和之:ワークブック
「正太、昨日貸した社会のワークブック返してくれよな。今日授業あるんだ」
朝練が終わり部員たちが着替えをしている体育館用具室で、和之は几帳面に畳んだ体操服を鞄に詰めながら幼なじみそう言った。昨日、「月曜の授業の後どこに行ったかわからなくなったから貸してくれ」と言うので貸してやったのである。
「え?」
朝練後の腹ごなしに、朝食の残りの安い食パンを食べていた正太は、何のことかと首を傾げた。
「俺、そんなもん借りたっけ?」
「なに言ってんだよ、お前がなくしたっていうから貸してやっただろ」
「…ああ、そう言や借りたな。すっかり忘れてた」
一歩遅れて思いだし、ぽんと拳をたたく。
「昨日の話だぞ…? まぁいいから返してくれよ。一時間目なんだ」
「えっ、いやぁ……その、持ってきてないかもぉ…」
催促された正太は、気まずそうに目をそらしながらしどろもどろ答えた。
「なんだよ、教室に置きっぱなしにしてんのか。じゃあ教室行く途中にもらってくよ」
「いや…そうじゃなくて──昨日、持って帰っちった」
「…なんだって?」
和之は顔を曇らせ、いかつい目つきで幼なじみを睨む。正太はもう笑うしかないといった様子で、緊張感なくへらっと笑った。
「ははは、家に置いたままだわ」
「てめぇ──『ははは』、じゃないだろう! 何で持って帰ったりするんだっ、どうせ忘れてくるのに!」
恩を仇で返された怒りに襟首を乱暴に掴み上げる。身の危険を感じたか、正太もようやく必死に言い訳をし始めた。
「宿題が出たんだ、宿題がっ! だから仕方なく…」
「宿題だと!? どうせ持って帰ったってしないんだろうがッ」
「う゛」
図星を指されて言葉を詰まらせる正太。余計幼なじみの心証が悪くなっただけだった。
「どうしてくれるんだッ! あの先生、誰が何回忘れ物したかチェックしてるんだぞ!?」
「根性悪いよな、ははは」
「お前が笑うな!」
無責任さに苛立ち正太の首を絞める。命の危機に、正太は笑うのを止めて叫んだ。
「ぎゃーッ! ならお前も誰かに借りればいいだろうッ」
「──。それもそうだな」
現実に戻った和之は、手を離して部活仲間の阿恵を振り返った。
「おい阿恵。社会の授業あったらワークブック貸してくれ」
着替えを終えた阿恵は、お気に入りの武蔵ととりとめのないをしていた。
「社会はあるけど…ワークブックって資料集のこと?」
「そうじゃなくて、青か緑かわからない曖昧な色の、薄いノートみたいなやつだよ。あるだろ?」
「──ああ、そう言えばあったねぇ、そんなの。でも原先生それ全然使わないから、家に置きっぱなしで持ってきてないや」
あっけらかんとした口調とは裏腹に不吉な予感漂う発言を聞き、和之も正太も眉を顰めた。
「え、そうなのか…?」
「うん。それに社会の担当が違うのって、確か二組と五組だけだから、他のクラスで持ってる人探すのは難しいんじゃないかな」
和之の怒りは決定的になり、再び幼なじみを締め上げにかかる。
「やっぱりお前がなんとかしろ!」
「わかったッ、とにかくクラスの奴に聞いてみるから落ち着けって」
「絶ッ対になんとかしろよ! お前の失敗肩代わりする気は微塵もないからな!!」
「楠本」
「なんだよ?!」
静かに掛けられた声に、冷静さを失った和之は怒鳴るようにして振り返った。そこに、ターコイズ色の小冊子を手にした武蔵が怯みもせずに立っていた。
「お前が言ってるのって、これのことか?」
武蔵が差し出したそれは、正に和之が切に求めていた社会のワークブックであった。目の色を変えて飛び付く。
「そうっ、これだよこれ! 貸してくれ」
「いいよ」
「武蔵に感謝しろよな」
非難を含んだ声で正太に言う。正太は感謝するどころか、拗ねた子供のようにふんっとそっぽを向いた。不遜な態度をたしなめるため、幼なじみの後頭部を平手で叩く。
「悪いな。一時間目が終わったら返しにいくよ」
「いつでもいいよ。今日は授業もないから」
その発言に和之と正太だけではなく、阿恵も首を傾げ、三人そろって限界まで中身が詰め込まれている様子の、武蔵の学校指定鞄に目を向けた。
(まさか、教科書全部入ってるのか…?)
