和之:退部
翌朝、和之はしかめっ面で登下校路を歩いていた。
夏の盛りとはいえ今は早朝。暑さが身に応える時間はまだ遠い。和之の顔を曇らせていたのは暑さではなく昨日の自分の発言だった。
──全く、なんであんなこと言ったんだろう。
脅しをかけると言ったのは自分だ。けれど奇計謀略は好きじゃない。正攻法では効果がないのだから仕方ないのだが。
井上にはきつい一言ぐらい言うべきだし、言う権利はある。
ユニフォームにあんなことをされたのだ。今後一年に対する二年連中の風当たりは一層強くなるだろう。これ以上黙って苦汁を飲むのに付き合っていられるか。
けど──だからって、次やったら辞めてくれっていうのはやり過ぎの気がする。今まで一緒に頑張ってきた仲間だし、本人の意志を無視するみたいなやり方じゃ先輩達と変わらない。実際に辞められても困る。
頭に来ていたせいで余計なことを言ったかもしれない…。
全く、なんであんなこと言ってしまったんだろう。
宣言したことはやる、有言実行がモットーの和之としては、発言を反古にしたほうがストレスになるのは明々白々なので選択の余地はないのだが、それでも気が進まないものは進まない。頭の中は堂々巡りを繰り返すばかりだ。
そんな気持ちを知ってか知らずか、左隣の定位置を占める幼なじみは気楽に口笛を吹いていた。清涼飲料水のCMソング。渋面に重い空気を察してか話しかけてもこない。愚痴も八つ当たりもお断り、といったところか。昨日はあんなに怒っていたのに綺麗さっぱり忘れているようだ。羨ましい奴。
和之はぐじぐじ思い悩んでも仕方ないと自分に言い聞かせた。ワープホールから脱するため、別の話題を取り上げる。
「お前、この間肝試しやるとか言ってたけど、本当にやるのか?」
話を振られた正太は口笛を止めて、
「あ~、やるんじゃねーかな。みっちーと園田がやる気だからさ。神崎も乗り気だし」
みっちーこと道木と園田は正太と同じ二組。道木は出身小学が同じなので和之にとっても友達だ。昔からお祭り事が好きな性格だった。
和之と正太の家は町はずれにあり、地名は町だが周りは田圃だらけの田舎だ。学校からは徒歩で40分、4キロ近くある。ほど近い所には山があり川も流れていて、幼い頃は遊び場に苦労しなかった。
しかし、近くにあるのは人に都合のよい平穏な自然だけではない。実際数年に一度は足をすくわれ犠牲になる者がでる、河童がいると噂の沢。山の麓、鬱蒼とした場所にある古式ゆかしい墓場。そして怪談には欠かせない曰く付きのトンネル──と、肝試しには打ってつけの要素も盛りだくさんなのだ。
休み時間に恐がりの友達をからかって冗談半分にそういう話をしたら、道木と園田が乗り気になり冗談は俄に現実味を帯びたらしい。既に一泊二日の百物語付き、場所は正太の家と勝手に決まっている。メンバーはほぼ固まっているようなので、日程調整を終えれば実行確定だろう。
「誰が参加するんだよ」
「道木に園田だろ、神崎に、寒吉に代田──…あと誰って言ってたかな?」
最初に提案し、舞台提供までする正太を余所に話は着実に進行しているようだ。
「寒吉って、寒河江だろ。あいつも参加するのか?」
フルネーム寒河江吉喜は、道田と同じく小学時代からの友達で、極度の恐がりだった。喧嘩には自信があるが幽霊妖怪の類にはめっぽう弱く、寝る時も明かりを付けていないと眠れない奴だ。肝試しのきっかけとなったからかわれた友達、その人でもある。
「すると思うぜ。代田が行くっつってるし、一人仲間はずれの方が怖いんじゃねーの?」
「大丈夫なのかよ…」
小学5年のキャンプで肝試しをやった時の事を思い出す。途中まで他のメンバーの後ろに張り付いていた寒河江は、お化け役の先生に驚いて先生をはり倒し猛ダッシュ。絶叫を上げながら先発の班を追い抜いて一着でゴールしたのである。ゴールに着いたときは涙と鼻水ですごい顔だったとか。
