第6話 『 お別れ――そして異世界へ 』
今話で序章『 異世界転移編 』は終わりです。
「なに、あれ……」
異形な存在を前に、御子が戦慄に声を震わせる。夜凪は臨戦態勢のままチラッと一瞥すると、
「魔獣です」
「……マジュウ?」
「この世界の熊とか猪みたいなものです」
「でも! あれはそういうのより……」
凝視する御子は、夜凪の簡易的な説明に難色を示す。当然だろう。眼前のいるのは、そんな体毛に包まれた動物ではないのだから。
あれは、巨大な蟻と言った方が正確だ。
小さな蟻を何百倍にも肥大化させた漆黒の体躯。しかし蟻と異なって前腕が発達していて、しかもそれはカマキリのような鎌を有している。熊の爪よりもイノシシの牙なんかよりも、よっぽど凶悪で凶刃だ。
「夜凪くん……さっき、ギアースって言ったわよね」
「はい。奴らの名前はギアース。――八年前、俺の故郷を蹂躙し、同胞を殺した魔獣です」
「――ッ」
マグマが煮えたぎったような双眸で告げれば、御子が息を飲む。
「信じられない。これ、本当に現実なの? 夢じゃなくて?」
「嘘でも幻でも夢でもなく現実です。なんなら頬を抓りましょうか?」
軽口を叩くも、本心はそんな余裕などなかった。
「……空間が開いても、魔力が体に流れている感覚がない。最悪だな」
魔法を使えば撃退できる可能性はあったが、残念ながら体に変化が起きている様子はない。おまけに、魔力が流れても使えるかも定かではない。
そうなれば夜凪に残る手段は肉弾戦もしくは近接戦しかないのだが、さらに不運な事に荷物はギアースの足元にある。これでは吉継が持たせてくれた物が本来の力を発揮できない。
しかも、ここには夜凪とギアースだけでなく御子もいる。故に、迂闊に動けなかった。
今もなお怯える御子に、夜凪は問いかけた。
「先生、立てますか」
「ごめん。腰が抜けて立てない」
「了解です」
あんな怪物を前にすれば動揺するのも当然だ。責めもしないし、なんなら夜凪も緊張で手に汗が握っている。
ただいつまでも、ギアースが待ってくれるとは限らない。今も、飢えを訴えるようなキチキチと歯音が鳴り止んでいない。
どうにかして、御子をこの場から離脱させなければ、彼女に危険が及ぶ。
「こんな危険な目に遭わせてしまってすいません」
「謝らないで。夜凪くんは何も悪いことしてないでしょ」
「だからといって、先生を危険に巻き込んだのは俺の責任です」
もっと細心の注意を払うべきだった。今日がその日だと分かっていながら、御子に別れの挨拶がしたいが為に一人になるのを拒んだ。責任の所在は、夜凪にある。
「(魔力が流れてるなら、あいつは十中八九俺を標的にする。けど万が一、御子先生を襲う可能性も否定しきれない。……やるしかないか)」
生唾を飲み込み、夜凪はギアースに視線を注いだまま御子の肩を叩いた。
「先生、できるだけ体を低くしててください。できればそのまま。そして体を縮めて。もしあいつが襲ってきたら、椅子でもなんでも投げてください。いいですか」
「何言って……ッ⁉ 待ちなさい、夜凪くんッ⁉」
「――シッ⁉」
すぐに夜凪の行動を理解した御子が慌てて制止するも、遅い。鋭い呼気を吐き出すと同時に床をめいっぱい蹴ると、夜凪はギアースに向かって吶喊した。
「――ッッ‼」
夜凪の敵意に反応したのだろう。キチキチとした不快な歯音から威嚇へと鳴き声が変われば、ギアースはその凶刃で夜凪の肉を引き千切らんと鎌を振るう。
「甘いんだよ!」
鍛えた動体視力と反射神経でその一線を寸前で躱せば、夜凪はギアースの懐に潜り込んで蹴りを入れた。力一杯に放った足蹴りはギアースを宙に飛ばし、そのままロッカーへと激突させる。
「ふぅ。これでまともに戦えるな」
立ち上がり、足元にある吉継からの渡し物を持てば、ゆっくりと包みからそれを露わにする。
むき出しになったそれに、御子は目を白黒させた。
「刀⁉」
驚愕に声を上げる御子に、夜凪は振り向くと「カッコいいでしょ」と笑みを浮かべる。
「吉継さんが誕生日プレゼントと異世界でも頑張れって渡してくれたんです」
「に、偽物よね?」
「本物ですよ」
にやり、と悪い笑みを溢しながら鞘から刀身を抜けば、本物と刀自信が誇示するように鈍色に輝く。
「危ないんで、下がっててください」
「言われなくてもそうするわよ⁉ というか、そんなの学校に持ってくるな⁉」
少しだけ元気になった御子が注意してきて、夜凪は「だって持ち歩いてないと」と口を尖らせる。
