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マドゥールシュッツの日

作者: ぢぃもん

(改行。)



 ガッ。




 三月。冬も終わりに近づきながらも、残滓をとどめている。

 地方によっては猛吹雪が起こり、大雪が降る時期だ。


 マドゥールシュッツの山間部には、春なお遠く、白い稜線。時折吹く、すさまじい寒風が、乾燥しきった皮膚や色々や、岩肌なんかを、切れるような氷の速度で、ゆっくりと吹き渡っていく。

 人間にはとてもゆっくりと、は感じとれないが。どん、ごろごろごろ……。 傍目から見れば――この時は、そんな余裕はもちろんない。

 バルク・ドゥーシュは、血塗れで、雪の上にそれをまき散らしながら、岩肌にしたたかに身体を打った。と思う。 混濁した意識は吹雪の中に包まれているようだった。あたたかい吹雪。そんな妄想を眼前に浮かべながら、荒い呼吸で意識をたもつ。すううううううう、という感じだった。「はあっ! はあっ!」

 どうにか、雪の中に、膝を立てる。目が睨む。睨み返す。

 目の前には猛獣がいる。どんな猛獣よりも、凶暴な、獣。剣を握った人間。男。壮年の男が、自分を徐々に追い詰めているものの正体だった。

 剣を握り直す。柄が、血でぬめる。地獄のように煮え立った雪景色の、その、空気の中に、我知らず、つゆしらず、身を切り裂く風が吹いていく。「はあああああああああああ!!!」

 その膜を破り捨てるような心地で、斬りかかる。下段に構え、砕けるばかりに握りしめた柄。血でぬめる獣皮。景色が廻るように、ぐるりと空、壁、雪、雪に覆われた木立、と、目に入らないのに、理解され、ざくざくざくざく、と、踏みしめられた雪の粒のひとかけらも、振動も。感じないほどに、一瞬が途切れ、闇が明けたように。ギイン――! と、刃が擦れる音が走った。悪い足場。 ざくりと踏みこんで、二太刀。だが、その次の太刀は、あまりに手ごたえなく、すかっと抜ける。かわされた――。 ああ!! と、左ななめ上に向かい、刃を振る。 両の腕で渾身の力をこめた一撃は、しかし、斬撃。さらに、新しくふってきた斬撃を、掠めるように、かろうじて擦り、ばしっと、耳が弾ける。「あああああ!!!」 そう叫んだ、と、思うようで実際は、あまり声にはなっていなかったと思う。裂帛の気合い。腹から喉を張り裂かずに、頭に抜けるように、発する。呼吸だ。 剣とは、呼吸と、教わった。理詰めの遊戯板のようである、とも。剣を交える前から、それまで積んだことが帰結する。真剣での殺し合いなら、それは死んだ剣と言えるだろう。 剣は詰め。剣は才。剣は心の臓。剣は肺腑。どれだけ積んだ鍛錬で、正確に、軌道を描いて、何度渾身の刃を再現できるか。刃は同じ。振るうかぎり。「あああ――!!」 歴戦の剣士に、叫びなど通用しない。気迫など意に介さない。無音で、迅速に、剣と身体のすきまをすり抜け、肋骨へと届ける。正確な動作で! 突き立てる。「身体の」「どこかに」。 ガッ、カキン、と、鋼鉄のわずかに撓むような音。雪を撒いて蹴立てる肢。足。腰。背中。 退かなければ、この男の刃は容赦なく突き立てられる。そのいずれかに。致命的に。 理詰めでならば、それは交える前に分かっていた。機知が、経験が、練度が、歳月が。決定的に、足りない。 ずっと、剣の先が肉に食い込む――体に、自分に、食い破る、感触――。「あっ――!」 目の前が白くなる。死んだ者の見る白熱した暗い色。 ――。 それは、割れていった。音が戻る。視覚が、虹色、赤、黒と、しばし長いことぐるぐると回った視界に、すさまじい、吐き気と、寒気と、おぞけと、熱が、頭に、吹雪のように割って入ってくる。 それは、斬られたという恐れによるものだった。 

 自分の身体が、寸断される。そのような地獄が、目の前に、恐怖を、狂奔をともなって、おびえとなって肢を痺れさせる。ああ。痺れた舌で、もつれた舌でつぶやく。嘆く。焦る。ああ!! 厳峻。一瞬で、夢から吹っ飛ばされた。それは、剣檄だった。剣檄。自分以外の。辺りが明るくなる。それは、錯覚ではなく、雲間から太陽が突出し、どこまでも凍り、乾燥しきった下界を、燻すように、にらんで照りつけた。分厚いマントの裾が翻る。そのまま、もんどりうって前に倒れる。

 だが、逆らわない。ごろんと前に転げて、前転して地に足をつける。致命的なスキ。だが、本能のように、刃を上へ突き出している。ガン!! 頭を、ぶんなぐられるような、衝動。錯覚だ。刃越しにくらんだ目を上げ、ざざっと、乾いた雪が冷たく舞い上がる。ふたつ。

 剣を握った人間――男、名も知らない男と、銀の鎧を磨いて輝きをそぎおとした武装を身につけた少女、細身のレイピアを握ったガルマリー=タンブルが、男と刃を食い合っている。

 この隙にすべきことは、そう多くない。黙って呼吸を前に吐き出し、ヒュッと短く肺を鳴らす。斬りかかる。下段から縫うように。

 やや特徴的な、突きにも似た、斬撃を、しかし男は、喰いこむ瞬間に、身を逸らした。

 どのような身のこなしかはわからない。理屈はドゥーシュにも、理解できる。ガルマリーの持つレイピアの力を削ぎ、力任せに横に逸らし、斬りかかる奇怪な斬撃に、最短距離で応じる。ガルマリーの体勢は崩れていて、一瞬だけ、どのような行動もできない。

 だがどれだけの実践を積めば、あるいは実戦をこなせば、あるいは才気をつかめば、それが可能になるのか。とにかく、強い。

 そういうことか。ドゥーシュは、男に弾かれた斬撃を、手をにぎり直して構え直し、再び対峙した。

 この男には、勝てない。血も凍るような、感覚と共に、理解する。しかしその理解は、今更だった。押し隠していたものだった。

 そんなことは、対峙していたときからわかっていた。名前も知らないこの男を――。

 二人がかりでかかったとしても。

 決して、勝てはしないだろう。ならば、殺すしかない。

 どちらかが。

 はあっ、と、乾燥した空気が、切れるように吐き出されたのは、ドゥーシュか、それともガルマリー、彼女か。先ほど、交差の際に負ったのか、右手から血が流れ、ぬめっている。指は切り落とされていない。

 寸前でかわしたのだろう。男の一挙手、一手、一頭足、一刀。そのすべてが、必殺を狙ってくる。いや、腕の差が、必殺を、必殺足らしめている。

 剣を振るう時は、その全てが必殺となる。あらゆる手段が、必殺となる。細かい傷を負わせ、指を狙い、利き腕の、もろい握り手の部分を狙い、身体より、より前に出ている部分を切り落とす。

 殺戮だ。剣とは殺すものだ。そういうものだ。

 基本に、基底に、根底に、それがある。

 男が二合、撃ち合った所で、ガルマリーが、気がつかない内にも、気がついてるうちにも、状況は続いている。太陽は再び陰った。

 雪の陰影で、それがわかる。谷底に屍を晒し、血をまき散らす。ガルマリーの細い髪を感じながら、こんなときに、いや。こんなときだからこそか。

 瞳はどこまでも展開する、死の間際を映し出している。撃ち合っている。自分も、さらにガルマリーを補うように、割って入る。斬撃は届きもしないが、消耗していく。消耗していくが、振り続ける。疲れ。限界。蓄積。何もかも、置き去りにして戦い続けなければ。叩きつけ、受け流し、防ぎ、身を捩るように、雪を撒きあげなければ。血を吹かなければ、死が待っている。