和之も自他共に認める恐がりなので、他人の事をとやかく言える立場ではないのだが。
「お前も参加するか?」
和之は意地悪な笑顔の幼なじみを見返し、答えを保留した。代わりに言う。
「花火大会には行くぞ。お前も行くだろう」
花火大会は終業式の翌日に予定されている。和之は純粋に花火を見るのが好きだったが、正太は花火よりむしろ、出店の建ち並ぶ活気に満ちた空間が好きなようだった。
打ちあげはいつも主要駅南東にある市役所付近だったが、今年からは新しく整備された海岸近くで行われることになっていた。
「もち」
正太が笑顔で短く同意する。
「誰誘う?」
和之は幼なじみに聞いた。二人が行くことは確定だったが、一緒に行く友だちは毎年違っていた。去年は今度肝試しをするという、寒河江たちを誘ったのだが。
「さあ、お前の好きに決めろよ」
正太は少し考えてから言った。いつもは大体正太の意見を尊重していた。
「神崎はいいのか?」
今、正太と一番仲良くしているという、肝試しにも参加予定の友人の名前を口に出す。
「あいつは他に一緒に行くやつがいるだろうからな」
武蔵のことを言っているのだろう。随分と遠回しな言い方だった。いつもの正太なら武蔵も一緒に誘いそうなものだが。やはり武蔵に苦手意識をもっているようだった。
井上は来なかった。
じりじりそわそわ待っていた和之には、からかって遊ばれているのかと思うほど姿を現さない。大体一番乗りは和之と正太、そして井上。定時ちょうどぐらいに武蔵がやってきて、最後が遅刻魔の阿恵だった。
けれど阿恵が例のごとく五分遅れで謝りながらやって来ても、井上は来なかった。
「阿恵。井上、今日休みか?」
「ううん、聞いてないけど…まだ来てないの?」
阿恵も不安げな顔を浮かべる。昨日の今日だ。
(まさか──)
最悪の可能性を考えたとき、部長と二年の赤井が話しながら体育館に姿を現した。赤井は挨拶する一年の元に一直線にやってくると、短く井上の退部を伝えた。
「…井上の奴、辞める気でやったのかな?」
隣を歩く幼なじみへの質問とも自問とも付かない呟きだった。朝練が終わって教室に向かう途中のことだ。ずっと気になっていたが、部活中の私語は二年の反感を買うので口を慎む癖がついてた。私語解禁でようやく出せた言葉だ。
辞めるつもりで、最初からそのつもりで墨汁をぶちまけた。意趣返しに。
順当に考えればそうなのだろうが、事情を知っていて何の力にもなれなかった身としてはやるせないものがある。しかし幼なじみの反応は、和之の内心を笑うかのように遠慮なかった。
「そうじゃねーの。大した理由もなく墨汁撒かれちゃたまんねーぜ。成績のことで結構家族とも揉めてたって話だしな」
親との軋轢は和之も聞き知っていた。両親からはバスケ部への入部自体を反対されていたらしい。理由は勉強がおろそかになるから。成績を維持することで了解を取り付けたらしいが、毎日遅くまでハードな練習が続いては、成績を落とさずにいるのは難しい。部活が終わった後は塾にも通っていたが、煩く言ってくる両親に嫌気が差して、憂さ晴らしに塾をサボって遊んでいたことも度々だったようだ。
「でも彼奴、そんなに成績悪かったか?」
「少なくとも俺よりはよかったと思うぜ。完璧主義のご家庭なんだろ」
肩を竦めてそう言うと、四階にたどり着いた正太は、短い別れの言葉を残して階段をあがって左側にある二組の教室に入っていった。さばさばしたものである。
昨日まで一緒に艱難辛苦に耐えてきた仲間に対する態度がそれか?
正太の割り切った態度に和之は眉を顰めた。今時の若者は切り替えが早いスイッチ世代だ、などと、知ったかぶりのアナリストならそんな風に片づけるかもしれない。けれど、昔はああじゃなかった。少なくとも和之はそう思う。
(ちょっと、冷たいんじゃないか──?)
