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和之:漢字スタンプ

 井上いのうえが辞めて二日目。部活はたった四人という寂しいメンバーだが、ランニングや基礎トレーニングが主な部活内容なので、一人減っても実際のところ差し障りはない。あんなに毎日一緒にいた相手でも、いなくなってしまえば急速にそれが日常になる。これまでもそうだった。

 まず入部後一週間ほどの間に、冷やかし半分で入った2人が辞めた。その後一ヶ月ほど脱落者は出なかったが、先輩の不当な態度を腹に据えかね反駁した三人がまとめて退部。以降、一週間に一人ほどの割合でリタイヤしていった。

 辞める気持もわかるが、仲間が減るのはやはり寂しかった。けれど一人、また一人と減っていくうちに寂しさは逆に薄れていく。最初の頃は辞める仲間への憤懣やその後の不安もあったが、今は諦めの方が強い。

 和之かずゆきはそれが少し切なかった。

 阿恵あえは井上が辞めてから過剰に武蔵むさしにまとわりついている。人なつこく寂しがりやな阿恵には井上の退部は相当応えたのだろう。夏の暑い中に付きまとわれ、武蔵は迷惑そうだが。


 井上とコンビを組んでいたのは正太しょうただった。トレーニングの大半は一人で出来るので、柔軟や腹筋背筋の時ぐらいしか組むことはないのだが。先輩の目が光っていて雑談を楽しむ余裕はないが、それでもよく小声で何か言い合って楽しそうに笑い合っていた。その分二年に叱られることも多かったが、気の合うコンビに見えた。

 今は武蔵と組んでいるが、葬式のように静かだ。

 元から武蔵のことは苦手にしているようで、話すこともなかった。


 放課後の部活が終わり、片づけや教室の戸締まりをして昇降口に向かう途中、和之は幼なじみに、漢字スタンプに挑むべく、遠江先生を探しに行かないかと誘ってみたが、正太はしかめっ面をして断った。

「いいって、俺はここで待ってるよ。どこにいるのかわからねぇのを捜し回るほど気力も体力も残ってねーし」

 昇降口前の階段に腰かけて正太が言う。

 漢字スタンプは校長先生が発案したらしい左右田中学独自の制度で、担当である国語教諭の遠江から問題を出してもらって正解したら、スタンプカードに押印がもらえ、スタンプ一個につき夏休みの宿題の書き取り1枚が免除されることになっていた。

「何やってるの?」

 声をかけてきたのは阿恵だ。今までどこにいたのだろうか。

「えーちゃん捜そうと思ってさ」

「ああ、漢字スタンプ? 今なら保健室辺りにいると思うよ、遠江先生」

「本当か?」

「十中八九ね」

「お前も一緒に来いよ」

 場所が絞られたので、座った正太を改めて誘ってみる。正太は手を振って幼なじみの誘いを二度断った。

「正解すれば書取一枚免除だぞ」

「正解すりゃあだろ。大体こいつの言うことがホントかどーかもわからねぇのに、無駄足踏むのはごめんだね」

「芽室、こいつ呼ばわりは非道いよ」

 眉を八の字にして阿恵が情けない声を出した。

「じゃあアホ」

「それもっとヤダ」

 今度は顔を顰めて言う。神崎から「あほ王子」とあだ名されている阿恵だが、神崎にも抗議していたし、アホ呼ばわりは普通に嫌なようだ。

 和之は阿恵のフォローはせず、やる気のない幼なじみを見下ろして言った。

「正太、お前たまには努力したらどうだ?」

「努力すりゃ結果が出せる訳じゃねーだろ。

そうだ和之。お前俺の代わりに答えてスタンプゲットして来てくれよ」

「巫山戯るな」

 名案と言わんばかりに明るい顔を浮かべた幼なじみの頭を殴る。

「いってーッ。どうせするなら気楽にヒトの頭殴らない努力しろよな」

 正太は叩かれた頭を抱えて愚痴った。


 保健室の引き戸を開けると、遠江どころか保健の先生もいなかった。代わりに眼鏡の男子生徒が椅子に腰掛けて本を読んでいた。和之に気づいて神崎こうさきが本から目を上げる。

「先生ならいないよ」

 和之に端的に答える。

 神崎は、よく見かけることはあっても、直接話をしたことはほとんどなかった。正太と同じ二組で二人は仲が良く、大体一緒に行動しているようだった。正太の口に上ることも多い。

ツーポイントの大きな眼鏡と気の強そうな眉が特徴的で、利発な顔つきを裏切らず、相当きつい性格だと聞いていた。体は弱いが、中間テストでは学年トップクラスに入る頭脳の持ち主だ。

 武蔵とは小学時代からの親友らしいが、部活後並んで帰る姿以外で一緒にいるところを見たことはない。クラスも部も違えば、それが普通なのかもしれない。

「いや、俺は…」

 えーちゃんに用事が、と言いかけたところで横から新客が押し入ってきた。渦目うずめ藤野ふじのである。

 体格の良い渦目は確か武蔵と同じクラスだったが、平均的体格で眠そうな顔をした藤野は、阿恵と同じクラスだっただろうか?