 突き動かされて、剣を構える。

 膠着はしない。こちらが動き続ける限り、殺されはしない、かろうじて、というだけで、窒息することも、身体の力が、入らなくなりかける感覚も忘れ、ただかっと熱くなった頭のまま、ふたたび踏みこむ。

 雪が噴き上がった。摺った足。男の低い踏みこみ。油断していたわけではない。慢心していたわけでもない。また、予想外であったわけでもない。

 男は実際よりも速い。早い。覚悟を決めるのは、ただその一点のみだ。刃と刃を、上段から引き絞って滑らせるのと、強烈に跳ね上げるのと。

 刃と刃がかみ合う一点まで、細かく気を求め、気を配し、心を殺し、恐れを貫いて、斬り結ぶ。押され気味に、刃が、ドゥーシュの腋が跳ねる。重い剣の刃を、その隙間に、一瞬で滑り込ませるのは、膂力が許さないものだが、男はそれをやってくる。

 その間に、ガルマリーが割って入り、ドゥーシュへの斬撃を止める。

 ガルマリーは髪が肩まで延び、その髪を谷の雪にも映えるような川の水のような淡い黒にひたしており、毛先がくせっ毛のようにはねる。

 それを邪魔に思って、後頭部の下で結び、特徴的な意匠の冑を身につけていた。胴と胸当てを結び付け、鎖帷子をすきまにのぞかせる。下はなめした革の下穿きを重ね、スカートのような飾りをつけている。ただの装飾だが、彼女の母が入れた守りの封陣が縫い込めてある。刃を避け、矢を避ける加護。

 彼女はドゥーシュのひとつ年上で、体格は同じほどで、剣の腕は一段ドゥーシュに劣っていたが、足が強く、足場が悪いところでの殺法を得意とした。この、とてつもない、しかし無名の男を相手に、ドゥーシュ程度が、死なずにいるのは、彼女のその足のおかげだった。

 女神の加護よ。

 ドゥーシュは呟いた。我らに勝利を。

 そのまま、幾日も過ぎただろうか、もちろん、そのはずはなく、日にちの感覚、くらくらした頭が、時間を「めくら」にさせていただけだ。

 ギシ、とその一撃が男の指を突き、もつれた足を、ガルマリーの剣が掬い、ドゥーシュが兜を割ったのは。

 斃れた男に、ドゥーシュは、迷いもせず、剣を深々と目から頭に突き立て、続けて胸を刺し貫いた。人を殺すのは二度目だったが、その瞬間はあっさりと、濃密な中で、工程の一つとも認識されないままに行われた。

 終えると、ドゥーシュはそのまま崩れ落ちた。身体から一気に力が抜け、蒼白、だと自分でもわかるほどの、震えがこみあげてきた。しかし、腹の底は、燃えていた。その不安定さで、急激な吐き気がこみ上げた。嘔吐感は、ただし、それだけではない。あらゆるものが、力の入らない中心を、ねじまげていた。だが、吐くものがなかったせいだろう。うずくまった横で、ガルマリーが、歩み寄ってきたのが見えた。

 ガルマリーは、ただし、そのままひざを折り、屈した。急な倒れ方。

 ドゥーシュは心配になり、わが身をいとわず、「おい、」と、これに近寄った。

 ガルマリーは死んだように青い顔をしていた。ぶくぶくと、その唇のはしが泡立っている。

 唇はからからにかわき、ひび割れを起こしたようになっていた。雪焼けか。とにかく、この場から離れなければ。

 ドゥーシュは死んだ男を見た。それから、その場にうずくまって、えづいた。喉が張り裂けるほど。



 宿、といっても、雪がしのげる小屋だ。寝床にしている、そこまでガルマリーを抱えて運んできた。とても鎧有りのままでは、運べない。外套を重ねてかけ、鎧は鎖帷子と一緒に、すべて脱がせマントを脱ぎ、カマクラの要領で、すべて雪の比較的薄いところへ埋めておく。野盗のたぐいが持っていく可能性はあるが、今は時間もない。


 とにかく、離れなければ。そうしなければならなかった。

 二人のことを察知している、そういう者が、この付近に来たのだ。身体がぎしぎしと、軋むように痛んだが、怪我もこのままでは、凍傷を負う可能性があったが。

 剣が持てなくなることを恐れなくてはならない。足が動かなくなることを恐れなければ。「ふうっ……」 恐れに震える兎の心持ちで、火を起こす。ガルマリーは、このままでは使えないだろう。

 彼ら……。 彼女が、自分が、恐れる彼らは。

 はあ。火が起こって、暖が広がる小屋、宿の中に、自分の吐息が上がる。

 いつからこのようになったのだったか。





 一月。


 里を訪れる雪は、いよいよ勢いを増し、肌の冷たさに、油断すれば雪焼けを割るような、水の絶えた、切れるような空気が、火のそば、暖のそばを離れれば、身に襲ってくる。


 風が時折吹き、冷たく、また、強かった。雪を粉にして巻き上げる。それで前が見えなくなることもしばしばだった。

 籠もりきりの生活が来る。ドゥーシュの家は井戸から遠い。母親の編んだあたたかい上着を腰に巻きつけながら、水を汲み、瓶に移し替える。雪玉が飛んできた。とはいえ、すでにかわしている。「よ、ドゥーシュ」

 言ったのは、カズーイ・ルシャードだった。女じみた細い顔を笑わせて、近寄ってくる。ドゥーシュはかるく応じた。

 しかし、歓迎はしていない。カズーイは幼馴染で、この村では、金持ちの部類に入る。それに自分の美貌を鼻にかけ、横柄な態度をとった。ことに、母親という弱みのあるドゥーシュは、たびたび面倒なことを言われている。今日も、そのような類の用件で、話しかけてきたのだろう。そこへ、ざくざくと雪を踏んで、「あら、おはよう」と、やってきたガルマリーが、声をかけた。「よう、ガルマリー」と、かけられたカズーイが応じた。

 ドゥーシュは、とくに応じず、井戸の水を引き上げるのに気を持っていった。「また、人に絡んでいるの? カズーイ。あんたのそういうところ、感心しないわね」「ふん。未来の旦那に頭が高いぜ。ガルマリー」

 カズーイは、機嫌を損ねたような光を宿して、目で笑った。「結婚式はもう3ヶ月後だ。もっと身なりに気をかけて、身体もよく洗っておけ。獣臭いぜ」「昨日はお肉だったからねえ」

 ガルマリーは、白けたような目をした。しかし、口元は如才なく愛想を浮かべていた。「式までにはお肉にも気をつけて、身を繕っておきますわ。旦那様にお見せするのに恥ずかしくないよう、ね」

 妖艶にからかってみせる。カズーイは気をよくしたらしく、ふん、と水場から去っていった。

 ドゥーシュは、瓶を背負うと、とくに声をかけることなく、その場から歩き出した。ガルマリーは婚礼前の身であるから、家族以外の若い男と口を利くのは厳重に禁じられている。ちらりとこちらを見てはきたが、ガルマリーも気にした様子はなく、鼻歌まじリで、井戸を汲みはじめる。

 剣の鍛錬といっても、師は別だが、女だてらに、と揶揄されるほど、ガルマリーは剣術に熟達していた。練技でドゥーシュとたびたび木剣を合わすたび、勝てない、勝てないと、ぶつぶつと愚痴を言う。そのくせ、愛想はよかった。

 ドゥーシュにとって、ガルマリーは気になる女だった。とはいえ、村のほかの女たちとなにが変わるか、といったら、答えに詰まる。つまるところ、ドゥーシュも変わり者で、女には慣れない。

 慣れない、というよりか、ドゥーシュも23だ。

 それなりに、ガルマリー以外の村の女と、くっついたり、はなれたり。

 そういったことはある。しかし、なお変わっている。自覚がある。

 ともあれ。(口を利くのは決まりに反するってことだ)

 重い水瓶を背負いながら、自分の家へ向かう。




 村の辺境。ドゥーシュの家はそこにある。家というよりは、小屋だ。父が都の軍で、裏切り者として、四年前に落ちのびてきて以来、修理は進んだが、ドゥーシュ一人では、できないところもある。

