第百五十九話 口当たりは良く身に効かせ
中華街の細い通りに、簡素なテーブルが出て老人二人がそこで何やら食べている。私は丁寧にお辞儀をし、「おはようございます」と声をかけた。
二人は匙を止めて私を見る。白髪に白髯の、痩せた仙人のような老人と、禿頭に丸顔が艶やかな、こちらも別種の福の神のような老人だ。
「知り合いかな?」
「いや、知らんな」
二人は互いに短いやり取りをし、愛想笑いも見せないが、かといって敵対的でもない表情で私を見直した。
「ご挨拶、ありがとう。しかし、あんたはどなたかな?」
「わしらになんぞ、御用かな?」
私はもう一度、丁寧に会釈した。
「中国語は得手ではないので、英語に戻して失礼いたします。私は日本の出身で、主に従い何カ国か旅をして参りました。龍動へは先週、着いたばかりです。それで……実は」
しばし躊躇ってから、その後をキッパリ、
「本日は半日、お休みをいただいたので、どうしても美味しい食事……本物のお米の料理を食べたいものと思い、ここまでやって参りました。中華街でなら、まともな食事が食べられると、同胞からも教えられたので。目立たないように、下町で買い求めた古着を着込みまして、なんとかここまでは来たのですが。どこのお店へ行けばいいやら、そこまでは同胞も教えてくれておらず。歩いておりますと、お二人のご様子が目に入りましたもので『もしや』と思い、ついお食事中に不躾にも、お声をかけました。ご無礼は申し訳なくて、恥入るところでございますが、どうか教えてくださいませんか。ご年長者様お二人が、そこで美味しそうに召し上がっておられるのは、お米のお粥ではございませんか?」
と、一生懸命な調子で尋ねた。
二人の老人は顔を見合わせ、それから段々、ニヤニヤと可笑しげに笑い出した。
「そうですか。事情は分かりましたよ」
「よく分かりました!」
「わしらがここへ来た頃は、こんな店も碌々なかったもんだが。どうでしょうな、ご同輩」
「さあて、随分と昔のことでほとんど忘れてしまいましたな。それでも少し、思い出すものはありますよ」
「恋しく思うものは、実になんとも驚くほど『なんでもない』もの」
「その『なんでもない』ようなものが、異国へ来ると手に入らん」
「夢にまで見るのは、国へ帰ればまことにしようのない、そこらに捨ててあるほどもありふれた、つまらぬ些細なものですが」
「遠い土地となった途端に、千金積んでも手に入らん。手に入らんから余計に欲しくなるわけでな」
「遠くへ来たものだけが、知っている苦しみでしょうかな」
「苦しんだものだけが、どうにかして作り出そうとするのでしょうな」
全く文化や風土の違う土地で、頼れるものも周囲にはなく、元いた人達から向けられるのは主に無理解と偏見と蔑視。あるのは「同じ背景を持ち同じ懐かしさ恋しさだけは分かり合えるお互い無力な同胞達」というのが彼らの移民してきた頃のこの場所だったはずだ。それも大して昔ではない。四十年前、英国側から清国へ、いわば言いがかりを付けて行われた侵略戦争、通称「阿片戦争」の後のことだから、私が生まれた頃の事件か。
(ではこの街は、言ってみれば私とほとんど同い年か)
私のこれまでの人生分の時間をかけて、大勢の清国人そして中華系の文化を持つ移民や船員、商人達が築いてきた「異国の港での足場」がこの街だろう。
「見事なものですね」
私は周囲の、イギリス建築を基本にしながらあちこちが中華風に形成されている街並みを見回し、そう言った。
化物のような大蛤が、蜃気楼を吐くというが、この街は、いかに小さくみすぼらしかろうとも実在している。二人の老人がどれぐらい昔にこの場所へ来て、それからどんな冒険があったにせよ、今はもう本国へ戻ることも考えず、このままここへ骨を埋めるつもりと見受けられた。それが初秋の朝から、全く気候も天候も違う空の下、なのに達観した穏やかさで、仲良く粥を食べる光景となっていたのに違いなかった。
老人二人は立っている私を見上げて少し目を細め、自分達の前の食事の碗と見比べる。
「お手前の仰る通り、これはそこそこ、まともな米の料理ですな」
「この街の外ではなかなか、味わえない程度にはまともでしょうかな」
「おい、店員さんよ! 出てきてこちらの旅の婦人に、ご注文を聞いたらどうかね?」
おじいさんの一人が中国語で店の中へと声をかけ、少年のような若い店員が、愛想のかけらもない仏頂面で現れた。
「何にするのか? お代は先払いだよ」
中国語でぶっきらぼうに尋ねられるが、おじいさん達が「こらこら!」と窘めた。
「このご婦人は欧州を巡って、まともな料理はこの街にしかあるまいと、忝くもお前の店へ足を止めてくんなすったんだぞ?」
「邪険にすると福を逃すぞ!」
「大将に怒られるぞ、わしらは黙っておいてやるけどな」
大袈裟に言われて、少年店員は肩を竦める。
「別に、料理を出さないとは言ってねえだろう。何が欲しいんだよ」
「注文は、そうだな、わしのお勧めの五目粥」
「新しい卵をちゃんと使うようにな。払いはわしの方へ付けておけばいいから」
「米をたっぷりな!」
「いい器で出せよ。中華街の恥にならんように。でかい方の器でな!」
