第3話 『 果たすべき約束の為に 』
いずれ果たされる約束を果たす為に、夜凪は八年の歳月をかけて入念な準備を怠らずに生きてきた。
夜凪は運動神経が高いが、それは幼少期からの訓練の賜物である。朝は毎日五キロのランニングをし、帰宅すれば腕立てに腹筋を百回。入浴後は必ずストレッチをしているので体も新体操の選手並みに柔らかい。無論、それ以外にもトレーニングを行っている。
夜凪の異世界には魔獣、と呼ばれる人害する為、対峙する事を想定して体術や剣術も当然会得している。体術は完全に我流だが、剣術の方は義父である吉継が昔剣道を習っていたという事で指導してもらった。
家事スキルに関しては義母である葉久美から全てを教わった。掃除に裁縫、料理も高校生の中ではかなり高い能力を持っていると言っていい。
そして肝心の知識はというと、本――つまりラノベとアニメから得た。
夜凪の本棚にずらりと並べられているラノベは千冊近くある。その内の八十%は〝異世界もの〟が占めている。残りは趣味だ。
客観的に見れば、夜凪は完全にヲタクだ。だが、夜凪からすればラノベやアニメは異世界での生活に戻るにあたって本当に勉強になる参考書たちだった。
おそらく、今の夜凪が異世界に返れば無知な人間だ。当然日本の通貨は使えないので一文無しだし、文字も大半を忘れてしまっている。
さらに、夜凪の世界の住人は魔力が体内に巡っていて魔法が使える。つまり異世界人である夜凪も当然魔法を使えるのだが、どういう訳か日本では魔法は使えない。九歳の時に魔法を使ってみようとしたが、何の変化も生まれなかった。おそらく、夜凪が元いた世界と地球では大気の性質が根本的に違うのだろう。おかげで、夜凪は魔法の練習が八年間何も出来なかった。
異世界に戻ったらすぐに使えると重畳なのだが、それはほぼ不可能だろう。現実はフィクションほど上手く造られていなし、夜凪には女神もいなければチート能力を与えてくれる神様もいない。たぶん、夜凪に俺TUEEEEEEE‼ は起こらない。
だからこそ、今日までひたすらに努力と研鑽を積み重ねてきたのだ。
全ては、母との約束を果たす為に。
「母様。もうすぐ、俺はそっちに戻れるよ」
そうなれば、すぐに平穏とは切り離された日常に変わるだろう。けれどその予感に恐怖はない。
瞼を閉じれば蘇る地獄を思い出せば、恐怖よりも覚悟が強く溢れる。
もう、あの日泣くだけだった自分はいない。
もう、弱くて惨めな自分はいない。
弱い夜凪は、あの日捨てた。
「あと二日で俺も十七歳か……」
夜風を浴びながら月を眺め、夜凪は述懐に耽る。
「待ってろよ、ユグドラシル」
八年前に暮らしていた世界の名前を呟いて、夜凪は届かない月に手を伸ばした。
―― Fin ――