返すのはいつでもいいと言われた和之だったが、4時間目が体育だったのでグラウンドへ向かうついでに少し遠回りをして返し行くことにした。放課後の部活時でもよいのだが、借り物をしたままなのは気にかかる。
「俺、ちょっとこれ返しくるから、先に行っててくれ」
ワークブックを手に、友達2人に断りを入れる。
「お前が忘れ物するなんて珍しいな」
「俺は忘れてないよ」
「は?」
友達の茅野は、走り去る和之を首を傾げて見送った。
校舎の外れに建てられた、プレハブ建ての八組に向かうと、その手前、A棟とB棟をつなぐ渡り廊下で井上と正太の姿を見かけた。柱に寄りかかって2人で歓談している。
井上の退部は、朝練の最初に部長の山鹿から告げられていた。正太のことだから、井上を部に戻るよう
説得しに来た訳ではないだろう。正太のクラスは二組でA棟東端、八組はB棟の西隅にあるので対角線上の端と端に近いほど離れている。こんな離れまで何をしに来たのかと訝っていると、井上が和之に気づいた。
「噂をすれば陰だな」
そう言って正太に向かってにやりと笑い、それを受けて正太は肩を竦めた。自分のことを噂していたようだ。和之は2人の側に行くと、憮然として言った。
「どうせろくでもない内容なんだろ」
正太と井上、二人して笑う。
「いや、お前って過保護だよな~って話」
正太に対して、と言うことだろう。昔から何百回と言われているが、何度言われても面白くはない。突っ込んでも不愉快なだけなので、それ以上は無視して正太に言った。
「俺のうわさ話するためにこんなとこまで来てるのか?」
「別に。通りかかったからさ」
正太がよくする、本当か嘘か分からない軽い口調だった。井上が尋ねる。
「で、何か用か?」
「武蔵に借り物返しに来たんだ。いるか?」
和之も井上を説得する気にはなれなかったので、聞かれたことを答えた。
井上は武蔵の名を聞いて眉を顰めた。俄に暗雲を纏って、「さあな」とぶっきらぼうに答える。代わりに答えたのはクラスメートでもない、ただの通りがかりの正太だった。
「彼奴なら保健室だぜ。親友の見舞いにさ。能瀬にでも預けておけよ」
と、八組の教室横でドッチボールをしている一人を目で示す。能瀬は小学時代からの2人の友達だ。
井上にはとても預けられる空気ではないので、和之は正太にぐずぐずしてないで教室に帰るよう注意をしてから能瀬に声を掛けた。
ワークブックを能瀬に預けて昇降口に向かう途中、タイミング良く保健室前で武蔵に出会った。保健室は資料室を挟んで昇降口の横に位置する。もうすぐ休み時間も終わる頃となれば、それほど珍しいことでもない。友達と保健室から出て来たところだった。
八組と二組では方向が逆なので、2人は保健室前で別れの言葉を交わしていた。
「無理するなよ」
「それはこっちの台詞だよ。じゃあ放課後にね」
武蔵の忠告に神崎が言い返す。先ほどの正太の言葉から察するに調子を崩して寝ていたはずだが、神崎はとてもそうは思えない覇気のある声で武蔵に答え、すぐ側、昇降口前にある階段を上がっていった。
十数メートル先から歩きつつ2人の様子を見ていた和之だったが、振り向いた武蔵は背後の仲間に驚くこともなく、普通に声を掛けてきた。
「次は体育か」
「ああ。ワークブック、返しに行ったんだけど、いなかったから能瀬に預けといたぜ」
「ありがとう」
「こっちこそサンキュ。お陰で減点されずに済んだよ。
さっきの神崎だろ? 調子悪かったのか」
「少しな。もう大丈夫だよ」
「──正太と仲いいんだよな」