 剣の師となっているカルガンは、二年前に村を去った。もともと流れ者だったが、村を出たのは、放浪癖のためだ。おそらく死んではいないだろう。おそらく、弟子より長生きするタイプだ。六〇の老齢であったが。

 ともかく、瓶をおいて、動けない母親の世話に入る前に、腰に下げた剣を手にかけ、抜きざま、ピシッと正面に向け、下から、上へ構える。

 それから。気合いの息吹を吐き出して、雪を撒きあげる。

 斬撃は、一度きりだった。何を切ったわけでもない。何を斬るわけでもない。

 それから、かるく汗をかくほどに、幾度か斬撃を繰り返す。戻して。振り。戻して。振り。戻して。

 やがて、短く祈りの言葉を発した。気分。剣の師であるカルガンは、言っていた。カルガンは、年老いて、細身の体で、そのくせ、ドゥーシュより、頭一つ分は背が高かった。

 よって、一度も老人と思ったことはない。だが、今にしてみれば老人だった。白いひげが、ゴマのように生えていた。頭も薄かった。

 師の面影を想いながら、剣をおさめる。

 先に火はおこしてきた。だが、母親は、待ちくたびれている。

 本当に、待ちくたびれているわけではない。父が、死んでからというもの、母は心の病を患った。誰かがそばにいないとさみしがる。そのくせ、誰かがそばにいるときは、昔のようだった。威張り散らし、ドゥーシュに当たり散らした。彼女は、しつけと称して、子供に暴力をふるう母親だった。

 今も、そうだった。いい大人になりかけの歳だが、ドゥーシュは、今も全裸で雪の中に放り出されることが、何度もある。母親のそんな言葉など、無視していればいい。しかし、ドゥーシュは、忠実に、いや、従順に従った。母親からの暴力を、エスカレートさせないためだった。実際、鍛え上げている今のドゥーシュならば、母親の虐待も耐えられるのだった。ただし、心は違う。(早く死んでほしい)

 一度、カルガンの前でそう漏らしたことがある。すると、カルガンはいつもの、愛嬌のある態度を、消し、ドゥーシュをともなって、森の奥に行った。そこで、服を脱ぐよう迫り、脱がせると、腕を後ろ手にくくりあげ、縄で木に吊るし、丈夫な枝を拾い上げた。それで、ドゥーシュを滅多打ちにした。一切、加減はなかった。

「母の死を願ってはならぬ。恥ぞ」

 カルガンは言った。吐き捨てるような口調だった。

 あとで知ったところによると、カルガンは南方の少数部族の出で、そこでは父祖は絶対だった。ここ以上にそうだった。親を敬わない、また、ドゥーシュのように死を願うなど、彼の価値観にとっては、死にも値するものだった。そのため、罰した。とはいえ、罰される事には、慣れている。

 ドゥーシュは謝罪した。あとは、それまでどおりの関係に戻った。それまでどおりのカルガンに戻った。しかし、あの出来事は、ドゥーシュは忘れていない。

 その日、小屋に入り、いつものように母親の世話をしていた。料理が気に喰わないと言って、あとで裸で一晩外で過ごすように言われた。ドゥーシュは、了解して、後片付けを行った。

 夕方ごろだった。

 母親が癇癪を起こして、投げた包丁が、顔の横を切った。母親の老いた女の力だ。

 大事には至らないが、一応外に出て、洗った。何気なく空を見ると、暮れてきている。まだ春は遠いようだ。

 夜に向けて、少し体を温めなければならない。手当てを済まして、夜なお寒い、家に入ろうとした時だ。

 闇の中で、肩を掴まれた。それは、物陰にドゥーシュを引っ張りこんだ。ものすごい力だった。そして、妙なのは、気配だった。

 そもそも、ドゥーシュにその前兆も感じさせず、音もなく、引きこんでいる。すごい手際だ。手練れだった。その気なら、ドゥーシュの首を掻っ切って、強盗なら、そのまま声一つあげさせず、母親を殺している。しかし、そうはならない。

 それが、誰かを見て、というか、暗がりで声を寄せられて、ドゥーシュは、ようやく気付いた。カルガンではないか。

 混乱する。なぜここにいるのか。そして、なぜ、まるで、おおやけにできない、騒げない。そんな理由でもあるかのような、そんな。

 カルガンは笑っていた。しかし、それは笑顔ではなかった。信じられないものをみた、と、ドゥーシュに思わせた。

 酷い顔だ。

「……てくれ」

 カルガンは言った。

「ドゥーシュ。まずは家の中に。母親なら始末してやるから。な」

 カルガンは言う。ドゥーシュは首をふりつつも、師を引きずって、家の中に入った。血の臭いがした。ドゥーシュは、なにか思い出した。



 家の中。

 炎が燃えている。



 カルガンは逃げてきたのだ。追っ手から。それが、どのような因縁によるものか、カルガンは急ぎ、口走った。

 しかし、その内容は覚えていない。ともかく、母親を始末するのは、まず思いとどまらせた。とくに止める理由もない。しかし、この場合、簡単な解決方法はあった。母親が、カルガンを見て、きいきいと、また、金切り声をあげて、わめきたてるのは目に見えた。実際、そうなった。

 カルガンが母親の口を、永久に封じてしまう前に、ドゥーシュは、母親を殴り、黙らせてからさるぐつわをかませた。縄で縛って、納屋に放り込む。死にはしない。カルガンと話をすませるまでの間だ。寒さが外から入り込む。納屋の扉を閉める。

 それから家に戻り、油断しているカルガンの後ろから、剣を振り下ろした。カルガンは死んだ。負傷していた。それに、汁に混ぜた毒草がきいていたのだろう。カルガンがこの程度の剣士であること、そして、まぎれもなく自分の師になるほどの剣士であること。それは知っていた。

 その程度の剣士と言ったが、不意打ちで毒を盛られて、親しい相手からの裏切りで死ぬような剣士、ということで、師を貶しているわけではない。師は立派な剣士だった。しかし、今は敬意を払っている暇はない。急いで運び、雪に埋める。幸い降り出していた。気温が下がったためだろう。血を片付けて、獣の血と混ぜ、母親が自分に飲ませ、折檻とするためにしまっておいた毒を元のところへ戻す。

 とまれ、母親を家に戻す。意識を失わせて、寒い納屋に、放置したせいで身体が冷え切っている。ともかく部屋をあたため、布団をかけて、生きていることを確認する。ガン、ガン、ガン、と、扉が乱暴に叩かれた。ドゥーシュは外套を脱いで(血がついていたのだ)、応対に出た。

 ガルマリーが立っていた。何の用かといぶかって、口を開く前に「ドゥーシュ。出る用意を」と、ガルマリーが言った。「何も聞かないで。答えている暇がない。お母さんは?」

 寝ている、と答えると、とにかくガルマリーはドゥーシュを急がせた。

 ドゥーシュは煮え切らない態度をとったが、ガルマリーの様子は妙だった。

 武装して、その上にマントを羽織っているのだ。身体の線が、あきらかに膨らんでいる。「こんな夜中に――」「早く!」

 言われ、ドゥーシュは仕方なく、と言った感じでマントと外套をとった。着込んでくると、剣の用意もせかされた。しかし、さっき使ったばかりだ。

 持ち出すのはためらわれる。しかし、気取られるわけにはいかない。ええい、ままよ。

 ドゥーシュは、片付け忘れていたカルガンの遺品を取った。カルガンの剣。

「――あれ? あなたの剣は?」

 ガルマリーは、言った。まずい。だが、黙っているうちに、ガルマリーは、焦れた。たちまち、言わないドゥーシュの手を引く。

「おい!」

 ドゥーシュは仕方なく、ついていった。とにかく、手は解かせる。ガルマリーの手は冷たい。帷子で編んだガントレットをしている。

 付いていく。雪は降り続き、一寸先も見えない。闇と白いつぶてが膜になってはりつくようにしている。

 母の事、始末した死体のこと、考えがまとまらないまま、頭を絞めつけてくる。すさまじい寒さだ。風が出てきたのだ。ガルマリーを見る。急いでいる。それも、決死のようだ。そんな顔は見た事がない。そのとき、柄にもなく昔のことを思い出す。それは、ガルマリーとの思い出ではない。

