第三十一話 同種の悪意攻略戦
デスの前へ置かれた、食欲をそそらない見た目の煮凝りウナギについては、それ以上、言わないことにする。私も、彼等が着いているパブのテーブル席へかけた。
「で、どうだったのさ、追いかけてみて。まさか、追いついたりしなかっただろうね?」
デスが早速、私の「犯人関係者追跡」の単独行について、心配そうに尋ねる。
「追わなくても良かったんだよ、むしろこっちが気付かれないで済ませたかったのに」
「まぁね、あなたにとっては、追いかけて確かめるまでもない『お知り合い』かと思いますが」
そう言われるものだと予想していただろうに、デスは少しギクリと動く。
「デスの顔色で気付いたんですから。そりゃもうあなたが知ってる人なんでしょう。それはいいんです。どういう人だか、事件と関係があるのかを咄嗟に、自分で探りたくなって動いてしまっただけです」
私はそう言って、デスとビルを順に見た。
気が揉めるのを隠さずソワソワしているデスの隣で、ビルは変わらず静かな表情だ。
「結論を言いますと、追いつきませんでした。というより、途中で付いていくのを邪魔された感じです。路地裏の少年ギャングが、妙に良すぎるタイミングで遮って来ましてね。私としては、全くの収穫無しでもなかったんですが。追っていた人物のことは見失いました」
伝えてから私は、カウンターへ酒の追加注文に向かったメアリ・ジェインを見ようと、身を乗り出した。まだ、間仕切りの向こうへ残してきたモヤモヤが気になっている。
「あのポールとかいう記者、どうも引っかかる」
そう言えば、
「……あなたさぁ。思った以上に、喧嘩っ早い? てか、突っ込んでくタイプ?」
デスが訊く。口調には非難より不安が感じられる。
「まあ。お腹が減っていると、多少短気になる、というところはあるかも知れません」
返事し、
「多少……?」
との聞き返しは無視して、レザーと布製のマスクを外す。そして自分のビターエールに口を付けた。
ビルが、
「三流新聞の記者の方は、何とかして記事を膨らませようとしてるんだろう。何が気になる?」
と、片仮面の顔を向け、尋ねてくる。
「ううーん。あの記者さんの表現が、どれもこれも気に入らないというのもあるんですけど。もしもわざと誤報を広めたがっているとすれば、まるで犯人の味方みたいだな、と思えたもので」
答える合間にビターを飲んだ。
「なるほど? でもさ。それって単純に、三文新聞の売り上げが増すように、ってだけかもしれないよ」
デスが、もう食べないことに決定したらしいウナギの皿を、さらに遠くへ押しやりつつ反論する。
「なるべく、事実があやふやなうちに、センセーショナルな中身でドギツく書きたいんだよ。その方が他紙と差をつけられて、ゴシップ好きに買ってもらいやすい。中身が間違ってても別に、構わないのさ。『本誌記者の更なる調査で新たに分かった事実』とかなんとか、手柄顔で訂正して、誤報を広めたことには知らん顔したらいいんだから」
「そりゃあ、売り上げのためという理由も、なくはないんでしょうけど。何というか」
飲み始めると、喉の渇いていたことが自覚される。言葉を探しつつ、私はもう少し口に含んだ。
「そう。路上の弱者を狙って切り裂いた例の『悪意』と、さっきの記者の話は、同種の悪意な気がします。……って、こんな表現で、インチキな霊感とか神秘主義だなんて思われたくはないんですが」
グラスの中身は常温だ。あまり炭酸もきつくない。苦いが味わいはある。アルコール度数は低めだ。
昨夜、メアリが教えてくれた雑学を思い返した。ビターの樽は店の地下へ運び込まれた後、発酵の仕上げがされ、手押しポンプで汲み上げて供されるそうだ。だから店ごとに、味わいも違うとか。
「まあまあいける」
ビターの感想を呟き、飲みかけをテーブルへ戻した。基本的に、酔って油断している余裕などはないので、酒はいつも味見までで止める。グラスを置いた手をそのままに、もう一度、
「いえ。私の実感としては『同種の悪意』で間違っていないですけれど」
考え直して話を継いだ。
「私は、あの記者の物言いが気に入らなくて、私こそ彼を悪意のある色眼鏡で見ているかもしれません。それで彼が殺人鬼側に味方してるようだ、なんて思うだけかも」
デスが、手にしたエールのグラス、私とは違ったペールエールでも入っているらしいそれを、飲むでもなく弄んだ。大きくて白い手の、形良い長い指が快いリズムで動く。彼は、
「記者がアレの共犯かどうかは、今のとこ全然、何の決め手もないよね。でも、ピーペの言うことが別に、全く外れてるわけでもないと思うけど。未明に路地裏で見たアレも、今、向こうにいる男も。寝る場所がなく路上で倒れているような弱者を助けるどころか、敢えて狙って傷付け命を奪うことについて、なんら躊躇いも、罪悪感もないわけだし。そこは同じだよ。それでいうなら次期首相候補と目されてる、大貴族スペンサー卿も同じ」