「ちょっとごめんよ。お、神崎。えーちゃんいるか?」

「いないよ」

「マジ? そこらのベッド私物化して寝てんじゃねーのかよ」

 事実ならば問題なことを言いながら保健室の中に入っていく。

「残念、さっきトイレに行くって出てったよ」

 遠江はトイレに行くと言って戻ってきたためしがなかった。

「がーっ、一足遅かったか!」

 がっくりと空いたベッドに倒れ込む。

「一人か…?」

 藤野が聞く。

「おっ、ホントだ。バトラーはどうしたんだよ、バトラーは。バスケ部ももう終わってるだろ」

「職員室だよ」

「職員室? あいつ何かしでかしたのか?!」

「何かってなにさ?」

「んー、──井上とやらかしたとか?」

「ならなんでお前が知らないんだよ」

 藤野が突っ込む。三人とも同じクラスなのだから、何かあったら渦目が知らないはすがない。

「そういやそうだな」

「馬鹿だねぇ」

「うっせぇ。そういやお前、この間の日曜の、武蔵から何か聞いてるか?」

「墨汁事件のこと?」

「なんだ、やっぱお前には話してんのか。俺が聞いてもさっぱり収穫なしだぜ。何聞いてもああとさぁしか返ってこねーんだもんよ」

「彼奴はゴシップには興味ないからね。僕も彼奴から聞いた訳じゃないし」

「じゃあ誰に聞いたんだよ」

「悪事千里を走るって言うだろ。

 それよりなんだってそんなこと聞くのさ。新入りの前歴がそんなに気になる訳?」

「いやぁ、武蔵と関係あるのかなぁと思ってさ」

「ないよ、関係なんて。下らないこと吹聴して回らないでよね」

「なんで『ない』って断言できんだよ。お前だって直接聞いた訳じゃないんだろ」

「あーもう、はいはい。そんなに知りたいんなら直接聞けば? そこのバスケ部員にでもさ」

「え?」

 渦目と和之、同時に驚きの声を上げた。

「え、あんたバスケ部員なのか?」

 と渦目が立ち上がった所に、武蔵の声がした。

「楠本?」

 廊下から武蔵が姿を現す。和之は不意を食らってビクッとし、渦目は再びがっくりと倒れ込んだ。

「タイミング悪いね」

「どうかしたのか?」

「どうも」

 親友の発言に武蔵が質問したが、神崎はつまらなさそうに適当に返した。

「えーちゃん知らないか?」

 武蔵は藤野に聞かれて後ろ、中庭の方を振り返る。

「中庭にいるけど」

 それを聞いてぐったりしていた渦目は元気よくベッドから飛び起きた。現金な性格である。

「よっしゃ、行くぞ藤野!」

 藤野は肩をすくめて友人に付いていった。

 渦目は去り際、和之に「また今度話聞かせてくれよな」と言って出ていった。

 和之は中庭に行かず、武蔵と神崎が話しているところを見ていた。武蔵は神崎と二人でいるときは笑顔だ。何かが引っかかる。楠本の様子に気づいた神崎が、訝しげな目を向けた。

「行かないの? えーちゃん探してたんだろ」

「…あ、ああ」

 武蔵に別れの声を掛け、遅ればせながら中庭に出ていく。藤野と渦目はもうスタンプをもらったようで、二人揃って昇降口に歩いていく姿が見えた。遠江は自分のコレクションの観葉植物の様子を眺めていた。

「お前もか? 『わせ』『おくて』の、おくてって書いてみろ…」

 遠江にノートを差し出されて書く。「晩稲」。遠江はノートに書かれた字を確認すると、カードを出すように言った。正解と言うことだ。

「えーちゃん。井上が辞めたのって、武蔵と関係あるの?」

 漢字のスタンプカードに「やったね!」の印を押していた遠江は、表情の読めないぼんやりした顔で生徒を見返した。

「──俺が聞いたのは、そんな理由じゃなかったけどな…?」

 遠江は和之にカードを返すと、もう遅いから早く帰れと先生らしいことを言って、校舎の中へ戻っていった。


 昇降口へ向かおうとした和之は、中庭の東側、コの字型の校舎の開けた方から正太の声が聞こえたので足を向けた。

 珍しく正太と阿恵が二人でいるのが見えた。珍しい光景なので、声はかけずに和之は二人の様子を眺めることにした。

「ブランシュ、ブランシュー」

 正太がそう呼ぶと、低木の茂みから猫が出てきた。少し薄汚れた白のチンチラだ。尻尾をピンと立てて正太の足にすり寄る。正太が手を差し出すと、目を細めて顔をすり寄せてきた。

「わー、ホントだ。よく懐いてるねぇ」

「だろぉ? ちくわが好物なんだぜ」

 猫は正太が差し出した竹輪をおいしそうに食べはじめた。普段は冷たい正太も、心底感心した様子の阿恵に上機嫌だ。こいつは動物といれば機嫌がいい。

「撫でても大丈夫かな?」

「平気平気。人慣れしてっから」

 阿恵が頭を撫でると、ブランシュはごろごろとのどを鳴らした。

「可愛いねぇ。武蔵にも見せたいな」

「彼奴が猫ごときで喜ぶかぁ?」

「前に動物好きだって言ってたよ。今度誘ってみようよ」

「やめとけやめとけ。断られるのがオチだぜ」

「どうして」

「お前が一緒だから」

「えーッ、そんなことないよ」

「いーや、間違いないね。昼飯賭けてもいいぜ」

 阿恵が必死に反論するが、正太は冗談半分であしらっている。またいつもの調子である。

 正太は阿恵を嫌っていると思われがちだが、馬鹿扱いするのは親しみを感じているからで、決して嫌いな訳ではない。

 それよりもむしろ武蔵に拘泥があるようだった。好きの反対が嫌いではなく無関心であるように、正太は武蔵に対して無関心を装っている様が、和之の心を騒めかせた。

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