第十話 蝋燭灯して行けるかな?
翌日。
広く明るい食堂でデスと顔を合わせ、私は
「では、悪意のことを検討しましょうか」
と言った。
午前十一時過ぎ。三階にあるデスの解析機関は、今のところまだ動いていないらしい。屋敷は静かだ。
「唐突に、何」
眠って休んだはずが、昨夜以上に幽霊めいた雰囲気のデスは、それでも変わらないどころかむしろ凄みを増して見える美貌を顰めた。渦巻く長い黒髪は首の後ろで緩く結ばれ、最低限、邪魔にならないようになっている。
彼も朝湯を使ったらしい。甘やかな常春の地の香がふわりと届く。そんな天国の香りを纏いながら、
「悪意って、これのこと? ビルの嫌がらせ、あるいは昨夜の意趣返しか……」
彼は憂鬱極まりない視線を、並べられた素晴らしい朝食(兼、昼食だ。時間的に)へ向ける。
大きなテーブルの手前端に、二人分のセッティングができている。ケジャリー(白身魚と固茹で卵入りの、カレー風味焼飯的な米料理)が保温銀器から、食欲をそそるハーブとスパイスの香りをさせていた。こんがり焼いた薄切りパンはトーストスタンドに立てられ、銀のバター入れが隣に並ぶ。大きなポットの熱いお茶。牛乳入れは新鮮なミルクでいっぱいだ。晩夏の果物を盛った鉢も鎮座し、「腹いっぱい食べ、エネルギー補給せよ!」と辺りに呼びかけるが如き食卓だ。
「善意に輝く、素敵な光景に見えますが。そう言えばお部屋も、朝のお風呂も素晴らしくて。昨夜は服や道具も全部貸していただいて助かりました」
とはいえ。室内着は貸してもらって寝たけれど、今は昨夜と同じ自分の旅行服に戻っている。荷物を失くしたため、着たきり雀を余儀なくされるが、早いところ何とかせねば。
多少余計なことも考えながら、
「泊めていただいたお礼を言おうと思っていたところです」
と言うと、デスは
「そう。お礼はいいよ、むしろこっちが言うとこ。寝てる間に消えられてなくて安心した」
皮肉ながら本気らしい答えの後、
「あの、どうぞ。食べられるんなら食べて。僕のことは気にせず」
と、食欲なさそうに席へ着いた。
「朝からこんなに……無理して入れたら吐いちゃうよ。お茶だけ下さい」
下さい、と言っても、彼は誰の給仕を待つでもなく自分でお茶を注ぎ、私の分も淹れてくれる。
「気分が悪くなるのはまずいですね。食べ終わるまで、具体の話題はしないでおきましょう……それでもお尋ねしたいことはあって」
私はケジャリーを自分に取り、もう一つ、軽くよそった皿をデスへ回した。彼は呻いたが受け取る。その時、ビルが深皿を二つ捧げて現れ、全体を見てとると「よし」という気配を発した。デスは背中で受け、
「わかってる。ピーペがよそわなかったら、ビルがもっと大量に盛ったのに違いない」
と恨みがましくフォークを握り、米を載せた皿に向かって呟いた。
「マダム、御前。スープだ」
刻んだ野菜たっぷりの澄ましスープが供される。
「完璧ですね。とても美味しいです」
味も良く、好みにも合い、量もたっぷりだ。
「ポリーさんはもう召し上がったんでしょうか?」
ビルに尋ねると、
「馬小屋で、家政婦長達と一緒にな。お屋敷より、家庭的な雰囲気の方が安心できるだろうとエイチソン夫人が言ったんだ。適切な見立てに思えたんで、そうしてもらった」
と返事があった。
馬小屋と言っても、昨夜見た建物は大きかった。やはり階上に住居があったのか。裏庭を挟み、使用人用の立派な別邸だ。
「良い判断だと思うよ。落ち着いてから話に来てもらう……んん、僕らから行く方が良いかな。ちょっとそれも、夫人に聞いといてくれる」
「承知」
「ピーペは食後、コーヒーとか飲む方?」
「珈琲は好きです! ああ、すみません、お先にご馳走様です。早食いが長年の癖になってしまって。育ちが知れる、というやつですね。直したいのですがなかなか」
デスは上品にゆっくり食べる。というよりもほとんど食べられておらず、突いているだけのようだ。私は一人前とっくに片付けてしまった。
ビルが仮面で隠れない方の美形な顔を微笑ませ、
「よく休んで、よく食べていただけたら、お世話する俺達の名誉になる」
と言って、私の皿を下げた。
「すぐにコーヒーをお持ちする」
ビルが退出したところで私は、
「昨夜、お互い一つ、質問しましたね。今なら、もう少しお訊きしても良いですか?」
と、まだトーストを口に運(ばず、実際はただ指に摘んだきり弄)んでいるデスへ尋ねた。
「うん?」
彼が黄色い瞳を上げる。
「昨夜見た、あのとんでもないものを話題にしていく前に。確かめたいことがあるのです。あなたは色々な道具をお持ちですし、私は泊めていただき、快適でした。けれど今後どうするかは、また別の話ですよね」
「えっ、そんな。しばらく滞在しなよ。遠慮なく!」
