第三十四話 暗い町を歩く
私とメアリ・ジェインは連れ立って、サルーン・バーの出口からパブ「テン・ベルズ」を出る。一般バーの方では、もしかしたら怪しい新聞記者のポールが、手洗いからメアリの戻って来るのを待っていたかもしれない。しかし彼女は平気で「行こう、行こう」と私の腕を組んだ。
「ここからすぐだよ。細い通りを二つほど北へ行ってね。ハンベリー・ストリートを右、ブリック・レインの方角へ曲がる。二十九番地は、その角の建物だね」
メアリはこのパブの常連で、この辺りの道にも当然、詳しい。とっぷりと日が暮れて、昨夜の再現のように暗くなっている細い裏道を通り、ポール記者が言っていた「次の殺人事件が起こるはずの場所」、ハンベリー・ストリート二十九番地を目指す。
昨夜とは違い、今夜はすぐ後ろを、デスとビルが付いて来ていた。デスはパブから、小汚い見た目の、小さな金属製の丸缶を下げて来ている。
「それ、何です?」
私の視線を辿った従者のビルが、
「御前が食べ残された、ウナギのゼリー寄せだ」
と答えた。デスは恨みがましく
「残したら悪いと思ったから、『うちの猫に持って帰る』って言ったのに。これ、何かの空き缶に針金通しただけの『お持ち帰り容器』だろ。廃材利用の雑な容れ物に料金、取るんだ。うちに帰ればこんなの、百個だってすぐ作れる」
とブツブツ言う。
「分かっているから、作らないでくれよ」
ビルが素早く釘を刺した。
「へぇ、サーちゃんはウナギを食べるんですか……」
長い猫を思い浮かべ、さらに彼(猫)とデスとの関係を思い出し、デスが「サークル! ほら! お食べ!」と缶入りのドロドロを鼻先に突き付けるところまで想像すると、「……食べるかなぁ?」と非常に疑わしい気持ちになる。デスはデスで、
「『さーちゃん』……サークル猫のこと?! あいつ『ちゃん』付けするような可愛い猫じゃないよ?!」
と、びっくりしたような声を上げた。するとメアリがニヤニヤし、
「そっか、御前様のお屋敷には、猫がいるのね。この辺の野良とは違って、上等なニャンコなんだろうね! 御前様達は『猫にやるから』って言っても言葉通りだろうけど、ここらじゃ猫や犬に、って買ったら大体、人間用なんだよ」
と言ってきた。
「え、まあ定型文的な言い訳として、自分が後で食べるんだけどペットに持ち帰る、って表現はあるだろうけど。僕の場合、これ、本当に食べられないし。サークルなら何でも食べるはず」
デスのゲンナリした呟きを聞き、メアリは苦笑する。
「この辺さあ、『猫肉屋』っていう行商人が回るんだ。猫の肉を売るんじゃなく、『猫用の肉』って意味ね。私の住んでる部屋の上の階にも、猫肉売って生活してるおばさんがいるよ。キャットフード、ドッグフードに、って普通の肉屋じゃ並べない、廃棄部分の屑肉を仕入れて売るの。でも、屑肉を買う人は、猫も犬も飼ってない。全部、自分が食べるんだ。残飯でも売れ残りでも、困ってる時は、食べられる程度だったら何でも食べるよ。そんな買い手がいれば転売もできる。だからみんな、持ち帰り容器は自分で持ってるの。それか、手に入れたその場で全部、お腹に入れちゃうんだ」
彼女の話に私も、
「では、この辺のお店で『持ち帰り容器を』なんて頼むのは、『カモだからぼったくって下さい』と言うようなものですね。次から容器持参で行くとしましょう」
と答えたが、デスはすっかり拗ねた口調で、
「僕がカモとか今更でしょ。どうせ世間知らずの朴念仁だよ」
などと、自虐的な悪態を吐いている。
ところで私は、今夕中にもう一つ、用事があった。
「ねえ、メアリ。スロール・ストリートというのもこの近くだと思うのですが、どこだかわかりますか?」
ポリーさんの知人を見つけ、伝言を伝えたい。信用できそうならば「ご遺体」の確認に行ってもらえるよう、こっそりお願いもしたかった。アバーライン警部補達が先にその人を見つけている可能性はあったが、まだ今なら、私の方がポリーさんから知り合いの名前を直に教えてもらっている分、有利なはずだ。
「ポリーさんから、そこに泊まっていたんだと教えてもらって、お友達の名前もお聞きしたんです。彼女の無事を打ち明けて口裏合わせを頼むにも、ちょっと寄って探せればと」
伝えると、メアリも小声で教えてくれた。
「そっか。スロール・ストリートはねえ、そんなに遠くないよ。また南へ戻ることになるけど……ほら、ここがハンベリー・ストリート。あっちの、東の角で交差してる道がブリック・レインだよ。そこから南のホワイトチャペル・ロードの方へ向かって行く途中で、右へ曲がる通とこがいくつかあって、そのうちの一つがスロール・ストリート。貧乏人向けの簡易宿泊所が並んでる、細い通りなんだ」
「すると……」
