第百二十九話 否も応もない腹ごしらえ
夕食は、パイや煮込みなど、昼食のメニューをそのまま再現した手軽さに見えた。そして、給仕するビルの手間も割愛され、朝食の時のように、私達が勝手に欲しいだけ取って食べるビュッフェ形式だ。
「落ち着かないな……」
かなり遠い席で(離れて座るように私が言ったせいだが)、デスがぼやく。普段と違う形式の夕食、普段とは違った席へ座らされていること、そしてこの後に控える恐怖の冒険を思ってだろう。
「どのみち落ち着きませんよ。アレをどうにかしない限りね」
私も決意を新たに、しかし食事は大切にと、並べられた食べ物からあれこれ、適量を選び取った。
「ちゃんと食べてくださいね!」
一応、遠くのデスへ声をかけるが、彼は憂鬱そうな唸り混じりで
「ビルにも何度も言われた。食べてって、だけど、この臭いの中で食べられると思う?!」
と返事する。
「そこはそれ、鼻を摘むとかなんとか……」
サークル猫が臭くしてしまったデスの服は、もちろん着ているデスの一番近くにあるわけなので、大変お気の毒、ではあるのだが。一旦脱いで、また食事が済んだらもう一度同じ変装を、などと、悠長に着替えを繰り返してもらう時間がない。
「臭いは慣れるものですし! 私達もだいぶ慣れてきましたよ。ねえ」
ポリーさんを振り返ると、彼女は微苦笑を返した。
「猫のあれは、しばらくは時間が経つほどキツくなる気がするけどねえ」
「流石に明日までには、少しぐらい薄まるのでは」
「何か酷いこと言ってない?!」
「いえ! 気にせずお食事を続けてください!」
デスは聞こえない恨み言をいくつか呟きながらも、スカスカして白く見える皿へフォークとナイフを付けた。
ポリーさんと同席しての食事は初めてだったが、彼女は余り食べていなかった。今夜のメニューは、馴染みのない遠い国のややこしい宮廷料理ではなく、この街の気やすい食堂やパブでも見られるだろう庶民的な料理ばかりだ。食べ方や行儀に戸惑う心配のない、おそらく彼女も好みの味では、と思える品ばかりに見えたが、
「いつも、もっと遅くに食べるからさ」
ポリーさんは、私にそう言い訳した。
確かに、邸へ来てからの彼女は、私達の晩餐を片付けた後の時間に、ビルやベティさん達と夕食にしている。それは、かなり夜遅い。ただし、今、彼女が食べられないのは、そのせいばかりではなさそうだった。緊張もあるだろうが、断酒して数日。アルコールの脱けた状態での体調が「良い」とまでは、まだまだ感じないはずだ。それどころか、急性の離脱症状は治っても、全体として「酒を飲んでいない状態」への違和感や不快、不安があるはずだった。酒無しで食事だけ食べるのでは、食欲も湧かないかもしれない。
それでも彼女は気丈に、古着の変装で私と並び、立派な食堂のテーブルで食べる。
「お好きなものだけでも選り取りして、とにかく食べられるものを召し上がると良いですよ」
私はそう忠告した。
「もしかすると何事も起こらず、ずっと馬車で待っていていただくだけになるかもしれません。それでも、夜明けまでは帰れない見込みです。だから腹ごしらえは、しっかりとなさった方がよろしいです」
ポリーさんは、食欲がなさそうではあったけれども、
「……そうだね。お腹が空っぽのまま夜通しじゃ、寒くもなるし、余分に疲れもするだろう。弱ってちゃあ、ピーペさんを手伝って、あの柔らかい身代わり人形、運ぶのに良くないね。こないだから、食べても夜に吐いちまったりして、今も体が受け付けるかわからない。けど、やっぱり食べとくよ」
と答え、決然と、肉や付け合わせの野菜を自分の皿へ入れた。
先週より以前、彼女はきっと、空腹による疲れや寒さも酒で誤魔化し、夜を過ごして来たことだろう。毎日毎晩、少しでも不安や惨めさを忘れ、とにかく意識を失って眠るために飲む。けれどまた、知らない街や路上では、恐怖心を振り払い元気を付けて起きて歩くために飲む。そんな状態だったのじゃないだろうか。
きっともうここ数年は、「食べる」ことより「飲む」方が欲求の先に来て、食事をいい加減にしてでも飲酒するのが習慣になっていただろう。けれど今は、「食べるために少しばかりお酒を」などとも言い出さないよう、固く自制しているのが見て取れた。
(そう簡単に、依存から抜けられるものではないだろうけれど。今は、あの「殺人鬼」へなんとか一矢報いるために、と、禁酒の頑張りにも集中していらっしゃるのでしょう)
私はそんな風に推測する。張り詰めた緊張が、長く保つものではないから、
「きっかけは復讐心でもこの際、やむなしです。けれど早くアレは片付け、今夜のように無理をするのではなくて、あなたが普通に美味しく食事できる日々をさっさと実現したいですね」
私は、半分は自分に向けてそう言った。
ポリーさんは、