「――ッッ‼」
「ひいっ⁉」
砕けた雰囲気も体勢を立て直したギアースによってすぐさま緊張が走る。悲鳴を上げる御子が身を小さくして、夜凪は刀を握り締めた。
「俺の先生にあんまり迷惑をかけるな」
ぐ、と足に力を込めれば強く床を蹴り、一気に距離を詰める。激しい戦闘は不可能なので、できるだけ動きは最小限に、それでいて最大の力でギアースを仕留めに掛かる。
「ハッ‼」
ヒュンッ、と風を切る音とともに鈍色が閃光を走らせ、夜凪の命を刈り取らんとする鎌と激突する。
「っとあぶなっ⁉」
相当な腕力につばぜり合い合いになれば、ギアースはもう片方の鎌を振るって来る。火花が散りそうな激突の勢いを跳躍の力へと帰れば、夜凪は大きく後退する。
「力の方は互角……いや、魔力がない今の俺じゃ負けてるか」
身体能力であれば夜凪に分があるが、純粋な戦闘力はギアースが上手だ。このままではじりひん。それに、大きな音が連発しているから時期に人が来てしまう。それは非常にマズかった。
夜凪の正体が気付かれるからではない。あのギアースが、その凶刃を他者へ向ける可能性があるからだ。
獰猛かつ肉食のギアースは、魔力を有しているものを恰好の獲物と判断するがその本質は雑食性であり、血肉であればなんでも喰らう。故に、大勢の人間を餌だと認識すれば意識は夜凪には向かなくなる。そうなればもう手のつけようがない。
そもそもギアースは、普通の人間には倒せない。
「ホント厄介な奴だ」
悔しさに奥歯を噛んで苦笑を溢せば、夜凪はこの状況を唯一打開できる策に舌を打つ。
「(やっぱこれしか思いつかないな。先生には申し訳ないけど……)」
できれば御子とは、綺麗な形で分かれたかった。それこそ、ドラマのワンシーンのように。しかしその望みも絶たれたと悟れば、夜凪は「先生」と声を掛ける。
「な、なに?」
「お別れです。これで、先生はもう問題児の面倒を見なくてよくなりますよ」
身を小さくしていた御子が夜凪の言葉に起き上がり、その瞳を潤ませる。
「そんな……行っちゃダメよ⁉ アナタは私の生徒で、大切な教え子なのに……ッ」
「なら生徒して最後に先生を守らせてください」
「ダメ! 行かないで⁉」
伸ばした手は届かない。
一気にギアースとの距離を詰めて、夜凪はワンパータンな攻撃を容易く躱す。そしてもう一度、ギアースの腹に蹴りを入れる。宙に浮いた体躯に、夜凪は間髪入れずに二撃目を浴びせてさらに上へ弾く。
「お前と俺はこの世界の住人じゃない。元の場所に帰るぞ」
「――ッッ⁉」
吹っ飛ばし、ギアースは裂けた空間に吸い込まれていく。徐々に漆黒の体躯が飲み込まれていくが、抵抗しているせいで全部収まっていない。
「行っちゃダメ! 夜凪くん⁉」
「ごめんなさい、先生。俺、帰らないと。じゃないと、先生にまた迷惑かけるから」
避けたはずだが一撃を喰らってしまって、頬から鮮血が流れる。鋭い痛みが襲うも堪えて、夜凪は涙を流す御子に笑みを浮かべた。
「本当にありがとうございました。先生と一緒に勉強したり話せたり、凄く楽しかったです。クラスの皆と一緒にいられたのも楽しかったです」
空間が少しずつ閉じていく。このままじゃ、夜凪は異世界に帰れなくなる。そうなれば母との約束を果たせないから、胸に生まれる感傷に浸りながら荷物を背負った。
「まだ貴方に何も教えてないわ! 貴方の卒業させられないなんて嫌よ! 私を本気で好きなら、帰るんじゃないわよ!」
行かないでと懇願する御子に、夜凪は胸裏の激情を押し殺す。そうしないと、本当に御子の手を握ってしまうから。
――涙を拭えなくて、ごめんなさい。先生。
「それじゃあ、これからもどうかお元気で。御子先生」
「いやっ! 行っちゃダメ⁉」
泣き叫び、必死に手を伸ばす御子に最期に微笑みを向けながら別れを告げれば、夜凪は机を踏み台にして跳躍した。刀を突き出し、もう一度地球へ降らんとするギアースに切先を押し込む。漆黒の魔獣と共に、夜凪も亜空間に飲み込まれていく。
異世界へと戻る刹那。最後の御子の声を聞いた。
「夜凪くん――――――ッ⁉」
さよなら、先生。
御子の絶叫が胸に刺さりながら、夜凪は亜空間へ飲み込まれた。
そして――フウカ・ヤナギは異世界回帰した。
―― Fin ――
次回から第1章『 異世界回帰編 』です。ついに異世界へと帰還を果たしたヤナギ。しかし試練は続く⁉
応援宜しくお願いします! ラブコメも書いてるので是非~