「調味料も忘れるなよ」
「なんなら酒も付けて来い」
老人二人がポンポンと言うので、店員は「爺さん達、いっつも好き放題言いやがって。食い終わったんなら帰れよなあ」などと憎まれ口を叩きながらも、店の方へ注文の料理を整えに引っ込んだ。
彼らの会話は、聞き取る分にはギリギリ付いていけるけれど、同じようにポンポンとは喋れない。私は、苦笑して聞いているばかりだ。
「さあ、あんたもここへ座んなさい」
「ゆっくり食べて行けばよろしい。わしらと座っとったら、文句を言うやつもおらんよ」
おじいさん達は英語に切り替え、私を小さな椅子の一つへ招いてくれた。常連の彼らと一緒なら、実際、安心して食べられそうだ。
「ありがとうございます。思い切ってここまで来て良かったです。昼間でも行かない方がいい、と止める同胞もいたのですが、やっぱり来て良かった」
「行くなというのはおおよそ、ここへ実際には一度も来たことのない人ではないかな!」
老人は笑う。
「この街も他の場所と中身は変わらん、普通の人間の住む普通の街よ」
「巷の噂では、妖怪が集まって住んどるか、法も常識も通じん異界のように言われているらしいがなあ」
「ただ本当に、危ない場所もありますでな。夜にアヘンを吸わせる店や、娼館へは行かん方がいいな。荒っぽそうな船乗りには、声をかけたりもせん方が安全じゃ」
「あんたは行かないだろうが、同胞にもそう言うて注意してやるとよろしいな」
ありがたく話を聞いていると、大きな器に熱いお粥がたっぷり入って届けられた。
「具沢山ですねえ! 素敵だ!」
演技ではなく心から喜ぶ。
「口の中をやけどせんように、ゆっくり食べなさいや」
「こっちの調味料を足したら味が変わるでな。色々、試したら良い」
「ただ、一度に入れすぎんようにな。これは辛いぞ」
「おい、店員さん! わしらの酒はまだか?」
「婦人にはお茶を差し上げなさい」
またこき使われて、少年店員は鼻を鳴らしつつも、飲み物などを持って来た。
「お代を……」
財布を探ろうとすると、老人二人ともが手を振る。
「年上が面倒を見る。ここではそういうしきたりだ」
「年長者の顔を立てるもんだ」
「しかしそれでは」
形ばかり辞退して、再度の「任せておきなさい」に「ありがとうございます」とお礼を言って、お粥とお茶はご馳走になることとする。ただ、奢られっぱなしでは終わらないので、
「お二人に、今日の出会いを感謝して、是非、お酒か何かをプレゼントしたいのですが。良い店をご存知でしたら教えてください」
と頼んでみた。
「ほお、感心な心がけ」
「良い店は色々とあるがな!」
「しかしあんたは、粥だけ食べられれば良いのかな? 思い切ってここまで出張ってきたからには、何か東洋の品物で、買いたいと考えとるものがあるのじゃないかな」
「酒か、お茶か、小間物か。それともお菓子や調味料かな?」
洞察が深い。こちらとしても話が早くて助かった。
しかしひとまずは、
「そんなに色々と売っているお店があるのですか?」
と驚いてみせる。
「おう、あるわいな。この街も、出来た初めとは全く違う。もはや店出しも同胞ばかりが相手ではないからな」
「英国にいながら異国風の場所で遊びたい連中向けに、それらしい娯楽も土産物屋も多数あるぞ」
「こっちは、あの作り物の『日本人村』のような、柵で囲まれた催し事ではない、本物の街じゃがな。得体の知れん中国人だらけで危ない怖い、と敬遠するかと思いきや、中華街の遊ばせ処目指して、わざわざ夜になってから来る者も多いのじゃ」
「あんたもまあ、少し違うが、わざわざ来た口と言えば言えるかな」
「アヘン窟や娼婦でなく、米の粥がお目当てじゃったがな」
老人二人はそう笑って、「何が買いたい」とまた尋ねた。
「それでは、清国風の服、というようなものはあるでしょうか?」
「服?」
「私の雇い主は、人を招いてパーティを催すのが好きでして。それも仮装や変装をして集まるパーティが特にお好みで、この秋冬にも、何度かある会の中に、必ず仮装パーティがあると思うのです。それでもし、清国の衣装で、着るのに簡便かつ手頃な値段のものが手に入ればと」
「ほう、あんたが清国人に変装されるかね」
「いえ、私は手伝い側の人間です。むしろ雇い主に『今日いただいたお休みで出掛けて見つけたお土産です』と渡しまして……」
「なるほど! 土産を気に入って貰えれば、あんたがまた、ここへ粥やらまともな飯を食いに来る言い訳になる、ということじゃなあ」
「ええ。ただ中華街へ行ったというのでは、しかも一人で行ったと分かれば叱られるかもしれませんが、気の利いた変装衣装となると、ちょっと目のない方なので。うまくいったらおそらく、私の払った以上のお小遣いも、また下さるかと」
二人は面白がり、
「ふーん、相手の好きなものを贈って気持ちを緩める、か。利口なやり方だ、良いじゃないか」
「すると、外の人間が喜んで買っていくような、ここの土産物らしくて『いかにも』な衣装でなければな」
「あの店なら有るのじゃないかな」
などと互いに言い合うと、「食べ終わったら案内しようかい」と身軽に立ち、目的ぴったりの商店まで連れて行ってくれた。
(つづく)