第百七十二話 凸凹歯車噛み合いだせば
私がたまたま、過去の因縁で覚えていた数字の列が円周率であり、箱の鍵はそれで開いた。デスは私の、色々と伏せた説明を聞いて、納得と不満が混ぜ合わさった顔を見せた。
「いや、うん? ああ……数字の列を見せられたけど、円周率とは説明されなかったってこと……で、賭けには勝った?」
「そりゃ勝つために、意味もわからない数字を覚えたんですからねえ」
「勝って、何を貰ったの」
「そこは忘れましたね」
「嘘だ……まあいいや後で調べよう。君絡みのデータには全部、アクセスできるようにしてるんだし、どれかは推理すれば分かるはず」
デスは解析機関を使う「厄介なデス」の顔をして呟いたが、また私を見据え、
「でもやっぱり変だよ。どうやってさ。ただまる覚えしたんじゃ、短時間で三十桁は絶対キツいって。それに今まで覚えてるのも、って言うよりか、今になって急に思い出せるのも変だ」
と言い出した。
「思い出したのは、あなたが三・一四一五九、まで言ってくれたからです。それが呼び水になったのですね」
「そんな程度で? 三桁、余分に分かったからって、残りの二十五桁がずらずら出てくる?」
「出てくるんですよ。語呂合わせ(mnemonics、ニィマニクス)で覚えましたから」
「語呂合わせ……それだと三十桁もやったら、すごく長い意味不明な文にならない? 単語の文字数でやるやつだろ。How I Wish I Could Calculate Pi(πを計算できたらいいのに)で3.141592。これはまあ、綺麗に纏まってる」
「私は日本語で覚えたのですよ。あなたの言ってくれた数字をダイヤルで合わせ、頭の中で日本語の音に戻した途端、覚えていた続きの部分が、歌のようにすらっと纏まって思い出せたわけです。日本語の場合、文字数を数えなくても、数の読み方の音へこじつけて文章が作れます。英語で言うなれば、forがfour(四)、ate(食べた)がeight(八)、みたいな具合です」
「でもそれだと、同じ数が連続したり、短いスパンで繰り返したらもう、文章として意味不明にならない?」
「日本語では数の読み方の音が、こちらの場合とは違って、一つにつき一つ以上あります。一ならイ、イチ、ヒト、ヒ、ハジメなどの音にできるのです。それと日本語の単語は一音ずつ、イロハ四十七文字と濁音などの組み合わせでできているので、数字の音を組み合わせて一単語を作れば、その一言で数字何個か分を表せます。あとは作る単語の中身やまとまりを、自分が覚えやすいようアレンジする。ストーリー性を持たせるとか、何かの替え歌にするとかね。工夫次第で結構、何にでも融通が効く感じですよ」
私の説明に、デスは「便利そうかも」という表情を少し見せた。
「さあ、箱が開いたのですから、冷血親爺も先に私達へ言っただけのことはせねばならないでしょう。お茶をいただいて待ちましょう」
廊下の向こうの、階段の下辺りへ狼兄弟が来ているのは、二人が低くお喋りしている声と、茶器の触れ合う音の上がってくるので分かる。私たちに時間を作るべく、わざとゆっくり時間をかけてお茶の準備をしたに違いない。
私は階段まで行って、
「もう大丈夫ですよ、上がって来てください」
と、二人に声を掛けた。すると、壁に沿って四角くぐるぐると続いている、狭い螺旋階段の下から、
「おう、分かり申した」
「事は上手う運んだらしいのう」
との返事が聞こえた。すぐに足音が続く。振り返ると、扉近くでデスはまだ、部屋の方を窺っていた。彼はチラッと私を見、
「箱の鍵が開いたからって、あの人、約束を守るかな。もしも中身が、あの人の気にしてる相手からの、絶縁を宣言するみたいな手紙だったならまずくない? 逆恨みの八つ当たりで、僕らに酷いことするかもしれないよ」
と、疑わしげに囁いて寄越した。デスがまだ扉近くにいるのは、中から異変でも聞こえないかと、耳を欹てるためだったらしい。
「大丈夫ですよ。残念な手紙を届けるためだけに、あれほど手の込んだ箱を送ってくるはずはない。親爺から逃げて縁を切りたいのだったら、せっかく上手く離れられたのにまた連絡を取ること自体、しようとはしないでしょう」
「でも君、頑丈な箱だから毒とか爆発物かも、ってまで言ってたじゃないか」
「ああそれは、あの時点では誰が送り主か分からなかったので、ご亭主から話す気になってもらえるよう、揺さぶりをかけるためにね」
答えると、デスは束の間、よろっと脱力する。
「なんだ……妥当な推測だったから、普通にあり得ると思ったのに」
「いやいや。箱が鍵付き扉の嵌まったキャビネットの上段へ、あんなにも大切に飾られていたことと、箱に描かれたパイを分ける子ども達の絵柄の、明るく素敵だったことを思い出してください。どう見ても、敵から送られた危険物らしくはないと思いました。とはいえ、親爺を油断させるための根性曲がりな仕掛けだという可能性はまだあったので、一応、はっきりさせましたけれど」
「でももう、あのおじさんがそこまで念入りに恨まれてたら、僕らがどうやっても助けられなさそうな話だよね。違って良かったよ」