 雪の中、何度も転げ回るように歩いた。あの時はもう帰らない。それは、それでいい。身震いがする。しかし、寒さのせいではなかった。

 思い出したのは、父親の事だ。父親は軍を裏切り、脱走してこの村に帰った。そのときは、部下を徒党にして連れていた。そして、この村で略奪を行ったのだ。犯し、殺し、焼いて、奪った。

 居場所のない父親は、追いつめられた獣だったのだ。この家に徒党を連れて、居座った。村の村長が策を弄して、毒を盛って、徒党もろとも皆殺しにし、わずかに生き残った三人ほどの徒党は私刑のすえに、極寒の雪牢に閉じ込められて、延命しながら、なぶり殺しにされていった。

 村の者達は、同じ私刑に母と、ドゥーシュもかけようとした。しかし、一部の村人たちの話し合いで、そこまでする必要はないとした。

 代わりに水場からもっとも遠いここへ住むことを定められた。村から出て行くことも禁じられた。子を作ることも禁じられた。もっとも、村長にそれほどの人望はないおかげで、裏でドゥーシュをよくしてくれるような女、村人はいる。ドゥーシュもそれを利用してきた。生きていくためと、気にしなかった。狭い村ではお互い様だった。娯楽にも遊びにも飢えている。

 三年前に、都で王政が入れ替わって以来、治世が行われているらしく、以前より、村の生活さえ、若干向上している。

 そのとき、ふとガルマリーが自分を連れだした理由を、ふと予感のように思いついた。ガルマリーにそれを言おうとする。しかし、言えずに進んだ。何と言ったものか、これとはいえないが、これもまた予感があった。予感があった。それも、悪い予感が。

 ガルマリー、と、名を呼びかけたが、外れた矢が、ザスッと雪に刺さった。そう見えたとたん、寒気を感じて、ドゥーシュはその場に伏せた。ガルマリーも、すでに伏せている。

 弓手は……、矢が飛んできた方を見る。伏せたまま、目を走らせる。複数。

 しかし、もちろん手段はない。隙を見て逃げる。ザクッ。矢が刺さった。

 今だろう。だが、思い直す。ばっと伏せた身体を、低くして起こす。走る。視界は最悪だ。だが、向こうもそれは同じだろう。剣を持っている。人影が見えた。思ったより、雪の中に堂々と立っている。

「ガッ!!」

 しんしんと降る雪を蓑に、番えられ、放たれようとした矢……そもそも、数人いる。一番ちかくの男に、走り寄る。間に合わない。「――」

 だが、うめきごえを上げたのは、一番手前にいた男だ。指にナイフが刺さっている。小さなナイフだ。自作の投げナイフ。

 暗器。この業を教えたのも、師のカルガンだ。カルガンは、剣士が異なる武器を使用することも、教えの一つとしていた。

 剣は剣、振り抜けばいい。正確な動作、正確な重さ、正確な足の捌き。全てが正確を心得れば――今、右耳を斬り落としたように、剣は振るえる。

 人は、剣士は、それである程度までは強くなれる。カルガンは、こうも教える。すべてを利用する気概を見せる。見せるだけでは意味がないから、一度は実行に移す。すると、そののちも、行うようになる。

 つまりは剣士とは人でなしの外道だ。

 怯んだ男に強く当たり、ずぶりと脇腹に刃を埋め込む。致命傷にはならない程度に。後ろの男達がどう、動くかは賭けだが、失敗した。矢が飛び、盾にしていた男に突き刺さった。訓練された人間ならば、なんのためらいもなく撃てるだろう。

 とはいえ、訓練を積んでいない人間がそうすることもありうるから、この場合は、撃たれる公算が高い。訓練を積んでいない人間ならば、その人格に関わらず、怯んで手元を狂わせる。これは、鋼の自制心をもつ人間でも、訓練なしには「そうなる」。訓練を積んだ玄人は、逆に約束事をもうけられる。

 ただ、気になったのは、撃たれた男が一撃で、首を撃たれて絶命したことだ。だが、弓手を見ればわかる。カルガンはそう言っていた。

 自らの手で葬ったとはいえ、カルガンは尊敬に値する剣士だった。それなりの尊敬に。だから敬意を払って、教えに沿って行動したし、今も教えに沿っている。のちのちの障害としかならないものは、簡潔に、早ければ早いほどいい。始末する。どのような手段でも、最短で。剣士はそのようであり、剣の教えを受けた者はそのようであり、剣を持つ者はそのようである。

 今と同じだ、殺さなければ殺されていた。カルガンと自分、どちらが早いかの違いであって。それが事実をもって免罪符にはならないだけであって。国家や、もとい軍権、軍兵の後ろ盾なくして、基本、殺人の免罪符は、取り繕いだけですらも人に与えられないものだから、求めてはいけないものだ。

 この里も父を殺したことを隠匿している。大義の前に殺されないのは、今の国の存在がある。王と軍兵の存在がある。

 かくして、盾にした男の陰から出て、後ろの男らへと一気に走り寄る。無駄とは思いつつも、風上から。湿り気の無い雪が舞い上がって、一瞬、もう一人向こうにいる弓手から、こちらの姿を隠す。指を狙って切り落とす。ぐあっと、かがみこむ弓手に、目もくれずもう一人の弓手へ。

 そのとき、ひゅっと、矢が気を割いた。ドゥーシュは、顔をしかめながら、剣を「投げた」。

 当たるものではない。それに十分な足場も確保できなければ、姿勢も、体重も乗せられない。当たったとして、刃が当たり、そして刺さるものでもない。下手をすれば、避けられて終わりだ。というか、その公算が高い。

 見え見えの――と言いながらも、相手はかなり意表をつかれたようだ。しかし、投げられた剣をかわし、矢を引き絞る。一瞬。

 矢が飛んだ。そうなるはずだった。しかし、実際には、飛んでこなかった。「お、おお」

 そんなうめきごえを上げて、弓手が倒れる。ガルマリーが脇腹を一突きにしていた。このまま放っておけば死ぬだろう。ガルマリーは、しゃがんで物色し、それから、己の荷物から、白い布を引っ張り出した。手当てをする気のようだ。ドゥーシュは、周囲に目を走らせてから、「何をしてるんだ?」と、聞いた。「血止め」「そんなことしてる余裕あるのか?」「ないけど。いいから、向こうの人も手当てしてきて」 言う。ドゥーシュは仕方なく、指示に従った。このまま言い合いになるよりはいい。

 手当てをほどこして、怪我人を寝かせてから、また発つ。この雪の中だ。どっちみち、放置したら死ぬだろう。しかし、もしかしたら、そうならないことを、ガルマリーは知っているのかもしれない。

 つまるところ。 敵はまだまだ多勢で動いており。その割に足が遅く。あの、刺客たちが、あとから来る連中に、助けられる。助けている分だけ、人手が減るか、追撃の足が遅れるかする。ガルマリーはつまるところ、追手の存在を、ある程度想定しており。さらに、大体の初動を「把握している」。

 ドゥーシュは、首をふった。

 すべて、聞いてみなければわかるまい。

「ガルマリー」

 そう言った。

 そこで。

 言った。

 はずだった。

 そこで。あの男が来た。

 来た。

 初撃で、ガルマリーが、大きく吹きとばされた。暗闇。雪が迸る。

 月光が邪魔だった。照らされてしまうではないか。いつのまにか、雪が途切れ始めている。白い雪原。不気味なほど白い月。光のたもと。彼が立っていた。彼が立っていた。それは、刺客。逃れられない。

