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和之:傷

「ぐわぁ!」

 放課後、芝生に寝ころんで心地よい眠りに浸ってた土浦つちうらは、腹に思わぬ奇襲を受けて叫び声と共に体を起こした。傍らに立った眼鏡の男子生徒が、居丈高に自分を見下ろしている。

「こんなところで寝てると踏まれちゃうよ」

「てめぇなぁ…」

 腹を踏んだ張本人に怒りの声を漏らす。しかし犯人は罪の意識など全くないようで、土浦の非難の目にも動じず続けた。

「あのさ、猫見なかった?」

「猫ぉ?」

「そう、これぐらいの大きさで、長毛種の真っ白の猫。だけど汚れててぱっと見は灰色に見えるんだよね。見なかった?」

 両手で40センチほどの幅を取って、神崎こうさきはそう言った。猫ならばもう大人の大きさだ。

「見ねーよ」

「そっかぁ。ここに居着いてた野良なんだけど、姿が見えなくて心配してるんだよね」

「どっかでくたばってんだろ」

 興味なさそうに寝ころんだ土浦を、神崎はまたも容赦なく踏みつけた。

「あのなぁ!」

 抗議に起きあがる。

「学校終わったのに、なんでこんなところで昼寝してんのさ」

「なんでもいいだろ」

 そっぽを向いた土浦に三度蹴りを食らわす神崎。反抗する気力も失せた土浦が、ぼそりと返す。

「──…親父が家にいんだよ」

「だからってこんなところで暇つぶし? 図書館でテスト勉強でもしたほうが涼しいし有益だと思うけどね」

「うっせぇ、とっととあっち行け。お前がいると落ちつかねぇんだよ」

「もっとカルシウム取った方がいいよ」

 神崎は自分の所業は棚に上げて、忠告して立ち去る。その後ろ姿に土浦が言った。

「おい、あいつまた厄介なのに目ェ付けられてるみたいじゃねーか。火の粉まき散らすような真似すんなよ」

 同級生の言葉に神崎は踵を返した。一直線に土浦の元へ歩いていき、思い切りその背中を踏みつける。土浦のつぶれた声を無視し、眼鏡の少年は不機嫌に言い放った。

「言われなくてもちゃんと対岸にいるように心がけてるよッ」


 夜、和之かずゆきは机に向かって勉強をしていた。宿題の大半を済ませ、今は残りの二三問の難題と睨めっこをしているところである。

 そこについ十分ほど前にやって来ていた母親が、同じ言葉を繰り返すために再び息子の部屋を開けた。

「ちょっと和之、お風呂に入りなさいって言ってるでしょ。いつまで勉強してるの」

「わかってるよ。この問題がどうしても分からなくて気になるんだよ」

 和之は振り返りもせず、宿題のワークブックを前にうなり声を上げる。

「分からないなら明日学校に行って、誰かに聞けばいいじゃないの。明日も朝練あるんでしょ。寝坊しても知らないわよ」

「──それもそうか」

 少し考えた後、あっさりそう言って問題集を閉じる。やっと諦める気になった息子に、母親はやれやれとため息をついて部屋を見渡した。同年代の男の部屋に比べて、すっきりした物足りないと言っても言い部屋である。ほとんどの物は机やタンスにしまわれ、目に付く物と言ったら鞄や学生服といった日常使う物しかない。どの家にもありそうなプラモすら見あたらなかった。

 まだ幼い妹達に荒らされるのを避けての事だろうが、それにしてもあまりに閑散とした息子の部屋を見る度に、母親の早苗さなえはいつも一体誰に似たのかしらと疑問に思うのだった。

 早苗は大ざっぱな方で、片づけると言っても部屋の端や押入に邪魔な物を追いやって満足するタイプだった。父親の浩之ひろゆきなどは更にいい加減で、片づけをさせると返ってどこに何を仕舞ったかさっぱり分からなくなるようなアバウトさである。

