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蒸機都市【歯車仕掛けの殺人鬼】  作者: ミュウト・2
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第百七十一話 過去に遭いて開く

 割り切れない上に、どこまでどんな数字が続いているのかをまだ解明されていない円周率(えんしゅうりつ)は、何(けた)まで知られているのか。三十桁の箱の鍵をそれだと予測するからには、もちろんそれより多いのだろうが。そう思いながら(たず)ねた私に、デスは

「十年ちょっと前に、少数第七百七位までって発表がされてるよ」

 との返答を、「この街のカラスってほぼほぼ黒いのばっかりだよ」ぐらいの調子で返す。

「ちなみにそれを計算したのはイギリス人。ただ、四百何十位以下はまだ検算(けんざん)されてなくて、正確かどうか確かめられてないけど。一応、記録としてはそんな感じ。でも、今後もっと改良した解析機関アナリティカル・エンジンで計算できるようになれば、もっと沢山(たくさん)の桁まで、正確な数が分かるようになると思う」

「いや七百もいらないんですよ!」

 驚いたのは驚いたが、今ここでそんなにまではいらなくて、始めの三十桁だけ試せればとりあえず充分だ。


御前様(ごぜんさま)御説(おせつ)で正しいのかどうか、一度試してみるぐらいはタダですし、すぐにやってみましょう。円周率の途中のどこかを抜き出されたらお手上げですが、常識的に考えて、最初の三・一四から始めるのを試しましょうよ。アラビア数字を表記する時のやり方で、左端から普通に」

 言いながら私は、まず箱のダイヤルを左から「三」「一」「四」と合わせ始める。

「御前様、お手数ですが、七百桁の最初の三十桁を教えていただきまして」

「いや待って待って? どうして僕が覚えてると思うわけ?」

 デスの(あき)れと失笑が混じったような声で、私は作業を中断し彼を見直した。

「おや。ご存知(ぞんじ)なのでは」

「覚えないよそんな数字?」

「あれだけ得々(とくとく)と、円周率を求める人類の数学の歴史を語っておいて、ご存知ない?」

 呆れ驚くのは私だけでなく、ずっと辛抱強(しんぼうづよ)く(おそらく話の中身も半分以上は分からないだろうに)(そば)で口も(はさ)まず話を聞いていた、隠れ賭博宿(とばくやど)の亭主も同様だ。デスはたじろいだが、彼自身の呆れた顔も引っ込めはしなかった。


「や、だからそれは『知ってる』じゃないか。僕は知ってて話しただろ。公式があることとか、数学の論文として計算方法も結果も、何桁も羅列(られつ)して記録になって、発表も出版もされてるものがあるとか。なんなら解析機関で同じ公式を入れて僕も計算してみることができるとかさ。それだけ知ってるんだから、数字自体覚える必要なんてなくない? 料理人は料理の方法を知ってるし、漁師は魚の取り方を知ってるけど、四六時中(しろくじちゅう)仕事道具や魚を持ち歩いたりしてないよ」

屁理屈(へりくつ)のように聞こえますねえ!」

 ここに来て三十桁が分からないのでは、長い話の聞き(ぞん)ではないだろうか。宿の親爺(おやじ)もそう思ったのだろう、

「計算すれば分かるのか」

 と、若干(じゃっかん)(おど)しの入った声音(こわね)で尋ねる。デスは居心地(いごこち)悪そうになって「やめとけば良かった」とでも言いそうな表情にはなったけれど、そうは言わず、

「そりゃ分かるけど、まず使う公式から確かめないと。僕の書斎(書さい)まで戻って本を見るか、解析機関で情報局の記録から呼び出して、どこかの機関を借りられればそこで計算するのでも、できるはできるけど。三十桁ならそこまで時間もかからないだろうし」

 渋々(しぶしぶ)、「いかにも手間(てま)だし面倒(めんどう)だ」との感情を(にじ)ませながら答える。

「正直、そんなことやりたくはないな。他のことで忙しいし」

 本音だろうが、親爺の前で今、口にするのは、相手の感情の逆撫(さかな)でにも(ほど)がある。主人(あるじ)が、コケにしやがって! などと怒り出しても仕方ないぐらいの失言だ。


