第百三十四話 意外で健気な妨害者
情報を総合した結果、今夜遅くから未明の間にアレが出る可能性の高い「実験予定地」、ハンベリー・ストリート二十九番地の裏庭。そこを外の通りから見張ってもらい、「殺人鬼」か「実験関係者」でも見かけたらすぐ知らせてもらえるよう、私は合図の装置の糸を、通りの片側の建物の、足元近くへと這わせて設置していた。
大変地道で、事前に自分で設置したとは言いながら、フック付きの小さなねじを見つけるのも楽ではなく、膝や腰にも負担な作業だ。周囲へ怪しい人物が来ないかも、警戒していたつもりだった。ところが、小さな子どもが姿勢を低くし、静かにじわじわ寄って来ていたことにまでは気付いていなかった。
声をかけられ、意表を衝かれながらも、
「この間、コマーシャル・ストリートまで荷物を運んでくれた、この辺りに住むお兄さんじゃないですか」
小声で返事すると、彼は無言で、しかし頭を大きく動かして頷く。今日は「弟」――まだ学校へ上がっていないぐらい小さく見えた、血の繋がりは不明ながら彼の「弟分」のことは、従えていない様子だ。
暗くて顔もほとんど見えないが、殺した声で「何してんの」と声をかけて来た彼の目は、好奇心でキラキラしているのだろう。半ば想像で補いながらも「よく見えた」気がする。
「こんな夜遅くに、あなたこそ、ここで何を?」
問いかけると、少年はこっそりしゃがんでいた姿勢から用心深く立ち上がり、
「まだ、遅いっていうほど遅くないもんな。手伝い仕事、色々してるんだ」
と、そっと答えた。
「急いでたり酔っぱらってたりする大人って、全然、道が見えてないんだ。オレは、よーく見てるだろ。良さそうな大人だったら、そいつの落とした物、拾ってやるんだ。そしたらお礼に小銭くれたりする。それに、もうちょっとしたら、酔っぱらったお金持ちが道へ出て来るだろ。誰か馬車、呼んでこいって騒ぎだすかも。うまくいけば、すごく稼げるんだぜ」
「うーむ。商売熱心なのは結構ですが。酔っ払いに関わるのは感心しません! 大体、あまり遅くなると危ないですよ」
特に今夜は! と言いたかったのを堪えて囁く。少年は「大丈夫、いっつも気を付けてる」と簡単に頷いて、
「それよか、手伝いいらないのか? なんかやってただろ、オレ、きっと手伝えるぜ!」
と、改めて、小声ながら熱心に言い出した。
「おお、私の手伝いねえ?!」
意外な再会に続け、予想外の申し出で、私は束の間、お手上げ気分になりかけた。
彼が元気で、私を私だと認めて寄って来た上、また話しかけてくれたことは嬉しい。しかし今夜は大変な、とても危険な夜になるかもしれない、いや、「なるはず」だ。彼のような子どもは、誰であれ、なるべく早く、どこか遠い安全な場所へ行かせてしまわないといけない。
「小母さん。オレ、小母さんのこと何度か見かけてたよ。夕方とか。でもオレ他で手伝ってたり道路掃除してるとこだったから、呼ばなかった。いるのは分かってたんだ」
思った以上に、彼は私のことを認識していたようだ。
「目敏いお兄さんですねえ」
「今夜はまだ暇だから。手伝い要るなら、小母さんには、ちょい安くしてあげてもいいぜ!」
少年は以前と同じく、熱心に売り込んでくる。
「まあちょっと、ではこちらへおいでなさい」
私設の「秘密の合図送信装置」的な、実際は原始的に紐と鳴子の原理とさほど変わらないもののはずのそれを、通りの片壁の目立たない場所へ引く作業は中断した。塀の隙間へ、さりげなく隠し込んで離れる。そして、ハンベリー・ストリートから遠ざかる方向へと、小さな少年を連れて歩き出した。
「そういえば小母さんにもらった余分の金。大したことない額だけど、考える練習ってくれたろ?」
彼は歩きながら、そう言い出した。
「あれ、どうしたか知ってるか? 知り合いの姉ちゃんに預けたんだ。全部使われてもいい覚悟があるなら、信用できそうな大人に預けるのもいいって、小母さん言ってたろ」
なんだか、以前に会った時より親しげでもあり、得意気でもある。
「リッチ……あ、前に小母さんの馬車呼んだちっこい弟のこと。あいつの母ちゃんがいなくなってからは、ずっとオレの弟なんだ。だからオレがセキニン持って、立派に育ててやるんだ。あいつが一番……じゃなくてオレの次にってことだからゲンミツに数えたら『二番』だけど、オレの次に目一杯、得できるよう考えてやる」
ませた口調で、思い付いた先から喋るという具合ではあるが、見た目の印象よりは幼くないのかもしれない。それとも、大人びざるを得ないのか。それでいて、今は「子どもらしく」も感じるのは、自分の話を聞いてもらえるのが嬉しい様子だからだ。彼はどこへ向かうのかも警戒せず、隣を歩いて来る。私も「比較的安全」な、明かりが多く人通りも多い道の方へと歩いた。
