第百七十九話 片付け準備すり合わせ
四階の倉庫部屋は暖房と照明、それにビルがさりげなく持ち込んだり探し出してくれたらしい椅子やクッションのお陰で、思ったよりも快適な作業場所となっていた。階下へ降りたデスが、普段なら日没後は動かすのを自粛するはずの解析機関に動力を入れ、動かし始めたのは振動と音で伝わってきたけれど、それも今は活気に一筆添えたぐらいの効果となっている。
ウォート爺さんは狼兄弟にうまく手助けして貰いながら、もう推進機関を大方、修理し終えていた。明日、実際に燃料を入れて動かしてみて、それで動くようなら充分、大陸を超えて東洋の方までも動くだろうと自信満々に伝えて来る。
「そうは言ってもな。これで最後の審判の日まで保つ、とは言えないぞ。『次に壊れるまで』しか、オジさんはよう保証できんけどなあ、あははあ!」
機嫌よく笑っている爺さんは、昼の食事時のビール以来、全然お酒は飲んでいないはずだが、それでも実に上機嫌だ。
「久しぶりに、上等の部品と道具をたんと見て、触っただろ。オジさん、良え物で良え仕事するのは、良え酒と同じかちょっと余計に、好きなんよ!」
多分、そういうことらしい。
ジム親爺は、作業場所では手持ち無沙汰で邪魔になっているぐらいだった。けれど、ビルが彼らのための夕食を満載したワゴンと共にやって来ると、酒場の亭主の本領発揮ということか、隣室の仮ごしらえのテーブルを、あっという間に整えた。
「飲み物をまだ運び上げるのか? 手が必要なら、俺も下へ降りるぞ」
ビルにそんな申し出までして、
「いや、廊下の突き当たりに物品用の昇降機があるんだ。だが、折角だから、良ければそこまで取りに来て貰おうか」
と、歓迎されていた。
「みなさん! 言っておきますが、お酒はありませんよ! 明日に備えて、さっさと出立の準備をし、眠ってもらわねばなりませんので」
私が言っても、思ったほど不満の声は上がらなかった。
推進機関の修理はほぼ出来上がり、食事の後に旅の荷物を整えれば良さそうだ。
「マダムの食事は、御前とご一緒にしていただくべく、いつもの食堂でお出しするようになっている」
ビルが言ったので、私はしばらく、四階を彼らに任せることにした。
「旅へ持っていきたいもの、あると助かるものをリストアップし、後で教えてください。それを元に、伯爵様と交渉してきますから」
ロムルスに伝え、ジム親爺には
「大事なお手紙を忘れないよう、しっかり荷造りしてくださいよ」
と声をかける。
「ああ。容れ物は約束だ、出発前には、あんたに渡す」
親爺がしっかり頷いた。後はウォート爺さんだ。
「ウォートさんも今夜は、ここへ泊まって行かれるでしょう? 明日の朝、気球の試運転に立ち会ってくだされば助かるのですが」
「そうだなあ。こっちの兄ちゃん達に万事伝えたから、多少のことでは問題にもならんとは思うけどもな! 姉ちゃんがそう言うなら、オジさんも明日の出発は見送ってやろうかな」
ビルは全てを聴きながら整って平然とした浅黒い肌の顔を見せ、片仮面の向こうで「予備の部屋に寝台が四つか」などと考えていそうなビルへ、
「お世話になりますが、どうぞよろしくお願いします」
私は代表して頼んでおいた。
ビルにエスコートされて二階の食堂へ降りると、デスはまだ来ていなかったが、テーブルにはほぼ準備が整っていた。空の皿と並べられたカトラリー、それからメートル・ドテル・バター(レモン汁で香り付けしてパセリや塩胡椒を練り込み味付けし、円筒形に整えて型押しもしたお洒落なバター)が準備されている。「ステーキですかね」と見当がついた。デスが席へ着いた後、ビルから私達へ、焼き立てをサーヴしてくれるつもりだろう。
「いやあ。久方ぶりの豪勢な食事です……ではないか。昨夜早い時間に、まともなお夕食をいただいたんですよね。何だかもう、何ヶ月も前のような気がしますが」
その後、一晩中起きて、夜中にエド少年が買ってきてくれた惣菜屋の揚げた芋を一つまみ味見した。未明にはアレと出会し、予定外だがアニーさんを助け、朝の中華街までは水も飲まなかったが、そこでは随分と美味しく懐かしい粥を朝食にできた。さらにライムハウスのパブで早めの昼食と、
「考えてみれば、あんな夜とこんな一日の割に、食事は随分まともに食べていましたよ」
帰りの気球で二時間足らずだが、よく眠れたのも幸いし、体調は悪くない。
「マダムはお元気そうで何よりだ。御前にも是非、見習って欲しいところだぜ」
ビルは言いながら、今日の夕方(つまり先刻)入手してきたばかりに違いない複数の新聞を差し出した。
「気にされているかと思い、お持ちした。今ご覧になるか、後になさるか?」
手を出して、
「見せてください! いや、デスが先ではないのですか」
既に受け取りながら、私は遅ればせで確認する。
「御前はまだ、機関であれこれしておられる。後でお渡しすれば問題ない。そもそも見たい情報はもうご自身で、新聞社へ送られた記者からの電信だろうが、警察と情報局のやりとりした暗号だろうが、解析機関経由で自由に復号してご覧になっているはずだ」
酷い情報泥棒で恐るべき間諜だとは思うけれど、そこは黙っておき「ならばお先に」と受け取った。