廊下の窓越し、クラスメートと話す幼なじみの後ろ姿を見ながら、和之は一人ごちた。
二時間目の国語の授業を終えた和之は、急いで八組へと向かった。井上のクラスだ。
退部の理由は多分、正太が言った通り──成績が落ちたから退部、そう言うことなんだろう。それでもやはり本人から直接話を聞かないとすっきりしない。
本当は一時間目の後すぐに行きたかったが、国語の授業は開始後10分間が漢字の小テストになっている。授業前、躍起になって漢字ドリルに向かう生徒の姿はクラス違わずおなじみの風景だ。テストの出来如何によって、夏休みに課せられる宿題に差がでるとなれば皆必死にもなる。和之もご多分に漏れず漢字ドリルと向かい合っていたのだが、そのお陰で手応えはあった。漢字の書き取り3枚分はせずに済むだろう。
三時間目は理科。小テストもないし、移動教室でもない。意地悪に当てる先生でもないとくれば今しかないと、急いで教室を飛び出した。
八組は遠い。全クラス中最も遠い場所にある。油断していてはほとんど話も出来ず引き返さなければならない。
和之のクラス、一年4組はクラス棟のA棟四階の中央辺り。そして八組はA棟と平行に建つ特殊教室棟-B棟の隅、に設けられたプレハブ教室。階段の上り下りだけでも大変だ。
なぜ八組だけそんなところなのか。
土地開発による新築マンション建設の余波で、去年まで一学年8クラスだったのが今年から9クラスに増え、急場しのぎに1クラスはプレハブ教室で過ごすことになったのだ。
普通あおりを食らうのは9組のような気がするが、何故か貧乏くじを引いたのは8組だった。生徒の間では担任がくじを引いて決めたと言うのが通説になっている。
校舎内を走ると先生に怒られるので、なるべく見つからないように急いだ。8組が移動教室だったら台無しだが、息を切らしてたどり着くと教室内はくつろぐ生徒で賑わっていた。タイムは二分弱。十分余裕もある。井上の姿を探すと、中程の列の後方に座っているのを見つけた。
教室に入った和之は、井上に声を掛けて空いていた前の席に座った。
「部のこと。朝、先輩から聞いたけど」
最初から不機嫌な様子だった井上は、その一言で辟易した顔を浮かべた。
「お前もかよ」
「え?」
「阿恵もさっき来たんだよ。考え直す気はないからな」
眉根を寄せて憮然と言い切る。余程しつこく引き留められたのだろうか。
「大体戻ったところで俺が上手くやってけると思うか?」
「それは…」
今までの所行を考えると、人が変わりでもしない限りあり得ない。返事も鈍る。
心を決めているのか、井上は未練気なく言った。
「遅かれ早かれこうなったってことだ」
「でもお前、バスケが好きで入ったんだろ? 成績とか、先輩とそりが合わないとか、そんなことで辞めていいのか」
「だから辞めるんだよ。何がバスケ部だ。三ヶ月も経つのに未だに基礎トレばっかじゃねーか。俺はバスケがやりたくて入ったんだ。これ以上我慢してたらバスケが嫌いになっちまうぜ」
と腹立たしげに言う。それが強がりでも本気でも、説得するのは無理そうだった。和之はため息をついた。とうとう残り四人か…。
入部当初、一年部員は13人いた。それが3ヶ月程の間で4人である。バスケ部は部活内容も先輩の『指導』も全部中一番厳しいと言われている。毎年夏休みまでの間に2分の1以下に減り、それ以降は安定すると聞いた。四月に2人、5月に4人辞め、二週間前に八人目が辞めてからは落ち着いていたのだが、ついに4名。4分の一以下である。三年の生き残りは6名、二年は8名いる。今年はスタート段階で人数が少なかったとは言え、1チーム組むことさえ出来なくなってしまった。
「これからどうするんだよ」
「陸上部に入ろうかなぁって考え中。あそこは上下関係うるさくないって話だからよ」
「…そっか」
「──悪かったな。あんな風に辞めちまって」
井上は態度を変え、申し訳なさそうに言った。
「やっぱあれ、ワザとか」
「心残りが無いようにな」
にっと笑う。こういうところは幼なじみに似ていると言えば似ている。あいつは正面から殴りかかりそうだが。もう少し他人の迷惑を顧みてほしいところはどんぐりだ。
「吃驚したぜ。事前に教えてくれてもいいんじゃないか」
「教えたら止めただろ?」
「当たり前だ。あの後ユニフォーム洗うのどれだけ大変だったと思ってるんだ? 炎天下の中で気が遠くなりそうだったぜ」
「悪い悪い。そこまで考えてなかったんだよ」
「考えろよ」
無鉄砲な元仲間に和之は項垂れた。
「まあこれからはお前らに迷惑かけることも無い訳だし、大目に見てくれよ」
井上は顔の前で手を合わせて謝った。胸が詰まる。そうこられては、これ以上きついことが言えなくなるじゃないか。
「それ、卑怯だろ」
「はは。ホント迷惑掛けて悪かったと思ってるよ。
お前は頑張れよな。多分大丈夫だと思うけど。最後に一人残らないことを祈ってるぜ」
「不吉なこと言うな」
本題を終え、余った時間は家のことや先輩ことで愚痴を言って過ごした。正太は悪口を聞くのが嫌いだし、阿恵はいつもフォローに回るし武蔵は論外。変な話、気持ちよく愚痴を言い合える相手は井上だけだったのだが。
話の途中に武蔵を見かけたので声を掛けたが、会釈が返ってきただけで話には寄って来なかった。井上とはあまり仲が良くないから遠慮したのだろう。
武蔵は周りが半袖ワイシャツの中、一人薄水色のサマーカーディガンを着ていたので目立った。学ランが合わないのか、衣替えの前も学ランではなく紺色のカーディガンを着ていた。
武蔵はクラスの友達数人と集まって話をしていた。感情の起伏は小さいが、笑顔を浮かべたりして話している姿は珍しかった。部活の間は人形を思わせるほど無表情なのだ。
周りのことに無関心だからと思っていたが、そうでもないのかもしれない。