第百八十二話 取り沙汰されている素性
私とデスは、ビルが再びコーヒーを持って現れるまで、大人しくデザートのマーブル・エッグを食べた。卵の殻により型取りされているクリームのお菓子は、この邸で毎回供される食べ物全てがそうだが、またしても大変美味だった。スプーンを置いて、
「ではポリーさんは、未明にホワイトチャペルから馬車で戻り、一休みした後はいつものように、ベティさんの料理を手伝う等して働いておられたのですか」
尋ねると、デスも自身の割り当て分の卵型菓子一個は食べ終わっており、頷く。
「あの人、これまでより何だか元気になってるっていうか、張り切ってるっていうか。新しい人があからさまに病人で、状態も良くないのを目の当たりにしたせいで、自分はそこまで病人じゃないからもっと動きたい、って気合でも入ったのかなあ。新しい人は結核だろ。細心の注意で隔離しとかなきゃだし、消毒も完璧にしなきゃ危険なんだけど、ポリーさんは『自分も看病する』って志願してさ。でも一応、ベティさんに看護婦長役はやってもらって、ポリーさんには直接の接触がない、補助的な手伝いだけ頼もうってことになってる。ちゃんとした知識と手段で対策しないと、看護人へも感染っちゃう病気だし。咳とかの症状が出てる間は、あからさまに危ないと思う。接触する人自体、少ない方がいい」
「ありがとうございます、適切なご対応だと思います。ポリーさんは勇敢ですし、無理をしてでも頑張る意気地がおありですけれど。病原菌には、勇気や根性だけで対抗できませんし、義心と勇気があるせいで却って無謀になるかもしれず、危険な可能性もあります」
「正しくその通り。それに、もう一つ理由があってさ……馬車で一緒に帰ってくる途中、あんまり活発にお喋りしてた訳でもないんだけど。それでも僕が見てる中でもポリーさんは、あの新しい人へ妙に突っかかりがちでさ。看病して手伝いたいっていう善意や勇気はそれとして、二人をあんまり近くに置いておくのは、お互いにとってよろしくないんじゃないか。少なくとも当分は、ってなってさ。これも、僕が考えて決めたっていうか実質、ビル達が決めたけど」
「うーん、そうでしたか……」
ポリーさんがアニーさんに対し、苛立った態度で喧嘩腰だったのは、私も覚えていた。
「ポリーさんもアニーさんも、困窮した宿無しの状態で、夜の路上にいたため、アレに襲われかかった。実に、似たような境遇です。だから逆に、お二人とも相手に対して近親憎悪のような、同族嫌悪のような感情になるのかもしれません。見たくない自分を、嫌でも相手の中へ見てしまうような感じでしょうか」
お互い、他人事だと思えなくて余計に辛さが身に迫る。そして、できれば認めたくない、直視したくない自分の惨めさや、先行きのなさを鮮明に見てしまう。そんな事じゃないだろうか。
「私も、完全に他人事ではないのですが……いや余談でした。そこは、ですから、彼女らも相手が嫌いというのではなく、自己嫌悪の投影と言えるのかもしれないですが」
しかし、そんな中でも、少し別の種類の反発があったのを思い出す。
「一つ疑問に思ったことがありました。ポリーさんは生まれも育ちも労働者階級のはずですが、アニーさんはもしや、ポリーさんとは同等の生い立ちでもないのですかね? 何となくですが、私達を見下しているような言動を感じました。あまり良くない意味での、中流風の態度と言うのでしょうか。昨夜の彼女は、誰が見ても取り繕いようもない酷い状態でありながら、『私はあんたら乞食女とは違う』というような、気取りめいたものを匂わせていらっしゃってね」
そのためポリーさんがますます、カリカリしていた気がする。デスは美しいが陰気な目元へ、さらに不吉なほど暗い表情を浮かべ、一部同意した。
「いや、あの人だって結局、労働者階級ではあるんだよ。ただ、馬車の中でちょっとだけ話したことで、彼女の父親がかつて女王様の護衛兵の連隊に属してて、後で貴族の従者になったってのがあって。プライドの根源みたいなのはまずそこにあるのかも。手がかりだったから、僕は帰ってすぐ機関を使って、軍の記録を調べた。彼の家族すなわち娘のアニーさんのことも、父親が軍に属してる間の分は公的記録があってさ。もう一つの気位の根拠は、彼女の夫かな。数年前に別居して最近亡くなってるんだけど、その配偶者、一時期は、一代貴族に叙されて議員になった実業家のお抱え御者だったらしい。だからアニーさんには小さい頃から最近まで、中流以上の暮らしを近場で見聞きして憧れるぐらいの機会が、中堅の労働者階級と比べたらはるかに多くあったかも。憧れて眺めるばかりじゃなく、夫と一緒に郊外の、雇い主の実業家の豪華な別荘近くで住み込んでた時なんか、実際にかなり中流寄りの暮らしをしてたんじゃないか」
デスの話を聞いて、アニーさんの話し方や態度を見たポリーさんが、苛立ちながらも「良いとこの奥様だったって分かる」と言ったことも蘇ってきた。
「ポリーさんのあの見立ては、故のないことではなかったと、証明された形ですねえ」
