第百四十一話 過ぎしラッダイトの幻影
夜中を回る前に、私は「殺人実験」の予定地、ハンベリー・ストリート二十九番の裏庭へ入った。先ほど、仕掛けを整えた時同様、お誂え向きに誰もいない。建物から裏庭へ出る階段の柵と、塀の隙間の「隠れ場所」は空いていた。
それだけ確認し、もう一度、表側の一階の一間、アメリアさんの店の前へ戻る。窓からもドアからも灯りは見えないが、さっきまでの「留守宅」の気配とは微かに違った。ゆっくり様子を見ることもせず、合鍵でそっとドアを開け、中へ入る。ポリーさんと、ぷよちゃんを運び込んだ時同様に暗いが、やはり空気は少し違う。
(私が街路へ出ている間に、お戻りになったようですね。そしてベッドへ直行されている)
私が夜中や未明に「荷物を取りに」入っても不干渉で、放っておいてくれるとの約束を守ってくれるつもりだろう。
外をちょうど、辻馬車が通る。音に紛れて偽体を入れていた箱を開け、ぷよちゃんを引っ張り出し、ドアに内側からもたせかけておいて、箱は元通り閉めた。
(実に使いやすい箱です。丈夫で開閉しやすいように作っていただけて助かった! ヒューさんが器用なのは予想していましたが、ボブくんも結構、丁寧な手仕事のセンスがありますよ)
今回のためだけに使うのは勿体無いぐらいの箱だ(とはいえ他で使う用事もないが……)。それでもアメリアさんから見れば、「荷箱」としては素人仕事だろう。箱自体をほとんど無視して、偽の中身にだけ目を向けていた老女の姿が思い出された。その彼女は、カーテンの向こうに狭い寝台と仮造りのような寝床を並べ、今は孫と睡眠中だ。
(聞き耳を立てているようでもありませんね)
むしろ鼾が聞こえて安心した。
(では行きましょうか、ぷよちゃん!)
こちらは寝息の心配すらない、「眠れる人体もどき」の偽体へ心で声をかけ、ほのかに温かい感じのするぷよぷよの体を、半ば背負うようにして持ち上げた。
見慣れた暗がりの裏庭へ出る。空席となっている「隠れ場所」の隙間へ、ぷよちゃんを担ぎ下ろしていい具合にもたれさせ、自分も何とか残りの空間へ蹲った。
(さてこれでよし。合図の装置を手に持って、と)
階段の柵の裏へ引っ掛けて隠しておいた小球体を、手の中へ回収する。巧妙なことに、さくらんぼ大の小さな金属球は、一方がツルツル滑らか、もう一つは溝を刻んだザラザラの手触りにしてあって区別が付いた。紐を少し辿れば、どちらがどちらかすぐ分かる。
(ツルツルが表通りへ通した紐に繋がっている方で、ザラザラは裏通りを通した方ですね。しかしこれは上手い。暗闇でも見分けられる、いや「触り分けられる」ようになっているとは)
そこまでしっかり気が付いているデスの、実用的且つ細やかな配慮には、少し舌を巻くものがあった。
(暗い中で「仕事」するのがどういうことか、しっかり想像できているのは頼もしい。その気があれば、目覚ましい泥棒道具の開発者にもなれそうですが……などと、これは余分な思い付き)
暗い裏庭に動きはなかったが、街の音は曇った空に反響し、判別し難く籠もり、混さり合わさって聞こえていた。蒸機都市、ロンドンは、本当には眠らない。例えどこかでまどろんでいるように見えることがあっても、そのすぐ奥では醒めている。目覚めながら、止むことのない恐ろしい夢をも、ずっと見ている。
今夜もパブが閉まり、簡易宿泊所が、台所で屯している人々の間から宿泊料の払えない客を追い出す時刻が来る。寄る方ない人からでもさらに暴力で何がしか奪おうと、悪意を持って狙う者さえいる荒れた外界へと。アレはその悪意の一つに過ぎないが、
(しかし「最も新しい一つ」かもしれず、しかもいつまでも一つのままでは無いかもしれない――蒸気機関で動く自動装置だとしたら、それらは「複製が可能なもの」かもしれない)
そう思い付き、俄かにギョッとした。
(いやいや。解析機関や何かだって、そんなにたくさんはないでしょう。ややこしい機械が、そうも増えるもんじゃない……)
内心で否定しながら、否認は願望で気休めに過ぎないと、同時進行で理解する。
(紡績機もジャガード織機も、蒸気機関車も電信や電話だって、すごい勢いで普及したんじゃないですか。ややこしい、作るのに高価でとても実用に耐えなかったあれやこれやは、技術革新でいつの間にか「当たり前」に作られ、大勢が使うものとなる。機械が社会の中で増えるかどうかは圧倒的に、「使えば得、使わねば損」と判断されるかどうかにかかっている。人の主義や嗜好、「好み」では、決定的には左右されない)
十八世紀末から新技術があれこれ発明された。蒸気機関で動く自動紡績機や織機が出てきた時は、それまでは職人の熟練を要する手作業だったことが、糸を補給するとか機械の操作や整備をする程度の、「機械の補助をする」単純作業になってしまった。また、機械は短時間で大量に糸を紡ぎ布を織ることができたため、市場へ工場生産の安価な商品が出回った。それは昔ながらの手工業品では、価格でも生産量でも競争できない、圧倒的な物量だった。
