第百三十話 懸念も共に乗り合わせ
馬車へ乗り込んだ時には、私も鼻が慣れたのか、それとも防塵用のマスクのフィルタに使う布(邸で用意してくれるガーゼは抗菌作用のあるハーブなどと一緒に保管してあるらしく、気持ちの良い移り香がほのかにしてくる)を新しくしたおかげか、デスの服から漂う「サークル猫特製香水」の臭いもそれほど気にならなくなっていた。
ポリーさんも、臭いに関しては結構平気そうな顔で、偽体のぷよちゃんを挟んで私と同じ側の席へ座る。デスだけがまだ顔を歪め、彼が使うにしては質素すぎる粗い布地のハンカチで自分の鼻を押さえている。
「さて、出発ですね」
私が言うのを受け、デスが御者席との間の窓を叩いて合図した。手綱を取るビルが馬達に「進め」と指示を出し、箱馬車は動き出した。
裏門は暗く、ヒューさん達からの賑やかな「いってらっしゃい」もなしで、静かに閉められる。
日没は午後七時前。私達が食事を済ませている間に、日は落ちて残照も薄れ、通りのガス灯には火が入っていた。私達はまだ窓を閉めず、車内でのランタンも灯さずに暗い中で並び、また向き合う。
「さて、それではこの後の動きです。ビルさんとは打ち合わせてありますが、これからイーストエンドへ向かい、コマーシャル・ストリートの適当な場所で止めて……」
私が言いかけると、急にポリーさんが
「あのさ、少し気になるんだけど」
と、切迫した小声で遮った。
「ピーペさんは今週毎晩、張り込みに出かけていただろ。同じ通りを嗅ぎ回ってるって気付かれて、あの『殺人鬼』や仲間の奴らから、逆に見張られてたりする心配はないのかい? それに通りの住民にも、顔を覚えられて『ここらでウロウロ何してるんだ』って怪しまれたりさ?」
昼食や夕食時に必ず顔を合わせ、その日のことを話していたデス達とは違って、ポリーさんは、私の行動の細かいところは詳しく知らなかったのだった。それなら心配も当然だ。
「ええ、私は他所者な上に東洋人ですから、多少は好奇の目で見られたり、胡散臭がられもしましたよ。ただ私は今週、現場と予定されているはずの建物へ『箱』を置かせてもらう『商談』のためと、知り合いの露天商を尋ねるために、昼間から通っていたのです。それが夜になってまたウロウロしていても、もうご近所の方も見慣れてきていたと思います。そして、『殺人実験』の関係者らしい者や見張りは、私の方からも探しましたけれど、いない様子でした」
一番嫌な仮定では、「全然別の場所、別の時にアレが出る手はずだから、見張りも偵察もいなかった」ということも考えられる。けれどハンベリー・ストリート二十九番で「予定通り土曜」つまり今夜の未明(あるいは明日の夜、日付が変わるまでという可能性もあるにせよ)に「実験」が決行されることは、デスが解析機関を用いてクライド子爵達の電信連絡から確かめていた。
「アレに関係していそうな見張りや、怪しい人物がいないようだったのは、彼らが今夜に備え、敢えて事前にはうろつかないようにしているのだとも考えられます」
ポリーさんが「殺された事件」の容疑者が全く捜査線上に浮かんでいないことは、新聞や世間の噂でも明白だ。概ね、「イースト・エンドのギャングの仕業」あるいは「立ちんぼの娼婦(事実とは違うが、誤解されたポリーさんのことだ)の客の仕業」とされている。しかもそのギャングなり客なりが「誰」という名指しどころか、「この人物が怪しい」という仄かしすらされていない。だから、「実験者」達は自信を持って「次の実験」に向かうつもりでいるだろう。
(新聞や噂のように探したって、容疑者が上がらないのは当然ですが。ポリーさんは「貧民街に暮らす最低ランクの娼婦」などではなく、住み込みの仕事をしていた家から出奔してこの夏、数週間前にホワイトチャペルへ流れてきた生活困窮者だ。友達や知り合いさえも極力作らないよう、心を閉ざしてパブや路上や簡易宿泊所の隅で、先の見えない日々をやり過ごしていたのです。あの辺りを「馴染み」にしている「客」も、「縄張り」と目している「ギャング」も、彼女とは関係なかったのですから)
そうして世間が、事実や真相から離れたところで見当違いの「犯人像」を勝手に作っている限り、「真犯人」はより「安全」となる。きっと余裕綽綽、次の「実験」に取り掛かる。
「事細かに下見をしない、ぶっつけ本番のようですけれど、その場の状況に合わせてアレがどう動くのかを知りたいのなら、細かな準備なしの方が『実験者』達にとって望ましいのかもしれない」
私が言うと、デスが「そうだね」と応じた。
「あの『殺人鬼』が『自分で考えて』動く、行動表を持った自動装置だって仮定が正しいとして、まあ僕は正しいと思ってるけど。実験の目的は、状況が概ね同じだけど少し違うところで、指示命令書通りの動作をまた再現できるのか確認したい、ってことだと思う」