(大人の見張りは警戒していましたが、悪意も敵意も持たずに観察している目敏い子どものことは、警戒の外でしたねえ。次からはこういうことも考えにいれて、もっと慎重に動かねば)
今のところアレに関係しそうな人物の気配すらないのは幸運だったが、子どもの安全のためにも、同じ油断はもう繰り返せない。自戒を胸に、けれど少年の話へは、
「ふむ、リッチ君のお兄さんは、とても感心なお兄さんらしいですね」
と相槌を打った。小さな影は背を精一杯伸ばし、ぐんと胸を張った。
「エドって呼んでいいぜ! 小母さんは、会うのも二度目だし、まあ『お得意さん』だからな」
そんなことを言う。
「リッチはまだ、あんなだろ。放っとくと、持ってるものをすぐ年上の悪ガキに取られちまう。損な交換とか、馬鹿みたいな誤魔化しにも騙されるんだ。オレら、この辺りの仲間でうまいことやってるけど、そういう悪い奴もいるんだよ。自分ばっかり得しようとしてズルい奴。小母さんも気をつけろよ。小さい相手にはちゃんとワリビキしてやって、拾った食い物や使えるもの分けて庇う、マトモな奴もいるけど。リッチは、オレが色々教えて守ってやらねえと」
「今夜、リッチ君はどこに?」
エド少年一人がトコトコと付いてくるのを見下ろし、尋ねると、
「ねぐらで待ってる。オレが帰ったら一度は起きて『おかえり』って言うよ。そしたら二人で夜食食う。オレがうまく稼げたら夜食持って帰れるからな。食った後はオレも朝まで寝る。あいつがもうちょっとデカくなったら、夜にも手伝わせてやるんだ。でもまだ子どもだろ。子どもにはもう、遅い時間だからな!」
と、答える。エド君にももう、充分遅い時間ですよ、と言うのは簡単だが、言えないものでもあった。私は黙って頷いた。
彼はまだ、話したいことがあるようで、小声の早口でまとまりなくも意気込んで続けていた。
「小母さんがこないだ、『考える練習』する分だって金、足してくれただろ。だから考えてさ。あの時リッチが余分にもらった分も、オレが代わりに預けたんだ。『立て替え』で、出世払いだ。オレは大きいし強いから、これからもどんどん稼ぐだろ。稼いだ分の半分は……なんてったっけ、『共有財産』だっけか……それにする。とにかくオレとリッチ二人のために貯めといて、役に立つよう使うんだ。今はオレが稼いだ分のが多いから、オレが貯める方へ回す分のが多いけど、リッチだって金持ちの御婦人から同情されて、すげえ良い食い物や服、貰ったこともあるからな。そん時は、あいつ自分からオレに分けたもんな。オレらの稼ぎはだから、『共有財産』だよ。貰った分をなるべく残して財産を増やすんだ。オレの分の半分はいっつも……じゃなくてもできる時は絶対、モリーに預ける方へ回す」
「モリーさんというのが、そのお知り合いのお姉様ですか」
「うん、そう。正式にはアンナ・マリアって名前だぜ。マリア、マリー、だからモリーだろ。前にはデイム・スクールの手伝いしてて、でも、そのガッコのセンセー、婆さんだったから死んじまって。ガッコがなくなった。今はシティで花売りしてる。けど、ガクがあるんだ、モリーは。センセーの手伝いできるぐらい賢いんだからな! 読み書き計算もすっごく、できる。オレらにも教えてくれるんだ、その方が損しないから。本当にそうだぜ。金を預けとく『利子』代わりさ。オレ難しい言葉も分かってるだろ、こういうのも彼女が教えてくれたんだ!」
「それはすごい。モリーさんはお金をまとめて、銀行にでも預金されるのですか?」
私が尋ねると、エドは首を振る。
「ううん。金は、モリーが今よりかいい仕事見つけるために、もうじき一度、使っちまう。そいで仕事を見つけた後で、稼ぎからちょっとずつ返してくれるんだ」
「ほお。いい仕事というのは……?」
少年は頭の良いその女性を信じているらしいが、騙されている可能性もある。それとも彼女がもっと悪い大人に騙されていて、集めた金を取られた上、望まざるにも関わらず「プロフェッショナル」にされてしまうことまで考えられた。
けれどエドは、
「まず、服をもっとまともにするだろ。それで話せそうな『お得意さん』の御婦人に、仕事を紹介してもらえるよう頼むって。なんてってもモリーはガクがあるんだろ、だから日曜学校や慈善会の手伝いみたいなことももっとできるんだ。シティの『お得意さん』達から贔屓にもされてるよ。オレらも見てるからよく知ってる。まともな格好すれば、もっと高級な手伝いもやれる。そしたらもっとお駄賃がもらえるだろ。そうやってって、うんと金を貯めたら、自分でデイム・スクール開いて先生になれるかも。そしたら良いとこの子どもも習いに来て、いっぱい金を払う。ほら。オレらに楽々、返せるよ」
と答える。
「ほほう。そうなるならば良いですねえ!」
私が言うと、彼は
「だろ!」
と得意気に返事し、ますます熱心な様子で私に付いてきた。
(つづく)