 私は(あわ)てて、

「おう、それはちょっと。できるなら、是非(ぜひ)ともなさっていただかないと。あなたが言い出したことですよ……!」

 そう口添(くちぞ)えした。するとデスは逆恨(さかうら)みの様子で

「だって覚えてる必要ないんだから、そんなすぐ出てくる方がおかしいって。何度も言ったみたいに、日常生活では三・一四で計算すれば充分、事足(ことた)りるんだよ。そもそも人間の記憶ってそんな、長々とものを覚えるようにできてない。何時間もかかる長い物語や歌を覚える人も、長期間かけて何度も訓練して、しかもいつも語って記憶を補強修正するから覚えてられるんじゃないか。しかも円周率は、意味の通った言葉の歌なんかじゃなく数字の羅列だ。それも一定の数が繰り返し出てくるとか、何倍かに増えていくとかの覚えやすい法則性すらないんだってば。僕は、考えたり記憶する力は、無意味に数列なんかを覚えるより別のことへ振り向けたいし。君だってそうだろ」

 と言ってくる。


「いや、ねえ。私がどうかより、ここの(おさ)まりがつかないですよと言っているんですが」

「そうだな。あれだけ自信満々に話しておられながら、『やっぱり鍵は無い』では済みませんぜ、伯爵様。三十桁、耳を(そろ)えて出していただくまでは終わらない話だ」

 宿の主人が、完全に裏稼業(うらかぎょう)へ戻った顔で(すご)む。デスはビクッとしながらも嫌そうに顔を(しか)め、

「これだけ教えたんだから充分じゃない? 後はもう、自分で調べられると思うけど!」

 と(つぶや)いた。私はさらに慌てて、

「ダメダメ、そんなことしたら無関係な一般人の数学教授か何かが、この人に(さら)われて無理やり円周率計算をさせられたりするかもしれないじゃないですか。その後、口封じに消されたりしたらどうするんです。被害を広げるのはいけませんよ」

 と取りなした。私の仮定に、「そんなことはしない」と亭主が渋面(じゅうめん)を作ったけれど、彼はこの件では、時に(われ)を失いそうなぐらい切羽(せっぱ)()まって見えた。疑いたいわけではないが、「しない」宣言だけで信用するのも考えものだ。

 デスも一応、その辺は理解できたのか、嫌そうながらもノロノロと言い出した。


「しょうがないな。じゃあ帰らせてよ、本は書斎のどこかにあるよ。どれがそれかを探す……あんまり気は進まないけど」

 書斎の壁いっぱいの蔵書(ぞうしょ)を思い出し、私も「すぐ見つかりますよ」と気楽に言う気がなくなった。

「でも、使い慣れた書斎なら、どこに何があるかはお分かりでしょうし……?」

「使い慣れてる部分はね」

 期待薄(きたいうす)な返事で、ますます不安になる。デスは両手を(こぶし)にし、こめかみ辺りへ当て「ううう」と(うな)った。

「本当、無理なこと言ってるよ。僕だって普通にしてて覚えてるのは三・一四一五九……ぐらいだもの。それも、教科書にそう()ってるのがあって、たまたま授業の時だかにあんまり退屈して、そのせいで見てたところを覚えちゃったんだけど。覚えてる人でも大抵、それぐらいだよ」

「なるほど続きは、一五九か!」

 私は三文字に飛びつき、ダイヤルをさらに三つ回した。


「言っとくけど! 無理だからね! それ以上は!」

 デスが情けない悲鳴を上げるが、私は

「でもここまでの番号は、おそらく合っていますよ。ダイヤルの感触から分かります」

 真剣に、かつ希望の(きざ)しがそっと育つのも覚えながら(ささや)く。

「感触から……?」

 デスが手を下ろし、顔を上げて目を光らせた。

「おい。伯爵もおかしいが、お前さんも一体何なんだ」

 親爺も驚きと疑いを口にする。私は「しっ」と二人を止めた。

「デスの推理で、当たりかもしれません。この調子なら、もしかしたら残りは私の……」

 指で探って、と言いかけたところで、全く違う(ひらめ)きが訪れた。闇夜を切り裂く稲妻の輝きに、そんなもののあることも忘れて半ば埋もれさせていた記憶が、瞬間、鮮やかに照らし出される。


(これだ、捕まえろ!)