「具体的には、別の場所でも再び、人を切り裂いて殺せるかどうか、ということでしょうね?」
「そう。単に一連の動作ができるかだけじゃなくて、現実の街のその場の状況に対応して、着手から撤収までを実行できるのか、っていう」
「何故そんなことを目論んだのかを、早く訊いてみたいです。アレと操り手を一網打尽に捕まえてね」
「あのさ、『孵る前からヒヨコを数えるな(Don’t count your chickens before they are hatched.)』って知ってる?」
デスが緊張と不安で強張り切った、不吉で陰鬱極まる(それなのに無駄なほど美貌の)顔を上げ、皮肉たっぷりに言う。
彼の言った諺は「とらぬ狸」と同じ意味だったが、
「ああ、孵ったヒヨコが、予想より大きかったり多かったりしたら困りますねぇ」
わざと曲げて返す。
「いやそう言う意味じゃないんだけど! どうしてそんなに自分に都合良く自信満々、っていうか余裕? なんで? それとも訳あってのハッタリなの」
デスの呆れ声へ、
「いやいや。『泥棒を捕らえてから縄を綯う(lockthestabledoorafter thehorseis stolen、泥棒に入られた後でドアに鍵をかける)』という諺を、むしろ思い出したのでね。普段は割合、好きな諺ですけれど」
「だろうね」
余計なくせに素早い合いの手は聞き流し、
「今夜それでは困りますから。アレが出て、事が起こった場合、警察への連絡は、すぐに付きますね?」
と確認する。
「まあね、あそこからだとコマーシャル・ストリートの署が近いかな。警察には電話もあるから、本部のアバーライン警部補へも早めに連絡できると期待したいところ」
電信は、今のところはデスの側がクライド達のやりとりを見ているばかりのようだが、それができるということは逆もまた然りなのだろうから、
「完全に、関係者を一網打尽とするまでは、事件関係の連絡には私達も、あまり電信は使わない方がいいのでしょうね」
私は思い付いてそうも言った。
「うん、暗号を使ってやり取りする手はあるけど、暗号なんて解読するためにあるみたいなもんだから。まあバベッジ卿の考案した骨董的価値はあるけどもう有名な暗号を、油断だかズボラだかわかんないけどそのまま使って会話してるような奴らに、僕の暗号はまず解けないだろうとは思うけどさ。復号作業をさせられる警察の担当者が可哀想だし」
返ってきた言葉は、デスにしてはかなりまともな、働く事務方への思いやりを含んだものにも思えたが、そうではなく暗号使用者全般を小馬鹿にした態度と思うべきなのかもしれない。
私は話を戻し、ポリーさんに、
「とにかく、私はあの通りでは、そんなに珍しくもない『アメリアさんの店に来るお客』になっていますよ。それから、アレの関係者と出会すとしたら今夜、本当にあの『殺人鬼』が来たその時かと思います。少しはご安心いただけましたか?」
と訊いた。
「ピーペさんが見張られてないってことには安心した。でもまだ、この馬車は目立ち過ぎる気がするんだけど。これぐらい大きくないとみんなで乗れないし、いざとなった時、立て篭もるにしても乗って逃げ出すにしても、この車なら頼りになるだろうとも思うよ。でもさ」
ポリーさんの口にした「いざとなった時」が、冒険小説の破天荒な格闘シーンめいたイメージで心に過ぎった。あの「殺人鬼」が人間離れした怪力と動きで、鋭く大きな刃物を振り回して襲いかかる。デスや私は白刃の隙間を逃げて間一髪、馬車へ立て篭もる。すると「殺人鬼」は遮二無二、馬車へ体当たりしたり、切り掛かったりし始める。車体が傷付く大音響と無茶苦茶な振動の中で、ビルがなんとか手綱を取り、馬達は走り出す。夜霧を裂き、ガラガラと敷石を鳴らして疾駆する馬車を、あの「殺人鬼」の巨大で不気味な影が猛スピードで追撃し……
「怖い怖いやめて! 怖過ぎる予想!」
私の空想が見えたわけでもないだろうが、デスも「立て篭もる」「逃げ出す」などの単語から同じような(もしくはもっと恐ろしげな)想像を、ついしてしまったようだった。けれどポリーさんは、
「だって、すごく立派な二頭立ての箱馬車だろ。馬も見事だ。荷馬車を引いてる老いぼれ馬だとか、貸し馬車屋の痩せ馬と大違いだって、誰が見ても分かりそう。先週、初めてピーペさん達に会った夜は、夜中も過ぎて夜明け前の真っ暗な時分で、人通りもない寂しい道だったからまだ隠れられたかもしれないけどさ。今夜、宵の口から貧乏人で溢れかえってる街の貧相な通りへ乗り入れたりしたら、どうにも目立つんじゃないか?」
デスに向かって、怯まずに心配を告げた。
「そうです。だからこの馬車は、夜明け間近になって人通りも減るまで、路上の同じ場所へ止めておくことはしませんよ。そのために、誰がいつどう動くのか、今ここで確認しておきましょう」
私は答え、ポケットから地図の写しを出して広げた。
(つづく)