 それから、どこをどう逃げたか。ドゥーシュは、覚えていない。





 小屋。




 あの男。あの刺客。わかっている。

 雪の中でガルマリーを襲った男、刺客。男? おそらくは、そうだろう。

 体つきは鎧のものだった。

 マントで――動きづらくも見えたが、あれがあの男のベストなのだろう。慣れている。肩から下げた革帯に、長剣をさげ、腰のベルトに大きなナイフをさげていた。山刀7かもしれないが。


 異郷の、あるいは、噂に聞く、異教の。

 異教。その存在は、国の中にささやかれていた、ただの噂話ではない、しかし、脅威というほどでもない、ただの辺境の、ただの村には、それは幽霊のようなもので。

 だが、恐れていなかったわけでもないだろう。

 時折、おとずれるはぐれ者や、商人のたぐいから、村の者らが聞いたという話だ。

 噂によれば、現政権の王の奥方様の妹方が、なんだかの事情から、辺境へと移され、軟禁生活を送っているという。そもそもが、都で内紛が起きていた時、現王妃、王の奥方様。その妹方にあたる何某というそのお人は、現政権の、敵方と関係していたとか。処刑されるはずだったのが、王の温情で、追放という形になったらしい。

 もともと、妹方は現王の第二王妃だったという。それが、いつのまにか『異教』の教えにはまっていた。世間知らずゆえ唆されたのであろうよ、と、わずかに今でも親しい村の者から、ドゥーシュは聞いていた。しかし、こんな辺境に流れてくる噂など、ろくなものではないし、今の村長、カルガニードウは、ドゥーシュの父の一件以前から、非常に懐疑的な人柄で、もともと人望のあったカルガニードウの父親、こちらは村長ではなく、カルガニードウの前の村長の補佐をしていたが、息子にはやたらと甘いという欠点があり、村長の座につけたのも、この父親のはたらきかけだった。

 くだらない、と、慎重に判断した噂話の類は、入念に、村人に口止めをする。カルガニードウは、その点についてはとても狡猾で、田舎の村で生活を送ってきたような人間には、とても見えない。ドゥーシュの父親を殺した時も、村人全員の前に引きずり出して、全員に等しく、一撃を加えさせ、なぶり殺しにするという徹底ぶりだった。村人全員に責任を負わせ、共犯にした。そうすれば、村長のカルガニードウを不審にする心は、罪悪感に塗りつぶされ、自分自身を恐れる。自分自身も暴かれるのを錯覚する。

 恨みによって、賊徒どもに、止めを加え、殺したが、あとになって怖くなる。後悔する。そういう人間の臆病な側面を、カルガニードウは、たくみに利用する。それは己自身を知っているからゆえ、のように思える。

 今回の騒ぎも、村長である、彼の差し金だろうか。

(いや、村長なら、こんな方法は取らない)

 そもそも、そのはずならば。逃げ切れない。いまごろ、ガルマリーも、自分も死んでいるだろう。いや、そうとも言い切れないが、ここから逃げ出せることはなく、「結局は死ぬ」だろう。この村から出ることはできないだろう。辺境から、先へはいけないだろう。

 あの剣士――。

 最初に、ガルマリーを襲ったあの剣士。

 今自分たちが、殺してきた剣士とは違う、あの「剣士」。

 あれは、なんなのだろう? なぜ、自分たちは、あれから逃げられたのだろう? いや、違う。

(追う気が無かった)

 標的を間違えた? 追われてきた、カルガンと、なにか関係があるのだろうか。

 わからない。

 いまだ、落ち着いて、ガルマリーからは事情を聞けていない。いや、そちらのほうはこの際どうでもいいのだろうか。つまるところ、やることは、――。

(ガルマリーを逃がすことだ)

 場合によっては、彼女を殺しても、自分が脱出することも考えなければならない。自分の命を賭してでも、ガルマリーに義理立てする必要はない。ましてや、消耗しきった彼女を逃がすのは無理だろう。「ここで死んだ方が楽」ということもありうる。あるいは、他人に殺されるくらいならば、自分の手で殺すという選択肢も存在する。

 吹雪の音が響いている。昔、そういえば、昔、と、あまりに静寂だと、そのような、よけいなことを、かんがえるらしい。

 あまりに疲れたせいだろう。人を殺しておいて、呑気なものだと思う。まともではない。だが、まともな時でもない。

 昔――。

 ボッと、そんな音がした。ドゥーシュは、起き上がった。節々が痛むのはわかっていたが、もう、それどころではないだろう。

 しかたがない。ガルマリーを置いて出る。そうも思った。ガルマリーは目を覚まさない。耳もとで話しかけ、肩を叩くが。

 死んでいるのか?

 一瞬、そんな考えも浮かぶ。

 考えている暇はない。胸に耳を当てる。心臓は、鳴っている。肉体も、鎧を剥いだ服の下で上下している。カッ、カツッ、カツッ。

 音が。急き立てる。生きているなら。そう、生きているなら、連れて行くしかない。あれからどれだけたった? ともあれ、鎧を外して、軽くしたガルマリーの体を担ぐ。おぶれば、なんとかいけるだろう。

 背、いっぱいに、女のやわらかい肉を感じつつ、足をぐい、と持ち上げる。その昔、その昔。同じように、こうして、ガルマリーを背負ったことがある。

 その昔。いまだ、なにも、村八分による、差別も、男女の境界も、わからなかったし、なかった頃、その頃。こうしてガルマリーをおぶったことがよくある。

 ガルマリーは怪我をしやすい子供だったから、そのようなこともあった。ドゥーシュは要領がよかった。子供の頃、遊ぶのでも、怪我をする、しないの見極めを一人でつけていた。ガルマリーは、馬鹿だった。見下していたといってもいい。

 いつからだったか。炎の焦げる匂い。現実から目をそらしているうちに、小屋に火が回り、すさまじい熱が、比喩ではなく、生きたまま肌をあぶる。地獄だ。小屋ごと焼かれていくというのは。斧を持ち出して、壁を壊す。斧はさびていたが、小屋はそれ以上にがたがきている。使えなくなった斧を捨て、壊した所から、外へ出る。いちかばちかだった。しかし、囲みの薄いところへ出たようだ。

「おい!! やめろ!!」

 弓を引いた村人を、別の村人が止めるのが見えた。やはり、そうか。

 狙ったことだ。

 彼らの目的は、ドゥーシュを殺すことだ。あるいは、傷つけて捕らえる。どちらにせよ、今の反応を見れば、生死は問わない。

 ガルマリーを傷つけることも、殺すことも、目的にははいっていない。

 もちろん、検証できたわけではない。これ以上は、かけになるが。

 背負っていたガルマリーの体をおろす。村人たちは、どうするのか、反応を、冷や冷やとしながら、見て。それから、ガルマリーを抱え直す。腰に刺していた、小型の刃物を抜く。

「おい、ガルマリーと、ムラハチブの若造だ。みなに知らせろ!」

 こちらにいた、村人は少数だったのか、一人がその中からぬけて、行くのが火に照らされて見えた。

 陰気な小屋の中からではわからなかったが、周囲の日は落ちて、とっぷりと闇が落ち、燃える小屋が、それを照らしている。それを見ながら、動くな、と、ドゥーシュは叫んだ。

「動けば、こいつを殺す」

 賭けではあった。しかし、他に手はない。

 村人らは、動揺したように見えた。緊張が走った。しかし、矢は撃ってこない。

 そのうち、どやどやと、後ろの方が割れて、周りの村人らがどけるのが見えた。炎に照らされ、こちらを見たのは、カズーイだった。

「よお、ドゥーシュ」

 カズーイは声をかけ、様子を見て取った。ちらちらと、後ろを気にしている。

「なんの真似だ? そりゃあ」

「おい、動くなよ」

 ドゥーシュは言い、にやりと笑ってやった。

「大事な女に傷がつくぞ」

 カズーイは、人を馬鹿にしたようないつもの顔を、ピクリと動かした。あまりご機嫌ではないようだ。

 ドゥーシュは、火矢で、めらめらと燃える小屋を背に取りつつ、少し刃物を動かした。それで、よく見えるようになったのだと思う。カズーイは、しかし、鼻で笑った。

「お前に人が斬れるか」

 カズーイは、嬲るように軽率に、指を指して言った。

「自分の母親も殺せない甘ったれに、女は殺せない。さっさとその女を離せ。命だけは助けてやるさ」

「……」

 軽率な言動を取られ、ドゥーシュは、刃物を動かした。カズーイが、軽率な言動で、挑発したからだ。だから、自分もこうする。ビッ、と、ガルマリーの足が血を吹いた。

 太ももの上あたりか。ガルマリーの身体が、びくりと痛みを感じて、はねる。だが、意識が戻った様子はない。しかし、これは、ドゥーシュにとって好都合だった。ガルマリーが生きていることの証明になったし、脅しとしては、あるいは、警告としては、十分な効果を、カズーイらに与えた。