デスは眉を顰めちょっと身震いしたが、そんなだったとしても相手を「助けよう」との発想がまだ当たり前に口を衝くらしいことへは、私は心中密かに感心した。しかし感心したのを今、素直に伝える手がなくて、
「ところで三十桁もの数字鍵を取り付けて箱を作ったのは、あるいは自分で作ったわけでもなく、発注して作らせたのかもしれませんが、線路関係の技術者だというお婿さんなのでしょうかねえ。それとも、実は娘さんご自身が、数学の得意な方だったのか。なんとも興味深いことです」
と話題を移す。デスは僅かに肩を竦めた。
「そんなこと想像して、余裕ぶってる場合じゃないだろ。ねえ君ってさ、結局、あの野蛮で粗暴な兄弟を取り返すためにここへ来たの? どうして急にこのタイミングで」
ちょうど彼がそう言った時、噂の兄弟が階段の上まで現れた。
「ほぉん、誰が野蛮で粗暴じゃと?」
「ひょろひょろと貧弱な奴は得てして、そんなよなこと言いよるわ」
完全に聞かれており、しかも当て擦りまで返され、デスは「うっ」と呻いて黙る。
「先生ぇ、まずはお茶をどうぞ。喉が乾いとるじゃろう」
二人が、デスと私の間を遮るように立ち、大きな盆の上のなかなかゴツいポットと、重たそうな茶碗などを見せた。ポットの口からは湯気が上がっている。
「儂等は下で、先に頂きましたで。そんで一応、カップは先生と、宿の主人とそこの人のと思って三つ持ってきたが……二つで良かったかもしれんの」
「ほうじゃのう。野蛮で粗暴な儂等の淹れた茶では、どなたさんかは口に合わんと仰って、飲まれんかもしれんでの」
廊下に立ったまま、レムスの支えた盆の上でロムルスが茶碗へ紅茶を注ぎ、準備してくれる。
「二人とも、意地悪を言わずに、御前様にも差し上げてくださいよ。箱の鍵が開いたのは、御前様のお陰ですから」
伝えると、兄弟は初めて、「気に入らない」との意思表示を込めたのではない視線をデスへ向けた。
やがて、デスへも紅茶のカップが、ソーサーと共に渡された。青年は熱い飲み物を少し啜り息を吐く。
「だよね。下町で手に入る茶葉に、これ以上を期待するのは愚か者だ」
味に納得……というか、断定的な評価を下した発言が飛び出す。
「おお。ああ、今の発言は、御前様が何しろ貴族でいらっしゃるというだけの話ですから。ロムルス達の淹れてくれたお茶は、大変結構です。熱くて美味しくて、とても元気が出ました」
私は急いで、またしても誤解されそうなデスの言葉を、感謝の笑みと労いで上書きした。普段、デスが飲み慣れているような高級な飲み物は、荒くれの集まる酒場の台所をいくら探しても出てくるはずがない。少しマシな酒ぐらいは、主人秘蔵の棚の奥から出てくる可能性があるにしろ、だ。しかし、
「儂等は別に、先生ぇさえ良いなら、他のことは気にならんでの」
「そっちの口の奢った雛っこも、少しは仕事の役に立ったとの話じゃったしの」
ロムルス達は大人の歩み寄りを見せている。
歩み寄ると言えば、口に絶対合わないはずの下等なお茶を、デスも残さず優雅に飲み干し、器を返していた。「見るものが見れば」それは彼の行儀の良さの現れ、かつ和睦の態度だと分かる。惜しむらくは、狼兄弟にそんな上流風のさりげない「歩み寄りの意思表示」が全く伝わっていないことだが。
「まあ、ようやくなんとか仲良くなっていただいたところで」
私は無理やりまとめる。
「もうすぐ、部屋にいらっしゃるご亭主が、私達を呼んでお礼を仰り、諸々返してくださるはずです。そうしたらすぐに出発しましょう」
「準備は下に出来とるでの。先生ぇの服の包みも、ちゃんと揃えてある」
頷いたレムスが言う。
「儂等の荷物は元々失うてしもうたし、ここで増えたものも着替えのシャツ一枚ぐらいじゃからの」
ロムルスも補った。
「あなた、すっごく信頼されてるじゃないか」
デスが私の近くから、独り言だか私に言うのだか分からない調子で呟く。
「解決するために私が来たのですからね。彼らとは、今週半ば頃、メアリ・ジェインが連絡を付けてくれていたようです。たまたま今朝、ロムルスが私を呼びに来ました」
伝えると、デスは呆れるような納得するような息を吐いた。
「いずれ君は仲間のために動くだろうとは、君と出会った初めの時から思ってはいたけど。重なって欲しくない時に重なるものだなあ。今朝、アレが出て、君も誰も死ななかったのは最高としても、事件自体は起こってしまった」
「そうですね」
ぷよちゃんを、本当ならそこで犠牲になっていたはずのアニーさんの代わりに偽装して、状況を見届けたらすぐデスの邸へ戻る。私も最初はその予定だったのだが。
「状況はどうなっています? 目立った変化がありましたか」
簡単に訊くと、デスも短く
「今はまだ。事件のあった近隣から、噂が火事みたいに燃え広がってるところだって推測できるけど、夕方にはもっと酷くなる。号外やらなんやらで、一気にロンドン中の注目を集めるだろう」
と答えた。
「これからだよ。だから、戻れるものならさっさと戻る方がいいんだけど」
(つづく)