神崎が去った後の階段を眺めながら、何となくそう言った。武蔵はそんな和之を見て、穏やかな笑顔を浮かべた。
「うん、気が合うみたいだな」
その笑顔に和之は一瞬、目を見張った。この笑顔、どこかで見たことがある。
引っかかりが解消されないうちに武蔵は普段の無表情に戻り、怪訝な様子の和之を見上げた。
「急いだ方がいいぞ。もうすぐチャイム鳴るんじゃないか?」
「わっ、不味い。じゃあまた部活でな」
先生に怒鳴られては大変と、和之は慌ててグラウンドに向かった。
「暑いな…」
体操服で汗を拭いながら土浦が言った。四時間目の体育を終え、和之は友達の茅野と土浦と共にようやく四階まで上がってきたところだった。
「ホント、殺人的な暑さだぜ。また雨でも降らねーかなぁ」
茅野がぐったりしながら言う。
土浦は三白眼のボサ髪で、茅野は猫目に茶髪。2人とも元々人相が悪いところに夏の暑さと体育の疲れでより一層近づきがたい顔になっていた。
一年のクラス分けは何故か系統毎に分類されているとしか思えない割り振りになっていて、和之のクラス、5組は小学時代に警察のお世話になった経歴の持ち主が多数いる、そういうクラスだった。
因みに正太のいる二組は、シンクタンク予備軍と言われるほど成績上位者で固められている。クラス発表を見たとき、和之は半ば本気で正太と自分が間違われてクラス分けされたんじゃないかと疑った。成績は十人並みで自慢出来るものじゃないが、今まで先生の手を煩わせるようなことをした覚えはない。一方正太は小学時代は問題児、加えて中間テストは下から数えた方が早いほどの勉強嫌いである。どう考えても間違っている。
荒れていた頃の正太を知っているお陰か、和之はガラの悪い連中の集う五組だからと言って、特に気圧されることなく普通に学校生活は送っているのだが。
とんがっている者同士集めると相乗効果で悪くなるかと思いきや、最初は毎日のようにごたごたがあったものの、今ではいくつかのグループに分かれ牽制しつつ、同調しつつの微妙なパワーバランスで安定していた。悪ぶる奴らは寂しがり屋が多いって言うけど、結局似た者同士で落ち着くのかな、と和之は思っていた。
友達2人に負けず劣らず暑さに辟易した顔で廊下を歩いていると、前方から女子の賑やかな声が聞こえてきた。体育は5組6組合同なのだが、着替えは男子は5組、女子は6組でする事になっている。その6組前で、体育を終えた女子生徒4、5人が窓から外を見てなにやらはしゃいでいた。何かと思い目を向けた和之は、窓の外の景色に足を止めた。
中庭に男子生徒数人が集まって、アクロバットの練習をしていたのだ。中には能瀬の姿も見える。さっきドッチボールをしていたメンバーのようだ。
小柄な人物が一人、集まりから走り出て中庭の芝生の端から端まで、前転から側転、最後にバック宙と見事なアクロバットを繰り広げた。続いてそれよりもっと小柄な、一人水色のカーディガンを着た人物が、人物が、そっくりそのまま同じ技を披露する。どちらも流れるような、思わず見惚れるアクロバットだった。
見物していた女子が歓声とともに手を振ると、アクロバットをした2人は見上げただけだったが、残りの男子が楽しげに手を振り返した。
「へぇ…」
思わず感心の声が漏れる。と、横から同じ感嘆符が聞こえた。
「さっすが武蔵。やっぱ彼奴運動神経いいよな。な、土浦」
顔を向けると、からかうように言う茅野を土浦が不愉快な顔で見返していた。二度目に走り出たのは武蔵だった。
「お前ら武蔵と知り合いだったのか?」