 カズーイの顔が強張っている。だが、火のせいではなく、ドゥーシュの手の平も、額も、汗ばんでいる。様々な要因から。言う。

「……、今更、捨てるものがあると思うなよ」

 言う。なるだけ、低く。

「俺はな、絶対に逃げ切ってみせる。そのために、なんだってやってやる」

「自棄になるのはよせ。ガルマリーまで巻き込む気か?」

 カズーイは、言った。他の村人の様子を見る。大人しくかどうかは知らない。しかし、ガルマリーを人質に取ったのは、効いているようで、それぞれに弓や、槍から手を下ろしている。十二、三人か。おそらく、もっと後ろに控えているだろう、と思う。「お前が」

 ドゥーシュは言った。やや目を細める。ぴりぴりとした緊張。

「そうだな。想像はつくんだが」

 言う。唇を湿す。乾くのだ。

「ガルマリーが、お前との婚約を破棄したんだな。いや、断ったんだな?」

 カズーイは、そのとき、そう言うと、なんとも言えない顔をした。憎悪。しかし、その憎悪は、誰に向けられるものでもなく、しいて言うなら、今は、一部がドゥーシュに向けられている。

「俺が駆け落ちでもすると思ったのか。ガルマリーと」

「ああ、そうだとも」

 などと、カズーイは言わなかった。弓を番える。これは、少しばかり予想外だった。撃たれる。矢は、ざくっと、雪に突き刺さった。いい腕だった。当てようと思えばドゥーシュにも当てられた。だが、「ガルマリーに当たるのを恐れた」。やはり、固執していた。

「俺を舐めるなよ、ドゥーシュ!!」

 カズーイは、金切り声で叫んだ。周りの村人たちは、緊張を増しているが、動かない。

「お前のことなんぞ、知ったこっちゃないさ。俺は、俺が一番大事だ。ガルマリーも離すさ。俺が無事に逃げられればな。だが、それまでは、俺も、命を握らざるを得ないだろう。俺一人じゃあとても逃げられないからな。お前がどうしても、俺を殺すってんなら、こいつは、殺す。当てつけにそうする。わかるだろ、ドゥーシュ」

 カズーイは、黙りこんだ。それなりの迫力のこもった目でにらみつける。目が血走っている。歯ぐきから、血がにじんでいるのが見えた。ぽたり、と、伝った一滴が、雪に落ちている。炎の照り返しを受けて、それが見えた。ドゥーシュは、動いた。少しづつ。少しづつ。

(撃つなよ)

 弓を捨てろ、と、よびかける。村人らは、最初渋ったが、さらに強く言うと、その通りにした。ドゥーシュは、そのすきに、村人らから離れた。追ってきても殺す、と、ガルマリーの身の安全を、強調しておいた。

 逃走は成功した。ある程度まで来ると、念のため、ガルマリーの傷の手当てをし、運びやすいように、おぶい直した。あとは、走る。時折歩く。足の続く限り、ガルマリーを連れて。

「……ドゥーシュ」

 ガルマリーが言った。

 うわごとか、と思い、無視した。が、ガルマリーは、もう一度言った。振り向く。肩越しに、目を開いているのが見えた。

「起きたのか」

「ええ」

 ガルマリーは言った。硬い声音ではなかった。

 足は大丈夫か、と、ドゥーシュは言った。人一人おぶった状況、それも、もうあたりは完全に夜だ。動き回るのはまずい。だが、それは、追手がついていない場合だ。

 雪があり、進めないのは、こちらだけではない。追い立てる側も、同じだ。

 しかし、こちらにはガルマリーがいる。ドゥーシュは、そう思うとちくりと、胸が刺すように痛んだ。

 今さらだ。ドゥーシュは鼻で笑うように、無視して、おさめた。ガルマリーが言った。

「……さっきのこと、覚えている?」

 ドゥーシュは、目だけ動かして「さっき?」と、聞き返した。胸中では、黒いもやのようなものが、ざわざわと騒いだ。

 道は谷際に差し掛かったようだ。喋っている暇はないだろう。ガルマリーにも、そう告げた。一歩一歩、確かめて歩く。

 常人の技ではいかなかったが、こちらの郷を長年暮らしている者なら、年寄った者であろうとも、この一帯の歩き方を分かっている。夜目が、あたりを明るく照らしている。雪は止んでいて、月が出ている。

 ガルマリーを背負って越えるわけにはいかない。

 促して、下ろす。歩けるかはわからないが、ガルマリーは、平気と答えた。ドゥーシュが斬った足を、辛そうに動かしている。

 汗がにじんだ。だが、夜は冷える。先ほどの炎の影響で、身体がだいぶ無駄な汗をかいていた。このまま放置するわけにもいかないが、着替えもない。とりにいくあてもない。逃走というのは、こんなものか、と、ドゥーシュは、気が暗く落ち込むのを感じた。





 朝が来た。


 日が稜線を照らしている。朝の薄暗闇に、逆に、目が利かなくなっている。



 ガルマリーに声をかけて、休憩を取ることにした。休めそうな場所を、見つけて、薪を集める。ガルマリーは何も言わない。しかし、逃げる気になれば逃げられる。

 彼女を一人にしてはならない。もし逃げるようなら、完全に足を利かないようにする必要があった。もちろん、今すぐにでも。


 「幸いにも」傷つけた片足が枷になって、遠くへはいけない。加減はしたが、あとが残るかもしれないし、後遺症が出る可能性もある。

 さっきのこと、覚えている? それは、忘れているわけではない。むしろ、気にしている。ずっと気にしていた。あの足の傷をつけたのが、ドゥーシュだと。カズーイとのやり取りを、彼女は。知っているのか? 彼女は、知っているのか? 知っていて、あの態度なのか? 口を開かない。ゆえに、わからない。知っているとしたら。だが、知っているとしたら。がさり。

 そのとき、音がした。獣かと思った。ドゥーシュは、薪を拾う手を止めて、ゆっくりと辺りを見回した。剣は。持ってきている。だが鎧がない。

 歯ががちがちと、寒さで鳴っている。今すぐに火で暖まらなければ、身体がもたないだろう。

 だが――。

 音の主は、出てきた。

 ドゥーシュが見ている方向から出てきた。異教の剣士。

 その男を見た時、即座にその言葉が出てくる。

「――」

 ドゥーシュは手を抑えた。寒さで歯の根があわない。しかし、じんわりと熱さが伝わっていく。暑さもないのに、汗が滲む。

 異教の剣士は、すでに刃を抜いている。殺す気か。だが、そのまえに。尋ねなければならない。

「――あんたは、なんだ。なぜ、――」

 言葉を呑む。言う。

「なぜだ。あんたが狙っているのは、カルガンじゃないのか」

「カルガンは死んだ。お前が殺して雪に埋めた。すべて見ていた。そうだろう」

 異教の剣士は、語り掛けてきた。身につけた山刀が、チリ、と鳴る。

 すべて見ていた。さほど、意外性は感じなかった。この剣士が、一体どこで、ドゥーシュの行いをどのような目的で、黙って見ていたのか。それを、まったく気づかなかったのに、迂闊を感じないわけではない。あれは、誰にも見られずにやる必要があったからだ。