アニーさんの父親は、近衛兵から貴族の従者になった人か。「貴族の従者」といえば、デスにとってのビルがそうだ。また、アニーさんの亡夫が、爵位持ちの人物のお抱え御者だった、となるとデスの御者のヒューさんがその立場か。ヒューさんの妻、ベティさんは家政婦長もしているため、アニーさんのようにただ「御者の妻」では留留まらないが、彼女らの生活状況や威厳には「使用人」と軽んじられないものがある。下手な新興中産階級よりも、間違いなく、貴族の暮らしぶりには通じていそうでもある。
アニーさんの雰囲気や態度は、現状の悲惨さから見ればかなり不似合いなばかりでなく、あの街で誰にであれそんな態度を見せて、あまり得にはならなさそうなものとも考えられた。
「でもそれも、わざと反感を買おうとしてのことではまさか、ないでしょうからね。見栄を張るため? いやそれよりも、どん底状態になっているからこそ、自分で『そう』だと信じているところの振る舞いをしていたのかな。自分の記憶や追想を宥めて、自分の心を守るため、と言いますか」
考えてみればポリーさんも、初めて会った時は酔っ払って酷い状態だったが、「私はまともな人間だ」と主張していた。
「しかし貴族のお抱え御者の妻だった人が、現在あの状況とは。かなりの落差に思えますが、雇い主からの援助など全くないものなのでしょうか?」
「いや多分、夫と『別居した後で』死別したことが大きいと思うよ。ポリーさんの場合の話も同じ何だけど。あなたも審問で聞いてて分かっただろ、女性は、結婚生活がうまくいかなかった場合、他の生活を選ぶことも成り立たせることも至難なんだよね。特殊な職業的スキルや商才、人脈なんかを持ってて食いっぱぐれないとか、ある程度の遺産や資産が自分名義であって一応、無茶な浪費をしない限り稼がなくても一生暮らしていける、なんて場合は別として。女性は基本的に、稼ぎか財産のある男性の、娘か妻か母親をやってる以外では、生活が立ち行かないように設定されてる。労働者階級に生まれたごく普通の女性が、一人だけで働いて、一時期だけじゃなく一生通して自活していく方法は、この街だろうが田舎だろうが本当にほぼないと思うよ」
デスは滅入るばかりの事実を告げる。
「この街は、見た目は羽振りがよく最先端で巨大で派手ですが、生きていくにはなんとも……碌でもない街ですね」
「それ、今までもお互い散々、言ったと思うけどな?! ここが救いのあるような街だったらどうしてアレみたいなのが出るのさ。アレだけが唯一の信じがたい例外だったらどんなに良かったか。でもそうじゃない。存在がどうやら新奇で、種も仕掛けもまだ分かってないってだけで、悪意の中身はこの街の他の酷さと共通だろ」
その通りだ。首をちょっと振る程度で応えた時、丁度、ビルが食後のコーヒーを運んで来た。私はビルに向かい、
「アニーさんは別棟のお部屋へ隔離して、看病していただいているそうですね。今日一日、彼女はどんな風でした?」
と、訊いてみた。ビルは、
「ああ、着いてすぐ、消毒の目的もあり、ベティさんの指図で入浴や着替えをしてもらった。それから医者を呼んで診せた。後は食事時以外、ベッドで横になってたようだ。眠っただろうし、起きても起き上がらず休んでいたようだ。食事と、アルコール以外の飲み物を都度、届けている。ちゃんと食っているようだからそこは少し安心だが、病気と栄養不足、それに疲労で体が随分弱っている。かなり長く静養する必要がありそうだ」
と答えた。
「重くなった結核でしたら、そうでしょうねえ」
「医者が言うには、すぐ適切な養生をしなければ、間違いなく短い命だそうだ。あのまま裏街で暮らし続けたような場合、って話だがな」
ビルの声は落ち着いているが、アニーさんの状態は、アレに出会さなくても遠からず命の瀬戸際だったようだ。
「アルコール依存もあれば尚更ね」
デスが付け加えた。
「彼女もアルコール依存ですか。一夜限りの酔っ払いにはまあ、見えなかったですが」
私の言葉に、デスは詳細を重ねる。
「僕が警察へ、あの新しい人の外見メモとか持ち物のリストを取り急ぎ送った時点で、『被害者』の身元はあちらも既に、かなり明らかにしてたんだ。父親や夫の公的な記録まではまだ、調べきってなかったけどさ。現場の捜査はホワイトチャペル署が中心になって、例の裏庭と近隣を検証。建物の住民や近所の人への聞き込みも、ガンガン進めた。『被害者』がアニー・チャップマンって名前だとか、ドーセット・ストリートの簡易宿泊所へ毎週泊まってたけど毎晩は無理で、しかも病気で具合が悪いのに酒場で宿代を飲んじゃうってこととかも掴んでたよ。君が野次馬に、こっそり彼女の呼び名をリークしたのもあってか、すぐ知れたみたい。号外記事で書き立てられてる情報は概ね、警察が調べて公表したことと、警察では公式書類に書かなかった類の噂話だよ。中には『現場で死体を見てすぐダーク・アニーだ! って分かった』なんて、『顔見知り』のコメントも載ってる」
「夜の街で仕事をするのが常だった、とは彼女もポリーさんに引き続き『売春婦だった』との露骨な仄かしでしょうが……またしても、のいい加減な話も、出処は噂なんですかねえ」
私は壁際のテーブルへと避けられた号外の紙束へ目を向けたが、かなり盛大なため息も吐いてしまった。
(つづく)