頭の中で地図を描く。パブから北へ。ハンベリー・ストリートに出て右が東、二十九番地のあるという角でまた右へ曲がって南下し、途中でさらに右、つまり西へ入ればスロール・ストリート。何となく、ぐるっと四角く回る感じだ。
同時に、ふと思い付き、
「ブリック・レインというのを逆に北へ向かったら、貨物の鉄道線路にぶつかる感じですかね?」
と、夕方、北から南下してパブまで来た道順を頭に描き、尋ねた。メアリは、
「ああ、グレート・イースタン鉄道の貨物駅だね」
と答える。
「駅を回ってさらに北が、ベスナル・グリーン通り?」
「そうだよ! あれ、すっかり道、詳しいじゃない!」
「いえ。あなたと会う前、ベスナル・グリーン通りの近くで、元気な少年達から少し道を教わり、それでパブへ行けたので」
「え? ベスナル・グリーン辺りの男の子達……?」
メアリの声が怪しむものになった。
「待って。それ、不良のガキどもじゃないの? あの辺、オールド・ニコルズ・ギャング団っていうワル達が縄張りにしてて、昼間っからナイフ持って追い剥ぎもどきのことしてるんだよ。見た目で『子どもだ』と思ったらダメだから。あいつら、人殺しもする。四月とか、八月にあった殺しだって、犯人はまだ捕まってないけど、そいつらの仕業だって言われてるぐらい。ちょっと、まさかピーペ」
「いやいや、えーと。その……この近所には、そんなに危ないギャング団が?」
「いるよ! ハイリップ・ギャングとかっても言うけど、そっちは、元はリバプール・ストリート辺りのゴロツキのことだった。ハイリップ、リバプール通りの上の方って意味。出没場所の名前だね。リバプール・ストリートはスピッタル・フィールズ市場の西側」
メアリは漠然と、後ろの方角を指す。
「オールド・ニコルズ・ルークリーも、ベスナル・グリーンの地名だしね。やられる側にしてみれば、そんなのどのグループでも一緒だけど。ギャング同士が所属や縄張りで張り合って抗争してたって、私達には何団でも全部迷惑! あいつらは弱い者に暴力振るって金品を巻き上げるんだ」
ナイフを構え囲んできた、野犬のような少年達を思い浮かべる。私が一時的に制圧している間、意外とあどけないようなところも見せた気がするが、やはり最初の暴力的なアプローチが本性だったわけだ。今後も彼らを支配している大人達の指示により、どんどん酷い犯罪行為にも躊躇しなくなるよう、慣らされてしまうんだろう。
「やりきれないな」
私が呟く後へ、メアリは酔いも醒めた風の固い口調で続ける。
「特に売春婦はターゲットにされてる。夜、外を歩くし、お客といる時は、人目のないとこへ行って『仕事』する。襲うには好都合だよね。『仕事』が済んで独りで歩いてる娼婦を、囲んで脅す。そしたら、稼いだばっかりのお金をそっくり巻き上げられる。そうやって奴ら、娼婦を『収入源』にしてるんだ」
「卑劣です。ダニみたいにたかって、『ここで商売したいんなら金を出せ』という訳ですか」
「そう。手向かいしたり、思ったほど巻き上げられなかったら、脅しや暴力がエスカレートして、殺される人もいる。だから四月や八月、この辺で女性が殺された事件はそれだろうって言われてるんだ。でもギャング団の仕業なら、犯人が捕まっても安全にはならないよ。貧民街の凶悪なガキなんて、いくら捕まえても、無限にお代わりが出てくるもん」
「根を絶たないと、ダメなんでしょうね」
その「根」は、社会構造によって形成され、解消しない貧困だ。少年一人、娼婦一人の「改心」だとか「頑張り」だけでは覆し様もない。蟻地獄のように、雪崩のように、現状の生活レベルですら踏み留まることが難しく、ひたすら下へ下へと落ちて行く構造。
『だが、どうやって「根」を絶つ?』
私にも絡みつき、がんじがらめに張って苦しめる「根」だ。私もどうにかしたくて踠いてきたはず。
『せめて一人抜け出せれば。そう思っても、また、こうして囲まれている』
社会構造から変えるなんて可能な気がしない。だから、私独りだけでも上手く逃げ出せればと、身勝手に思ってしまう。しかしそう考え今まで足掻いて、首尾よく逃げ出せたか? というと。
『「根」から絶たねば、すぐまた絡め取られる。でも、どうやってだ』
使える退路を見つけられない計画のようだ。開けあぐねて手こずる錠のようだ。大きな引っ掛かりがずっと私の中にある。ことあるごとに思い出され、外側からも、内側からも苦しめる。
「あ、ほら、ここ。ハンベリー・ストリート二十九番」
メアリの声でハッとし、指された方へ顔を向ける。暗い中、さらに暗く、三階建ての古い建物があった。後ろから、立ち止まったデスの、
「ボロい……築百年は経ってる?」
という呟き。メアリが、
「私達みたいな、安家賃で部屋を借りたい人間向けの物件ね」
と言った。
(つづく)