「どうしてカルガンを追っていた」

 とは、言わなかった。余計なことを言えば、即座に殺しにかかってくるだろう。夜行をした足が痛い。それ以上に、睡魔と疲労、張り付いた汗による寒さが、力と集中力を奪う。

 しかし、死ぬわけにはいかない。いや、死にたくない。

 死にたくない。それだけだ。ただそれだけ。

 生きるのだ。

 異教の剣士は微動だにせず言ってきた。

「金を持ち逃げしただけだ。その金を取り返しに来た。金はどこだ?」

「……カルガンの死体を調べればいいだろう」

 異教の剣士は、口の端を緩めたように、見えた。なんとなく、問いの無意味さが分かった。ところが、異教の剣士は、さらに違うことを言った。

「ところがカルガンの死体がない」

「何を言っている?」

「知ったことではない」

 剣士は言った。続けて言う。

「お前が逃がした。そうだろう。そうでなくても、殺すが」

 平然と口にする。「そのために話をしたんだ」

「正直に話せば、命と女は助けてやる」

「あんたは、――殺し屋か?」

「どうでもいい」

 話をしよう、と、念を入れてくる。「カルガンを逃がした。そう考えている。あるいはお前が金を持っている」

「……」

 ドゥーシュは、口を湿らせた。震える舌先を、抑える。

「……そうだ。カルガンは逃がした。カルガンは何も聞くなと言った。外に追手がいると言った。俺は、カルガンを逃がすために殺すことを装った。カルガンは俺の師だが、それは関係ない。家族を殺すと脅された。仕方なく協力したんだ。金も受け取っていない。だから、」

 ドゥーシュは言った。なるべく、剣から手を離して、殺気が出ないように。

「協力する義理もない。これ以上は。だから、助けてくれ。見逃してくれ」

 剣士は言った。

「もちろんだ、女は助ける。お前は助けない。先に話を聞いたからな」

 ガン!!

 剣と剣がぶつかり、血が滴った。ドゥーシュは、マントに隠した手を、ひそかに布で、剣に固く巻きつけた。隙間を無くす。手は凍えて力が入らない。

 だが、問題はない。振るう。力の込め方を、再現する。それで十分だ。剣とは、呼吸と、教わった。理詰めの遊戯板のようである、とも。剣を交える前から、それまで積んだことが帰結する。真剣での殺し合いなら、それは死んだ剣と言えるだろう。

 剣は詰め。剣は才。剣は心の臓。剣は肺腑。どれだけ積んだ鍛錬で、正確に、軌道を描いて、何度渾身の刃を再現できるか。刃は同じ。振るうかぎり。ふひゅう、と、白い呼気が舞う。ついでに、今の交差で切り裂かれた二の腕も。

 ……まるで太刀筋が見えなかった。

 反復する。いつもの教えを反復する。教えとは、血であり。肉であり。骨である。新たな栄養となって加わるわけではない。腕が眩むようだ、とても持ち上がる様子ではない。それでも。やらなければ。

 ビシッ。次の交差で、左足が血を吹いた。行軍のために、鎧は外している。斬るなら絶好の機会だ。待っていたのだろうか。

 静かに。音もなく。忍び寄り。つかず、はなれず。

 恐ろしい相手だ。おそらくは、鎧の類などあっても、勝てないくらいに。

「いい乳房であった」

 剣士が言った。なんのことかと耳を澄ます。剣士は、言った。顔を、貌を、ふかくゆがめて。

「いい肉、いい乳房をしておった。お前がつれているあの女。あれは、お前の女か」

「違う」

 ドゥーシュは言った。気合いをかける。流される。肩の動き。しかし、剣士。

「たわむれだ。たまらねえな」

 剣士は、続けて、ぺろりと口元をなめた。

「たまらねえな。だから「剣士」とは、やめられねえ。一度当たっただけで、肉付きまでよくわかる。斬っても、しゃくっても、あれはよくこたえるだろうよ」

 うま味だ、と、剣士は言った。

 勝たねばならない。

 こいつをガルマリーの前に立たせるのは、危険にすぎる。肉体のうずきをおさえながら、下段に構えた剣を握り直す。

(こいつは……、ここで殺す)

 こいつは、ここで殺す。なるほど。

「言うのは、簡単だ」

 剣士は、呟いた。まるで、こちらの心が読めるかのように。いや、幻聴だったかもしれぬ。幻覚だったかもしれぬ。なにせ、怒り。怒りで目がくらんでいた。(変態野郎め)

 そのような告白は、相手に大義名分を与えるだけだ。舐めている。いや、実際、舐められるだけの事はある。二度の立ち合い、三度の仕掛け、で、わかった。突き放している。隔絶している。絶望している。

 それほど、かけ離れている。腕の差がある。鍛錬、素養。才覚、覚悟。趣味、嗜好。すべてにおいて、かなうはずもない。

 薪をつかむ。

 ひゅっと、投げる。足元にあったそれを。

 あとはふり返らない。背を向けて、逃げる。

 追ってくるか、来ないか、仕留められるか、すべて。投げ捨てて、逃げる。

(賢。)

 ごうっと、完全に背を向け、視界を切った瞬間、唸りをあげて、「殺気」とでも――呼べるものがあふれ出す。恐れに身体が総毛立ち、髪が帽子の下で、逆立つ。

 敵を。視界に入れないのなら、もはや、剣士に生きる道はない。機会や順序の話ではなく、突き立てられない。

 一度逃げたなら、身体が二度と立ち向かえることはない。一度負けたのなら、折れた心は二度と立つことはない。

 そのままに死んでいく。ぶざまに。なぜ死んだかもわからずに、またたきのまに死ぬ。

 それは道であり理屈だと、カルガンは説いた。剣士にとっての。

 ざざざ、と、雪をひっかぶりながら、転げ逃げる。また、こうも言った。それは道であり、理屈だと。

 「実際は」そうではない。そうではなく、剣士は、どれだけ熟練しようとも、殺気を感じとることはできず。

 鼻や口や耳、つまり、匂い、味、音で外界を、感じとる事が出来る。殺気も感じとる事が出来る。それは、己の中にある恐れや恐怖、怯み、虚栄心、自尊心からくるまやかしであり、まやかしであって、また、まやかしではない。

 だが、「まやかし」だ。それを知ることはできない。完全な第三者にならない限り出来ない。自分が自分である限り、出来ない。つまりは、生きているうちは、どう修行しようと、出来ない。

 出来ないことをやってはいけない。やってもいいが、できないことをやるぶんで、できることをやったほうがよい。すなわち、たとえ視界を切っても、背を向けても、剣士の道を踏み外しても。聞こえる音は、匂いは、味は、残る。

「それをやるのだ」

 ざっと、草の根を分けるように、雪へ踏み入る。追ってきている。音が聞こえる。ごまかしようのない音が。

 それでいて、その一切を無視する。振り抜くのに、邪魔、だからだ。

 詰め将棋。視界のはしに、驚いた男の顔が映った。ざまあ。

 みろ。



 ざざ、と雪が落ちた。

 ドゥーシュは、腕をつかんだ。血にまみれて、滑る腕を。



 それは、血を止めるためだったし、傷を庇うためだった。

「惜しかった」

 異教の剣士は言った。とはいえ、片目は閉じかけている。が、たいした障害になりそうもない。

 失敗した。しかも、反撃を喰らい、脇腹を抉られ、両膝をついている。出血が止まらない。足元の雪が、小便を漏らしたようにぽたぽたと、赤く垂れる粘っこい液体で汚れていた。読まれていた。しかも、尋常な読み方ではない。

 また、剣士は速かった。恐るべき速さだ。ドゥーシュの予想を上回っていた。

 今、剣を手に膝をつく、動けない。ドゥーシュが思うのは死死死、死死死死、死死、死。だめだ死しか思い浮かばない。

 血液が失われ、頭が回らないのだ。呼吸もおかしい。穴が開いたのだろう。脇腹に。「惜しかった。惜しかった。では、死ね」

 剣士は、あっさりと言った。振り上げられた剣先。おそらくは、余裕の表れだろうか。

 ゆっくりと、振り下ろされるのが見える。

 一瞬だ。

 一瞬で、終わる。

 一瞬。一瞬。

 一瞬?