と言った。
話している中身は、心慰められるようなものとは程遠い。だが、デスの暗く沈んだ口調と陰気な声、冷静な言葉が、妙に私を癒していた。
話せる相手がいるのはいいものですね……と、思わず言いかけてから黙る。全く、油断している余裕はないのだというのに。
声は別の言葉にして、背を起こした。
「思ったよりずっと口当たりはいいんですが、でも、お酒では水分補給になりませんね。水をもらえたら助かるんですけれども。ここら辺の水は、買っても危ないですかね?」
どちらにともなく尋ねる。デスは確信がないようで答えず、ビルは「怪しいもんだな」という表情で斜めに頷いた。
「水道水だろうが、茶を頼む方がマシかもしれねぇ。沸かしてる分――曲がりなりにも飲食店、そこは沸かしてると思うんだが――多少、殺菌できる」
「そうお聞きすると、アルコール度数の高い酒が、一番安全そうに思えてきますよね」
その時、メアリが勢いよく戻って来た。耳に挟んだ断片から
「な〜に、もっと強い酒が飲みたいって?! ふふーん、私はこれよ、いいでしょ」
ジンのお湯割りらしいジョッキを見せる。と思うと、
「それよか料理! 何を頼んだと思う、当ててみて! なんとなんと! この店で一番美味しい料理の一つ、バッチリ作ってもらってるから! 出来上がったら店の人が持ってくるよ」
と得意げに笑う。そして今度はグッと声を潜め、
「でね、その間。私、ちょっと向こうのバーでうまいことやってさ。ピーペに失礼こいてたオッサンから、私らの飲み食い代分、回収してくる〜」
と、ウィンクした。さらに彼女は私の首に手を回し、ふざけて引き寄せる。安い香水と白粉、それに酒と汗の匂いもするが、不快感はなかった。
「ねー、腹が立っても、いきなり口喧嘩するよりさ。使いでがありそうなあいつの財布、すっからかんにしてやって、その後ゆっくり揶揄ってやる方が面白くない? ってことで、待ってて!」
囁いた後は答える隙も与えず、私を放して身を翻し、一般バーの方へ立ち去る。
「ちょ、そんな! 彼の相手なんかしないでください。仕返しなんか考えずに。誰だってあんなこと聞かされる必要ない。あなたが擦り減りますよ!」
私は驚いて後を追おうとしたが、
「いや待ってピーペ、待って! 案外、いい考えかもしれない」
デスが急に、慌てた囁きで私を引き留めた。
「何がいい考えなんです。相手は酒代を持ってるかも知れませんが、品性下劣に思えます。それに少なくとも、この辺りに住んでいる女性について、完全に見下していて……」
「そう、だからさ。いや小銭は関係なく。飲み食い代ぐらい、僕らがいるんだから。そうじゃなくて」
デスの黄色の瞳が、立ちかけた私を鋭く見上げる。
「メアリ・ジェインさんは、相手がどうだか見当つけた上で、敢えて行ったんだよ。誰でも、見下してる相手には油断するだろ。あの記者、若くて美人で、でも貧しい女性でさらに娼婦なんてことになったら、完全にいい気分で優越感丸出しに油断するんじゃない。そう扱われるメアリさんが傷つかないってことはないにしても、記者は調子に乗って、君じゃ聞けないような秘密をうっかり喋るかも。ま、待ってってば」
早口で言いながら、彼は大胆にも、私の袖の端まで指先で捕まえる。そしてさらに強く囁いた。
「あなたが行って、事態がマシになるかを考えて」
「うん……それは」
マズくなるだろう。心で即答できるぐらいには、そう思う。
「でしょ?」
デスはこちらの考えを読んだごとく、
「きっと彼は東洋人も見下してると思うよ、東洋人っていうか外国人全般を。あと多分、女性全般。それから自分が属する以外の階級……いや、もう。自分以外は全部、利用価値があるなしでの判断は別として、見下してる可能性すらあるよ。その上、彼は君に、さっき満座の中で反論されたわけだろ。そんなら、幾重にも重なった偏見に上乗せして、さらにもっと確実に、君に対して悪感情を持ってるよ。となればピーペが今、向こうのフロアーへ追ってったって、明らかにメアリさんの邪魔になるだけじゃないか」
「うーん」
その通りだと渋々、席へ腰を下ろす。デスはやっと袖を離した。
「ただ、心配はわかる」
デスが暗くボソボソ言う。
「あの記者が本当に事件の関係者だったら、なんかメアリさんが危険になりそうで、嫌な感じ」
私は頷いた。
「しかしながら、もし彼が関係者なら、手がかりを得るためには近付く危険も冒すしか……うむ。そうか。もっとうまく立ち回って、私が聞き出す役をしたら良かったですね」
後知恵でそう思い、余計悔しくなった。
(つづく)