 強情なくせに妙に割り切りのいいところは確実に父親似なのだが、この几帳面さは先祖返りでもしたのかと常々不思議に思わせた。

 汚くされるよりいいかと思いつつ、タンスから着替えを取り出している息子を見ていた早苗は、その上に置かれた古い変形ロボットに気が付いた。

 帰ってきた時に、俊之の手から取り上げていたものだと気づく。手にとって右腕を動かそうとするが動かない。

「あんたまだこのロボット持ってたのね。しょうちゃんが壊したやつでしょ」

 和之は母の言葉に相槌をうっただけで、引き続き着替えの準備をしている。

「最近どうなの、正ちゃん。ちゃんとやってる?」

 すぐ隣なのに縁遠くなってしまった感のある正太を、心配しての台詞だろう。

「普通だよ。それより母さん、通りにくいんだけど」

 和之はそう言って、着替えを片手に出入り口を占拠する母の前に立った。


 先輩に会わないよう、和之と正太は昇降口に近い西階段ではなく東階段から下りた。もう随分遅いので校舎に人影はなかった。

「俺今日ビデオ返しに行かなきゃならないんだけど、お前も付き合うか? 借りたいのあったら一本ぐらい借りてやるぜ」

「テスト前だってのに余裕じゃん」

「お袋に頼まれたんだよ。用事があって行けないって言うからさ。お前のことだからどうせ早く帰ったって勉強なんてしないんだろ」

「まぁねん。でも今日は晩飯当番だから付き合うのは無理だな。当番サボると親父がコエーからよ」

「あれ? でも最近ほとんど親父さんが作ってなかったか?」

「俺が部活で忙しかったからな」

「今も前も忙しいことに変わりはないだろ」

「だから、慣れるまでってことでやってくれてたんだよ。もう丸三ヶ月経って慣れただろうからって、今月から週に二回は俺の当番なんだよ」

「相変わらず厳しいな、親父さん」

「あーあ、そのうちまた一日交代になるんだろうなぁ…憂鬱」

 正太がため息を付いた直後、どさっと重いものが落ちる音と複数のものがバラバラと散らばる音が聞こえた。間を置かず、死角になった廊下から、和之たちがいる階段の前へ何かが勢いよく飛び出して来る。見たところ弁当包みのようである。

 和之も正太も思わず足を止めた。散らばった荷物を追いかけるようにして声が響く。

「──ざけんなッ!」

 怒りを押さえこんだ苦しげな声。その声には聞き覚えがあった。廊下を、駆け足で遠ざかっていく足音が木霊する。

 和之は階段を下りて、落ちていた弁当箱を取り上げた。数メートルに渡って教科書や筆箱が散らばっている。中身を吐き出し無惨に横たわった鞄の向こうに、持ち主の姿。腕まくりして足下のノートを拾い上げようとしていた武蔵むさしは、和之に気づいて手を止めた。もう声の主の姿は見えなくなっていた。

「…さっきの、もしかして井上いのうえか?」

「ああ」

 武蔵は和之に歩み寄ると、礼を言って弁当箱を受け取った。横になっていた鞄を起こして、残りの所持品を集め出す。和之は散らばった教科書を拾うのを手伝ったが、正太は少し離れたところで黙ってそれを眺めていた。

「何かあったのか?」

「…ちょっとな」

 曖昧に答える武蔵に、二人ともそれ以上詮索することはしなかった。元々話したがらない奴だ。深く聞いても答えが返ってこないことは経験でわかっていた。それに、和之自身そういう話題は好きじゃない。

 武蔵は手早く荷物を集め終え、鞄を手に立ち上がった。動揺している様子は全くない。

「これもお前のか?」

 今まで傍観していた正太が、そう言って武蔵に何かを差し出した。薬。銀のシートに白い錠剤が整然と並んでいた。

「ああ、ありがとう」

 差し出された手に薬を乗せようとした正太が、不意に動きを止める。腕まくりをしたその手首に──傷跡。

 その傷のことは、今では誰もが知っていた。右手首に白く隆起した横一文字の傷は、否が応でも目を引きつけた。

 武蔵は普段から少しサイズの大きめのカーディガンを着ていたので、傷が目立つことはなかったが、体育や部活の時間は半袖になるので傷があらわになった。 

 入学当初は随分と話題になったものだ。自殺未遂に事故、傷害事件…。先輩達の間で特にそれはひどく、耳にしない時がなかったほどだ。けれど肝心の武蔵は傷のことをどれだけ追求されても、沈黙を守るか「別に…」としか言わなかったため、三ヶ月近くが過ぎた今では、誰一人その話題に触れる者はいなかった。

 ──自殺と言うには深すぎ、事故と言うには狙いすぎた場所の傷。

 原因不明のその傷は、謎を残したまま武蔵の右手首に存在し続けていた。

「あ、悪い──」

「いや、もう見慣れた傷だから。

 見ないフリをしたからって、消えてなくなる訳でもないしな」

 薬を鞄にしまいながら、武蔵は何気なくそう言った。武蔵がその傷について自分から話をするのは初めてのことだった。

 驚く二人を後に、武蔵は友達が待つという美術室へ行ってしまった。

 初めてだな──とそう言いかけて、和之は言葉を詰まらせた。横に立った幼なじみは、怒りに満ちた、けれど今にも泣きそうな顔で同級生を見送っていた。


 家に帰ると、弟が勝手にロボットを持ち出して遊んでいた。

「俊! これは駄目だって言っただろう」

 怒鳴って弟の手からロボットを取り上げると、兄の剣幕にびっくりして弟の俊之は泣き出した。

「どうしたの?」

「なんでもない」

 母親が聞いてきたが、和之はロボットを手に部屋に向かった。

 どうしても忘れられない風景がある。体育会で賑わう昼のグラウンドで、拳を握りしめて立ちつくす正太の後ろ姿。四方から親子の明るい声が聞こえる中、その背中は全てを拒絶しているように見えた。

 もう5年も前、小学2年の時のことだ。

 当時のかわいげなど面影もなくなってしまった幼なじみだが、今でも時折、あの後ろ姿が重なって見えた。

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