「どうだろうね。あの夜よりどれだけ前からだろう、舌も頭も、どっかで誰かに取り替えられた偽物で間に合わせてるみたいな、ぼんやりとした馬鹿になっちまってる気がする。飲んでないと、酷い頭痛や吐き気が急にしてきたり。ここのお邸のお食事は結構なもののはずなのに、味や感触がよく分からないんだ」
と言いつつ、緩く首を振る。
「それはおかしなことでもないと思いますよ。アルコールが『ない』ことが体にとって『異常』になるほど、何年もかけて中毒した上、弱っているのです。無茶苦茶苦しいかと思いますが、地道な養生を続けていけば、やがては吐き気や頭痛もしなくなり、感覚もまた鮮明になってくるはずです。そうなるまでの時間は、私達の期待するよりはかなり、かかるでしょうけれども」
私が言うと、彼女はしっかりした視線を返した。
「一度死んだんだから、生まれ変わってみせるよ。すぐ治らないとしても、今夜はやれる限り鋭い感覚でいるつもり。私は折れ錆びた鈍い針先みたいなもんだろうけど、必死に研いで尖らせる。見張りも人形運びも、きちんとやる」
「ええ、お願い致します。何よりご自身の安全を、一番に気を付けていらしてください。アレが相手です、注意して、し過ぎることはないはず」
ポリーさんは口元を引き締めて頷く。緊張と決意で、食欲はさらに減ったかと思うのだが、それでも皿へ取った分を次々、口へ運んだ。
デスは今夜、いつもより離れた席へ座ったせいで、私達の会話が明瞭には聞こえ辛いのだろう。私からしても、会話するには遠すぎると思うほどの物理的な距離がある。彼は、まだ余分に恨みのこもったような視線で時々こちらを見たが、何か言おうとか訊こうとはしなかった。
食事はいつもよりずっと短時間で終わりに近付き、ビルが食後の飲み物を運んでくれた。ポリーさんは自分が「お客」のように給仕されることには落ち着かない様子だったが、ビルはこだわりもない態度で、私達にデザートのお菓子などを勧め、取り分けてもくれた。
「コーヒーと紅茶、どちらがいい?」
ビルに訊かれ、「コーヒー。今夜は、起きてなきゃだからね」と即答するポリーさんだったが、実際に熱いコーヒーを貰うと
「これ、何か、変なものが入ってるんじゃない」
と驚いている。
「ああ、ビルさんの淹れてくださる珈琲は、とても上等で、濃くて香りも素晴らしいですからねえ! そこらのコーヒーハウスやパブのものとは、全然違いますよね!」
私が察して口添えすると、
「そうか、濃いのか。香りも違うけど、ふーん、上等ってことなのね」
と納得した様子で、ポリーさんは私の勧めた砂糖壺から少し入れて味を整え、飲み始めた。
「イタリアやアラブには、もっと、痺れるほど濃くて苦いのもありますよ。ものすごく砂糖を入れて、シロップみたいに甘くして飲むんですがね」
雑談混じりに、私も貰おうとしたけれど、
「マダムは紅茶の方が良くねえか。コーヒーは、飲んでも平気で眠れると仰ってただろ」
ビルは言う。
「うーむ。では、気合いを入れる意味で、紅茶をいただいておきますか!」
昼夜逆転になるよう生活を調整していたので、普通に眠くなるようなことはないだろう。しかし「出陣!」と自分を鼓舞するには、好物の「リラックスできる」飲み物より良いかもしれない。それに、ビルの出してくれた「念には念を」とも験担ぎともいえそうな紅茶は、コーヒーに劣らず素晴らしかった。
彼はデスの方へ行くと、「これぐらいは食べないと連れて行けない」と彼が判断した量の食べ物を勧め、同時に「ちゃんと食べろ」という意味合いのことを、穏当で優雅な言い回しながら誤解のしようもない言い方で告げている。その甲斐あってか、デスも翌朝まで保つ程度の何がしかを、胃の腑へ納められたらしく見受けられた。
「思ったより召し上がれたようで、良かったですね!」
食堂を、離れて出てくる(のは、まだ臭いのことで遠ざけられたのを根に持っている態度らしいが)デスへ、私は声をかける。
「あーそう。本当そう。どれだけ食べるかの決定権さえ、僕には無いんだよ」
デスは食事を「させられた」ことさえ、恨めしい様子だ。
「後ではきっと、あなたもビルさんに感謝なさいますよ。夜中を過ぎて空気が冷え、疲れて小腹も空いてきた頃に」
「そうそこが一番、腹が立つところだよ! こんな横暴に支配されても、僕はビルに対して感謝すべきことしか見当たらず、恨んだり腹を立てる余地すらない!」
むくれた早口で、デスは捻くれた「感謝」を表明している。反語だらけの皮肉に聞こえても、やはり本心からの「感謝」だろう。
「ご自身で『やらねば』と分かっていらっしゃることを、ビルさんが良心の声となり促してくださってる。そこはあなたも、良く分かっていると」
「ああもう、そうだよ! よーく分かってるけど恨みたい気持ちが起こらないわけじゃなし、腹も立つったら立つ! 本人には怖くて言えないけど!」
既に「本人」が今の言葉も聞こえる場所、デスの背後へ着いて来ていることは、言わない方がいいだろうなあと、私はさりげなく視線を他所へ向けた。
(つづく)