「そうするということは、私もあなたと一緒に、アレと関わり合うということでしょう?」
「いや、あなたは! ううん、あなたも、あなたの友達も。もう関わり合ってるよ、昨夜の時点で」
「まだ逃げられます。というより、私について知っているなら、あなたこそ分かっているはず。『私は』逃げられます」
彼は打撃を受けたように深くため息を吐いたが、その後、一転、陰気な笑みで私を見直した。
「そうだね……って言いたいけど。僕は君のこと、なんて言うか、ある意味『尊敬してる』って言ってもいい状態だから。認めたいよ。でも、実際、どうかな? 『これまで』はそうでも、『これから』は違うかも。君はまだ、僕が機関でやれることを把握してない」
虚勢だ、と思うにはしかし。私は事実、現時点では解析機関やデスの能力(と呼ぶのでいいのか?)について、ほとんど無知だ。
「そうかもしれません」
デスは少し驚いた顔で私を見た。私は続ける。
「ですから、関わり合うかどうか決めるため、もう少し訊きたいです」
「もう少し……何を?」
「多少、漠然としてしまうのですが。目標、目的地。着地地点とでもいいますか。その見当をどの辺りにつけていらっしゃるのか? いつ頃、決着が付きそうか。関わる期間の想定と、予測される活動範囲。それに、今後起こってくる結果の予想も、できるだけ」
「へぇ。『バビロンまでは何マイル? 蝋燭灯して行けるかな』って?」
デスはまた、ついでのように童謡を口にしてから、
「そんなの正確にわかると思う? 何かの事業計画みたいに言うじゃない」
と問い直す。
「ええ。しかし、何も聞かずに関わることは、損失の危険を意味しますので。私はロンドンへ、自分の残りの人生に役立つチャンスを掴みたい、と思って来たのです。そんな人はごまんといるでしょうけれど、若いかそうでないかで、選択はかなり変わります。限られた労力と時間を何に振り向けるか。こっちは切羽詰り具合が違う」
「まぁ……少しは分かる気がする」
「それで。さっきの童謡に例えるなら、目的地まではかなり遠く、ついでに闇と悪意も渦巻いている印象です。だからまず、あなたが『蝋燭を灯せるのか』は、是非とも知りたいですね。切り抜ける能力があると、示して欲しいです」
「どうやってさ?」
開き直るかのように肘をつき、頰を支えてこちらを向いたデスは、麗しさと同量の小癪さを湛えて見えた。
「機関を動かす? 実験室を見せる? ラテン語の韻文かギリシャ語の詩でも暗唱しようか? それとも『莫大な報酬』で釣ればいい? 特権階級らしく?」
私はついニヤついた。
「私の右ポケットのことを昨夜、仰っていましたね。あなたには色々なものを見せていただきました。それで私からも、少しは見る価値のあるものをお見せするのが筋かな、と思えてきています」
「ああ」
デスは改めて目が覚めたような顔をした。
「どうやって私のポケットに目を付けたのか、教えていただければ」
「それでいいなら」
デスは姿勢を正し、テーブルの上へ載せた両手の指先を軽く合わせる。骨張った、大きく格好の良い白い手には目が引き付けられた。
「僕は夕方からあの辺りへ出向いて、事が起こるのに備えてたんだけど。君が偶然か狙ってか、近い場所へ降りただろ。せめて少しでも追える間は見てたくて、君を探したんだ。気付いてたと思うけど」
「それが、こちらも色々やることがあって、気付きませんでした。探されたり監視されるのは、ある意味では日常ですから。即座に危険か、余程用心せねばという感覚がない限り放置します。そしてまた、もし侮って聞こえたら申し訳ないのですが、『ロンドンにあなた有り』というのを昨夜まで知らなかった、と言い訳させていただきます」
「そっか。なら、僕のはビギナーズ・ラックだったんだね。君に用心されるほど有名な捕物名人じゃなかったのが幸いして、泳がせてもらえてたわけだ」
彼は短く息を吐いてから、
「んん、関係あるとこだけ言うなら。あなた右利きだよね。今も食器は右手で扱った。手は荒れてなくて綺麗だけど、右の中指にペンだこがある。沢山、書き物をした? まあこれは余談か。君は利き手に関わらず、ハンカチや小銭を出すのも、ゴーグルや手袋しまうのも、やりにくいはずの左ポケットばっかり使う。なのに、座ったり立ったりの時は、さりげなく右ポケットを押さえる。無意識? ともかく、それでさ。右ポケットは空じゃないらしい。一体、何を入れてるのかな。よっぽど大事なものかな、って」
六十足すこと十マイル。
蝋燭、灯して行けるかな?
戻ってくるのも余裕だよ。
「『足が軽くて速いなら。行って戻って、余裕だよ』……お見事です」
私は右のポケットから宝を取り出し、デスの前に置いた。
(つづく)