちろん目立ちはするだろうけど、それはフリート街の記者だって同じだし」
私を安心させるつもりなのか、そうも言う。
「泊まるお客の階級を、逆の意味で選ぶ木賃宿とは違ってさ。パブや劇場だったら誰が来ても、別におかしくはないからね」
「分かりました。他にも個人的な用事が色々、増えてもいます。明日にでもまた来ますよ」
「良かった! 私、いつも大体、夕方には『ブリタニア』か、今夜の『テン・ベルズ』にいるからね」
今朝と同じことを言った後、メアリは付け加えた。
「うん、やっぱり部屋の場所も一応、教えとく。ドーセット・ストリートにある、ミラーズ・コートって建物の一階、十三号室。でも、直接来なくて良いからね。道で使い走りしてる子どもにでも声掛けて、呼びに来させて。そしたら私が、すぐパブへ向かうからさ」
「ええ、そうしましょう。あ、そうだ、メアリ!」
私は、ふと思い出し、立ち去ろうとする彼女を呼び止めた。
「あの。ここに実は未使用の頬紅がありまして。メアリがもし使うのなら、貰ってもらえないかなと」
言いながら、しかし手元にあの理容店で買い揃えた化粧品の包みはない。
「そうだ。妙な人影を追いかける時、邪魔になると思って、デスに押し付けたんでした」
振り返ると、暗い中でヌボッと立っていたデスが
「えっ、何! また何か?! 僕は今、ウナギしか持ってないけど?!」
と手にした空き缶再利用の容器を振り回し、無駄な程に驚く。
「これが要るのか、マダム?」
デスの隣からビルが、手にしたスマートな革の鞄を開き、入れられるようきっちり平らに直した包みを差し出してくれた。
「あ、そうです! ビルさんが持っててくれたんですね、すみません。デスに預けたつもりでした」
「預けたっていうか……! 投げつけて、走ってったんじゃないか!」
「御前は鞄をお持ちじゃなかったんでな。バラけねぇよう、俺がまとめて持ってた。だがこう暗くちゃ、どれが何だか見えねぇだろ?」
「そんなの。あげるなら、全部あげれば良いじゃない」
「いえ、使用済みのはダメですよ」
仮にもぷよちゃん、いや偽体に「死化粧」した残りだ。知っても、もしかするとメアリは気にしないかもしれないが、私は気にする。失礼に当たるというより、縁起を担ぎたい気持ちだ。
「手探りで分かります。容器の大きさや形がそれぞれ、違いますから」
目的の品を取り出し、
「必要があって一式買ったものの、頬紅は使う当てがないので……と言うと余り物をお渡しするようで申し訳ないのですが。良かったら使ってください。良い店の、良い物の筈です」
と、メアリ・ジェインに渡した。
彼女はこだわりなく受け取る。触って確かめ、匂いを嗅ぐように鼻の前にも持って行き、
「本当、容れ物からしてしっかりしてる。質が良さそう! 前は私も、こういう良い化粧品ばっかり使ってたんだ。香水はフランス製でさ。懐かしくなっちゃうな。嬉しいよ、ありがとう! 大事に使うね! ピーペと会う時だけ使おうかな」
と喜ばしげな声をあげた。
「え。それを渡されても、メアリさんの『商売』に当て付けられたとかは、思わないわけ?」
デスが陰気な呟きを漏らすと、メアリは軽く笑う。
「頬紅が娼婦の看板みたいなものだ、って話したから? だって、くれたのはピーペだよ。ピーペが私に意地悪な当て擦り、するわけない。良いものだから、わざわざプレゼントしてくれたって分かってる」
「ありがとうございます、受け取ってくれて」
彼女の信用にも救われた気持ちでそう言うと、メアリは
「こっちが貰ったんだから、こっちこそ『ありがとう』だよ!」
と重ねて喜んだ。
「いやもう君らがハッピーハッピーなら僕はこれ以上、何にも言うことないですけど」
言うことはない、と言う声は納得の行っていない、どうも何やら言いたそうなものだ。だが、メアリと私は気にせず、軽くハグしあい、温かい気持ちでしばしの別れを告げた。
暗がりの通りを、メアリ・ジェインが簡易宿泊所の方へ歩く。シルエットになったすらりと背の高い後ろ姿を見送る私へ、ビルが、
「それじゃ、辻馬車でも捕まえるか。ホワイトチャペル・ロードまで出るのが早道だ。行こう」
と促した。
「今朝、近隣で殺人事件があったからって、みんな出歩くのを止めるわけでもなく、街の今日の暮らしには大きな変わりもないようですね」
警察官は、巡回と聞き込みのどちらだか――「どちらも」かもしれないが、昨夜より目に付く気がする。しかし、違いと言えばそれぐらいだ。デスが答えて
「むしろ週末が近くて、この辺の人通りはいつもより多いかもね。あの調子乗りの新聞記者みたいに、『パブで騒ぐネタができた』って思ってる奴とかが出歩いてそうだ。被害者の知り合いじゃなければ、自分の知ってる界隈がロンドン中の噂になって、言っても悪いけど『興奮する』部類のイベントなんだろうし。これからしばらく、警察の捜査状況発表や、検死審問のニュースだって、野次馬が飲み屋でツマミ代わりにするだろ」
と言った。
「無関係な人は『話の種』にする以外、仕方ないかもしれませんが。私達はこれからが問題ですね」
歩道に並んで立ち止まり、ホワイトチャペル・ロードの、日暮れても落ち着いたようには見えない混雑ぶりに目をやる。
「いや、辻馬車なら……そら、あそこへ来たぞ。呼ぶから下がってろ」
ビルがそう言うや、口元へ手を上げ、鋭い指笛を鳴らした。
「僕、あれできないんだよね。小さい頃から何度も教えてもらってるのに。ビルが揶揄って嘘を教えてるんじゃないか疑惑」
デスがブツブツ言っているが、
「うーむ。馬車を呼ぶのもまあ少し問題だったみたいですけど、私が言いたかったのは今後の対策のことです」
私は話を戻した。
「次の『殺人実験』場所が、さっき見たハンベリー・ストリートの、一見閉じられていながら実は誰でも入り放題の庭だと確信して良いのか。できるとして、では、アレが『いつ』来ると思い、『どう』警戒すれば良いんでしょうか」
(つづく)