 思った時にはスラスラと流れ出た。

「3.1415926535 8979323846 2643383279」

 小数点以下、三十位までを指先で合わせていく。違った、ダイヤル式の鍵は三十個なので二十九位までで済む。

「何それ、適当(てきとう)にやってない?」

 デスが疑念を込めて尋ねた時には、三十個目のダイヤルが微かにかちりと鳴っていた。

「……どうぞ、ご主人。開いたと思いますよ」

 思うのではなく実際、箱の(ふた)は、閉じ口へ薄く隙間を作っている。持っている私には分かる。しかし()えて、開けて(のぞ)くまではせず、そのまま宿の亭主へ渡した。

「まさか」

 泡を食って受け取った彼は、恐々(こわごわ)、蓋を少し触る。それが抵抗なく持ち上がりかけたことに驚愕(きょうがく)し、再びサッと押さえた。とはいっても、うっかり鍵を触って回し再び施錠してしまわないよう、最新の注意を払っているのは、見るからに明らかだ。彼の手が、急に別の存在の手になって、彼の意思には従わなくなったかの勢いで(ふる)え出していた。


「あ、()いた。あんた……どうやって」

 血の気の引いた顔で、親爺は(きし)る声を(しぼ)り出す。その姿は、「欲しいものが手に入った」との興奮よりも、大事な娘から贈られた開かずの箱の「中身は一体何だったのか」との、不安や恐怖に襲われているようでもあった。

「私たちは少し、部屋の外へ出ましょうか。しばらく、お一人でご(らん)になっては」

「えっ! ちょっと、本気? ってか君、円周率なんて知らないって顔してながら、暗記してたの? どういうこと!」

 デスが茫然(ぼうぜん)としたところから急に立ち直り、騒がしく言い立てる。主人は椅子の上で箱を(ささ)げ持ったまま、(たましい)が抜けた人形のように鯱鉾(しゃちほこ)()り、私達のことを見ても聞いてもいないようだった。

「さあさあ、少し時間が要るんですよ、廊下へ出ましょう。(おおかみ)兄弟がお茶を持ってきてくれるでしょうから、一息入れましょう」

「廊下で立ち飲み? いやそんなことよりさあ」

「出ますよ!」

 私はデスを引っ張る勢いで立ち上がり、部屋を出る。デスも「待ってよ!」と(うるさ)くしながら着いてきた。扉は閉じておくけれど、部屋からそれほど離れず立ち止まった。親爺はある程度したらまた、私達を呼ぶはずだ。


「三十桁、覚えてたの?」

 デスは勢い込んで問い(ただ)して来た。

「小数点以下三十位まで覚えていましたかね。その先はちょっとあやふやですが、覚えた頃にはもっと先まで正確に言えたはず」

「何でさ! 覚える必要ないのに! じゃなくて、覚えてるのなら、円周率って言った時点で教えてくれたら良かったじゃないか。あのおじさんと一緒になって、僕を()め立てて(いじ)める(ひま)にさあ!」

「その時は、思い出さなかったんですよ。大体(だいたい)、円周率だと思っていなかったのです」

「何それ? そんなことある?」

 デスはもう、さっぱり意味が分からないという顔だ。

「あのねえ。確かに覚える必要のない、馬鹿げたことでしたよ。若い頃に、まあ色々ありまして、中身の詳細(しょうさい)(はぶ)きますが賭けをしたと思ってください。これこれの、意味もわからないような数字の羅列を、限られた時間でどこまで正確に覚えられるか、というような。で、覚えたのがさっきのです。そうか、円周率だったのか」


(つづく)

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