繊維工場の経営者達は、自動機械を入れなくては同業他社の競争相手に敗れ、儲けを上げられなくなると気付く。そこで次々と機械が導入された。機械操作のためには安価な賃金で済ませられる女性や子どもが雇われた。熟練労働者は失業した。怒った労働者達は徒党を組んで機械を打ち壊して回った。事件を知った各地の工場街で同様の暴動が起こり、機械の破壊が繰り広げられた。
(ラッダイト運動と呼ばれるものですが。私も知識としてしか知らない。もはやそんな時代から、七十年ほども経ったことになりますか)
本当のところ、事は単に「人間の仕事を奪う機械さえなければ」で終わらない、社会構造上の問題だった。
機械導入を決める工場の持ち主達、さらには工場の生産や販売のコントロールによって投機的なビジネスをする商売人達の思惑は、別段「労働者から仕事を取り上げ苦しめよう」でもなければ「機械を用いて人の暮らしを便利にしよう」でもない。「より儲かる方へ」――それだけだ。そのために労働者達は不利な条件で働かされ、突然職を奪われたり、また駆り集められて別の職へと就けられたりする。情に訴え自分の思うような仕事が欲しいと願ったところで、機械より早くたくさん安く作れない労働者に、回せる仕事というのが既に無い。
(だからって、今までは指示通り働いて貰っておいて、「今日からはもう全部機械がやるから人間はクビ」というのは、人の心がまるで無い。雇主やその機械への憎悪が燃え上がるのも、感情的に理解できることではあります)
工場労働者が少しでも立場を安定なものにしようと各所で再々試みてきた賃金交渉などの労働運動は、法律で保護されるどころか逆に締め付けられていた。
(議会へ出たり、議員を援助したりできる人達は特権階級やお金持ちで、工場を持っていたりそれへ出資する側ですから。当たり前と言えば当たり前の流れ)
産業革命後の社会は大半の労働者や一般市民にとって、安定を感じて暮らすことが難しく先の見えない、散々苦労しても報われない社会となっていた。
(機械製品が出回って、安く買えるものが増え、機械の動く場所で賃金を得て機械と共に労働する人間は増えた。生産も消費もスピードを増して、止まることがないようだ。しかし時代の最先端、世界一の大帝国、そこの首都たるこの街は一体、本当に「豊か」なのだろうか)
七十年ほども以前。生産の主体が人間の手の技ではなく機械仕掛けに取って変わられてゆく不安を、ラッダイト達は、目に見える、目の前の「機械」にぶつけた。彼らの暴力的な活動は抗議、不満、不安の発露として、世間を騒がせ世情も不安定にしただろう。けれど機械の破壊によって、彼らの状況が「好転する」事はなかった。
ラッダイト達の暴動を見、それらが時の権力転覆の「革命」にまで発展しては大変だと危惧した政府は、「機械破壊法」という法律を作る。機械の破壊は犯罪として厳罰化された。
また、暴動の指導者や労働運動を主導していると思われる容疑者達を大量に検挙し、賞金で釣って互いに密告させ、裁判にかけた。最終的に、暴動の首謀者として有罪になった数人を「見せしめ」の絞首刑とした。
イギリス各地で起こった暴動へは、場所によって大量の軍隊も投入し、厳しく取り締まった。
それにより、ラッダイト運動は盛り上がったと見えてから十年と経たず、鎮圧され消散した。
(どうするのが良かったのでしょうね? 機械が作られる時、そこに「人の利便のため」という考えが「全く無い」はずはない。より楽に、効率よく、少ない労力で多くの成果をもたらして、暮らしを豊かにするんだという。「人のできないこと」を機械に代わってもらって、「できること」へもしていける、という)
その目で見るなら、熟練工達が、自分達に変わって工場へ入れられた目の前の機械を憎悪するのは、やはり筋違いだったろう。きっとラッダイト達も、全員ではないにせよ幾人かは、機械へ暴力を向けても「筋違い」だと感じていたのじゃないだろうか、とも思う。
(ただし機械の発明や導入は純粋に「人のため」だけのものでもない。作った人間や使う人間が「得」できるようにとの計算を、必ず含んでいますよね。機械を作るまでにかけた労力を回収し、それ以上の儲けを作り主や持ち主、それからそれらを上手く「運用」する小才の持ち主へ、なるべく巧妙になるべく多く利益をもたらそうとの計算と駆け引きが……)
物事を面倒にし、人が損なわれる胸糞の悪い事件まで惹き起こして来たのは、今までも人の欲だ。
(やはり、アレがある事で、誰がどう得をするのか、が肝)
それ次第で、あの「殺人鬼」も特殊な悪夢だけでは終わらなくなるかもしれない。
(ならば。「損をさせる」のが命題か!)
(つづく)