「小学の時同じクラスだったんだよ。お前こそなんで知ってんだ?」
「どっちもバスケ部だろうが…」
茅野の疑問にぼそりと答えたのは土浦だ。
「へぇ、よく知ってるじゃん」
土浦は面白がって笑う同級生を睨み付けたが効果はない。茅野は楽しげな顔で、楠本を振り返った。
「実はさぁ、あいつ小学ん時いじめられてたんだけど、こいつ──」
そこまで言い終わるか終わらないかのタイミングで、茅野に向かって正拳突きが繰り出される。
「うわぁ!」
叫び声を上げつつも、茅野はボクサー並の反射神経でストレートを躱した。殴りかかったのは話のネタにされかけた土浦である。手加減のない本気の右だった。
「テメェっ! 突然何すんだ?!」
「お前が下らねぇこと喋ろうとするからだ」
「だからっていきなり正拳はないだろうが正拳はよッ。口で止めりゃ済むことじゃねーか。ったくこれだから言語でコミュニケーションとれない右脳人間は困るんだよなぁ」
やれやれと言わんばかりに肩を竦める。その芝居がかった態度がかんに障ったのだろう、土浦は三白眼を鋭くさせた。
「──なんだと?」
「やる気かよ?」
待ってましたと拳を構える茅野。純粋に楽しそうだ。
この2人、大体いつもこの調子である。茅野は土浦を友達だと言っているが、土浦は断固として認めていない。確かに、茅野はどう見ても土浦をからかうために一緒にいるとしか思えなかった。
茅野は人好きのする性格だが、土浦は一匹狼タイプ。土浦は日頃から茅野に付きまとわれて迷惑だと言っているが、本心だろう。
そこに生真面目な和之が加わって、クラスでは異色のトリオとして目立っていた。
和之は日常茶飯事の出来事にため息をついた。短絡的に喧嘩を始めた二人の頭を遠慮なく平手で殴る。
「廊下で喧嘩するなっ。迷惑だろう」
一喝された茅野と土浦は、大人しく構えていた拳を引き下げた。
二人とも小学校時代は相当な悪ガキで先生やクラスメートを手こずらせたものだが、どうにも和之には頭が上がらない。真面目な奴ほど切れると扱いにこまるんだよなぁ…と内心二人とも思ってはいたが口には出さなかった。
二人が大人しくなったのを見届けると、和之は再び中庭に目を向けた。武蔵は仲の良いクラスメートたちと笑って話をしている。部活中にはとんと見ない顔だ。
保健室前で見た武蔵の笑顔が頭の中で重なる。前にどこかで見た笑顔――。
一体どこで見たのだろう。すぐ近くまで浮かんでいるのに掴めない。ベールと言うより、壁がある感じだ。
──随分前だった気がする。けれど入学してから今までの記憶をどれだけ手繰っても、そんな映像は出てこなかった。何か大事なものが欠けている。理由さえはっきりしない違和感と不快感が頭にまとわりついて、どうもすっきりしなかった。
険しい顔で黙り込む和之に、沈黙に耐えられない茅野が新たな話題を振ったが、内容は明るいものではなかった。
「にしても彼奴って、よく目付けられるよなぁ。今も同じクラスの奴からいじめられてるらしいぜ」
「誰から?」
和之が聞いたのと同時に、土浦も怪訝な顔を向ける。それを目敏く見て取った茅野は意地悪な笑いを浮かべて、和之ではなく土浦に向かって言った、
「知りたい? 教えてくださいって言うなら、特別に教えてやってもいいんだぜぇ?」
「──殺すぞ!」
にやにや笑う茅野に土浦はまたも切れ、2人は再び殴り合いを始めた。ほんの数分前に自粛したにも拘わらず、茅野は土浦をからかうのが余程愉快らしい。
目の前で騒ぎ始めた二人に再度止める気力も失せた和之は、二人をほったらかして一人教室へ帰った。