 だが。

 訪れない。

 ドゥーシュはようやく気づいた。一瞬で終わるはずの一瞬を、一瞬以上、来ずに、待ち続けている自分に。刃を胸から突き出している剣士に。

 後ろにいる、男に。

 それは。

 それは、ああ。

「ところがカルガンの死体がない」。

 そういうことか。

 そういう。

 だが、どういうことだ? とにかく。

 死体があるはずがない。

 その死体は、今目の前にあるのだから。傷を手当てし、包帯をのぞかせたカルガンが。

 剣士の、その、突き立てた刃の、背中から胸に貫ける一刀の、その柄の。血が流れる、おびただしい、真っ黒の。

 その位置は心臓だった。剣士はなにか言った。言ったように、見えただけかもしれない。カルガンが刃を動かし、前後に抉り、十分に血管を引き千切る。

 剣士は、雄叫びをあげた。それは、雄叫びでなく、悲鳴だった。ああ、ああああああああ!!! カルガンは暴れる剣士を頑強な、身体で、冷静に、押さえつける。

 やがて剣士が動かなくなった。目の焦点があっていなかった。剣士は倒れる。突き刺さったままの刃が、押しとどめる。ずるずると、斬るように引き抜く。

 それから、カルガンはしゃがみ込んで、男の頸を斬った。刃を押し当てて、確実に。「ふう」

 漏れる吐息。

 ドゥーシュは、黙ったまま、それを見ていた。カルガンが、刃をぬぐって、こちらに近寄ってくる。恐らくは、その刃で、ドゥーシュの胸板も突き通す気なのだろう。いや、頸を掻き切るのも容易い。

「黙っておれ」

 カルガンは言い、ドゥーシュの衣服を割いた。そのまま、傷の手当てを始める。



 ほどなくして、ドゥーシュの手当ては終わった。三人は、洞窟に居た。三人というのは、カルガン、ドゥーシュ、そして――ガルマリーだった。こちらも、傷の手当てがされ、目を覚ましている。


「ふん」

 カルガンは笑った。それから、話し始めた。どうやら、あの後、ドゥーシュによって「殺された」あと、蘇生して、雪の中からはい出した。


 傷は深かったが、ドゥーシュの母親を解いて、手当てを求めた。母親は、ドゥーシュのやったことを聞くと、蒼い顔で、大人しくいうことを聞いた。それから、異教の剣士を追った。

「くだらん、身内同士の内輪もめよ」

 お前は知らなくていい、と、カルガンは言った。つまるところ、カルガンも異教の剣士自体か、それに関わる者なのか。しかし、師が知るなというのであれば、知らない。

 ドゥーシュは、一通り話を聞いてから、押し黙った。カルガンがどういう魂胆で、意図で、自分やガルマリーを手当てしたかは知らない、だが、つまりは、そういうことなのではなかろうか。

 殺しに。自分を。

 それもカルガン自身が教えたことだ。復讐は正当ではないが、したのならされることを前提に入れておく。つまりは、そういうことではないか。

 しかし、カルガンは笑った。「いっちょうまえなことを言いやがる」

 乱暴に言う。ドゥーシュよ、と、そして言った。

「お前がわしの教えを守っていたのはりょう然。母親を殺さずにいた。お前を殺そうとしていたわしを殺した。お前がやったことは、すべてわしの教えにかない、実践している。ただ殺し切れていなかったのには失望した。だから、こうして追ってきたのはお前を殺す為だったが、さもありなん、わしを追っていた野郎が、お前のおかげで倒せた。ならばなにも言うことはあるまいよ」

 カルガンは言った。

 むろん、あきれた、呆れたが、このカルガンらしいと、納得もした。ガルマリーが付いていけないという目で、蜥蜴でも見るような目で、カルガンと、ついでにドゥーシュも見ていた。だが、ドゥーシュは感動していた。ひそかに。このカルガンという男を、剣士を、見誤っていたと気づき、また思い直した。カルガンがこの程度の剣士であること、そして、まぎれもなく自分の師になるほどの剣士であること。

(この程度じゃない)

 思い直して、思う。

(とんだぶっ壊れだ。想像以上の、ぶっ壊れだ)



 外は雪がすっかりとやんだ空が広がり、凍てつく風を、三人のいる洞窟まで、届けている。雪地吹雪。


 カルガンに促され、休憩もそこそこに、外へ出た。荷を持てと言われたのでそうした。気づけば、荷もなにもなかったが。みな逃げてくるために落としてきた。

 身につける分のものはあった。カルガンは、どこそこを下れば道へ出る、と、大雑把に説明をした。

「わしが来た道だ。異教の者しか知らん」

「カルガン」

「なんだ?」

 聞く。

「なぜ金の持ち逃げなんて? あんたらしくない」

「いっちょうまえだ」

 カルガンは言った。聞くなと言っただろう、と言った。しかし、言う。

「いい加減付き合いきれなくなっただけだ。わしは、異教の剣士として、汚れ仕事をだいぶやった。すこしばかり、飽きたのだ」



 道へと降りる途中、道すがら、カルガンとは別れた。 追手を食い止めるという。もちろん、ドゥーシュに対する。


「それが済んだら、あらためてお前を殺しに行く。せいぜい遠くへ逃げろ」

 言って行った。残念ながら、その隙を突くことはできなかった。

 カルガンが言った以上、そのとおり、殺しに追ってくるだろう。

「どうするの?」

 それまで黙りきりだった、ガルマリーが言った。ドゥーシュは、どうか、と考え込んで、ふと言った。

「お前こそ、どうするんだ? まさか俺についてくるわけにはいかないだろう」

 ガルマリーは、はっきり翻意を示したわけではない。今から帰って、ドゥーシュにカズーイの敵意が向いているあいだに、うやむやに立ち回れば、村での立場をまた築けるだろう。

 田舎の懐は狭いが、彼らは、共同体だ。受け入れる。

 ドゥーシュは違う。ドゥーシュは戻れない。受け入れられない。もう、受け入れられない。排除される。そこが田舎の利点でもある。数少ない利点だが。

 ここで暮らす人間が、外へ出ようとしたとして、それでろくな目にはあわない。そして、出たとしても、ろくな目は見れない。

 雪深い里で、子供を産み育て、一生を終える。

 その暮らしは悪くないのではない。良くなくもない。いいも悪いも、ないだけで。

(あの剣士……異教ではないあの剣士は……)

 ふと考える。(だれが呼んだ? 誰かが呼んだ。この村の者ではなかった。なら、ことの始末をするために呼ばれた?)

 呼んだのは村長のカルガニードウだろう。ほかにいくつか、思い浮かんだが、捨てた。

 少し黙りこんでいたことに気がついた。

「村に戻れよ」

「そうね、そうするしかないみたい」

 ガルマリーは言った。これからの苦労を考えているのだろう。だが、自業自得ではあるだろう。

 しばらく歩いて、「ここで別れましょう」と、ガルマリーが言った。ああ、とドゥーシュは答えた。元気でな、と声をかけるときに、握手の手が、自然と出ていたのを気づき、引っこめる。

「――」

 しばし。

 何が起こったのか。

 それは、柔らかくて、暖かかった。そして、手に入らなかったぬくもりを、やっと手に入れたような、不思議な安心感があった。

 唇を離す。

「さよなら」

 少し黙るようにしたあとに、ガルマリーは言った。口には笑みが浮かんでいた。

 さくさくと、足音が遠ざかっていく。

 遠ざかっていった。

 ぼう、として、ドゥーシュは立ち尽くしていた。

「――」

 やがて、頬を涙が伝った。

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