新聞は、どれも正規のボリュームではない一枚摺の号外だ。ついでに言うならタイムズのような高所得者向けの日刊紙は、こういった性急な号外を出してはおらず、ゴシップを売りにしている大衆紙が、派手な大活字で喧伝している。
『ホワイトチャペル殺人事件!』
手にした各紙にはどれも予想通りの見出しが、多少のバリエーションを付けて踊っていた。
「挿絵も地図も、今朝入った情報をさっき出すのでは間に合わなくて当たり前かもしれませんが、まだ無しか。又聞きの情報間違いもある程度、入っているようですが」
次々と目を通す。
「被害者はアニー・チャップマン、ドーセット・ストリート三十五番地の簡易宿泊所クロッシンガムズを拠点に路上売春で生活していた。髪の色が暗い色であることから『ダーク・アニー』のあだ名で知られる四十七歳の娼婦……こりゃあまた。何ともセンセーショナルに、先週のバックス・ロウの事件や、四月頃に女性が殺された未解決事件まで引っくるめ、『ホワイトチャペル地区の下級売春婦をターゲットにした連続殺人事件』だと決め付けていますが」
それでも彼女の名乗った名前と、「泊まっている」と言っていた宿の名前は合っている。
「私が朝、野次馬に名前をこっそり言っておいただけで、警察へ伝わって、ここまでの調べが届いたのでしょうか……」
現場にいたチャンドラー警部という、あのしっかりして厳しそうな警官には、「そこにある被害者の遺体が人間ではない特殊事情」をいち早く、こっそり伝えた。そして、本庁のアバーライン一等警部補と連絡を取るよう、そうでなくてもホワイトチャペル署所轄のウィリアム・シック部長刑事を呼べるなら呼ぶように、と言っておいた。あの忠告が、功を奏したのだろうか。
「正確な名前や住所は、僕があの新しい女性から聞き取って、ヤードの一等警部補へ電話連絡しておいたんだよ」
私の独り言に、怨霊の声か、妖しい木霊かという薄暗い声の返事をして、デスがゆらっと現れた。ディナージャケットというほど正式でもないが、簡易ながらも夕食用の服へと着替えている。不吉さと陰気さと死神の不健康さで錬成した亡霊のような雰囲気を絡み付かせている癖に、そして今は馬上とは一転、姿勢も再び悪くなっているのに、何故かやたらと優雅でもある。
「どの食事時にお姿を拝見しても思うのですが。豪奢な生活へ逆に意趣遺恨を残してお洒落な邸宅から永遠に成仏できない厄介不憫な地縛霊みたいです」
「何の話?」
灯りの届くところへ入ってくると、げっそり疲れた様子ながら生身の美青年(まだ色々と問題有りでおかしいのではあるが)で間違いなかった。
「ええと何でしたか。あの女性、アニーさんの情報をあなたがお聞きして、本庁のアバーラインさんへお伝えくださったのですか?」
「だって馬車の中で他に、何を話すのさ。酔っ払ってぐんにゃりしていかにも具合悪そうで、でも親切な篤志家が来て安全なところへ連れて行ってもらうんだなんて、君に騙されてるんだから。僕も話を合わせるしかなかっただろ。伝えたって言えば、外見とかも警察には教えといたよ。彼女の持ち物は、後で改めて提出しに行かないといけないだろうな。どうやら今回も『ご遺族』がいてさ。犠牲者が本人かどうかの確認に来ると思うけど、『ご遺体』は例によって見せられないしね」
「なるほど、それはそうでした」
偽体のぷよちゃんは今朝、ハンベリー・ストリート二十九番地の裏庭でアレに切り裂かれ、あの場で「死体」としてはこの上なく「惨殺体そのもの」に見えていた。けれども少し調べれば、人間ならあるべき器官があれこれないことも、動物の肉の組織でさえないことも分かってしまうはずだ。
「アニーさんの背格好とはまあまあ、似ていなくもないですが、顔や髪や服装となると、そっくりではなかったですしねえ」
「その辺は本当、倒れてる時点で、誰も知り合いが見てないことを祈るのみなんだけど。現場に一番乗りした警部さんはしっかり者だったらしいな。偽体の遺体を搬送するまで、余計な人間はなるべく『遺体』の側へ近付けなかったみたいだ。『遺体』を救急馬車で遺体安置所へ送った後も、ロープとか使って庭や建物を閉鎖して、遺留品や手掛かりを荒らされないようにしつつ、よく調べたんだってさ」
「それはなかなか、成果の信頼できそうなやり方です。しかし閉鎖といっても住民は?」
「そりゃ住民ごと閉鎖したんだよ」
「うわあ」
荷箱の店のアメリアさんは、一日中仕事にならなくて、さぞぼやいただろう。御者の仕事へ出かけようとしていた第一発見者のジョンさん、だったか、あの人もまた足止めを喰って、今日の稼ぎが減ってしまっただろうから気の毒だ。住民で参考人になる大人達と違い、浮浪児のエド少年やリッチ少年は、警察の隙を見てうまく外へ出されたことと思うが。
「住民に徹底的な事情聴取をする一方、庭や周辺では遺留品と証拠探しが念入りにやられた。っていうのも全部、ヤードのあの警部さんが情報共有してくれたんだけど。その間、外では噂が噂を呼んで、勝手に『殺されたのはアニーって人だ』って確信が形成されてたらしく、その人の情報がどんどん警察へ寄せられだしたみたいだよ」
デスはそう教え、私が号外を横のテーブルへ置くまで待って、席へ着いた。
(つづく)