墨汁事件
何が起こったのか、一瞬誰にも理解できなかった。
「お前──何しやがるッ!?」
6月末の日曜日、左右田中学校体育館でそれは起こった。時計は午後3時を少し回ったところ。まだ着慣れない赤いユニフォームを墨汁で黒く染めた二年が、背後にいた一年の井上に掴みかかった。
練習試合直前のことだった。円陣を組んでいた二年生達の後ろから井上が墨汁を振りかけたのだ。試合を終えて休憩してた三年生は勿論、被害者である二年も突然の出来事に体が動かない。井上は殴りかかってきた二年の瀬戸を避けると、被害を免れていた二年に残りの墨汁をぶちまけた。事態を飲み込めずにいた二年も第二派を食らって目を覚まし、一斉に井上に躍りかかる。
試合に来ていた一見中学校のバスケ部員達も、その騒ぎに驚きと戸惑いの目を向けた。一見中ベンチで相手方の顧問と話をしていた左右田中学バスケ部顧問、遠江教諭も事態を察して急いで駆け寄った。二年、総勢八名を相手に勝てる訳はなく、井上は二三発殴られて床に押さえつけられていた。すでに三年と一年が二年を止めに掛かっている。
「どけ! 井上、大丈夫か?」
遠江は二年を退けて井上を助け起こした。顔を殴られていた井上は、切れた口の端の血を拭いながら立ち上がった。意識ははっきりしているようだ。
普段はろくに部活にも顔を出さない遠江だったが、今回ばかりは違った。井上をパイプ椅子に座らせて素早く指示を出す。
「二年、体操服は持ってきてるな? すぐに着替えろ。五分以内だ。山鹿、倉庫から練習の時に使ってるゼッケンを取ってこい。一年は床掃除だ。早くしろ!」
初めて見る遠江の先生らしい姿に、部員達は戸惑いながらも了解の返事の元に散っていった。各自が仕事についたのを確認すると、遠江は部長の山鹿に井上を預けて一見中ベンチに戻り、相手側の顧問に頭を下げた。
「どうもすみません、見苦しいところを見せてしまって。すぐに用意させますから、試合開始は十分ほど待ってもらえますか…?」
「ええ、構いませんよ。しかし、噂には聞いてましたが…大変そうですね」
魚居中の顧問は心底同情した様子で、のんびりした口調で謝る遠江を見返した。
結局二年の試合は十分遅れで開始され、遠江は無事に試合が始まると後を部長に任せて、体育館を出て行った。遠江の後に井上を含めた一年生五人が続く。
体育館前の手洗い場まで来ると、遠江は一年を振り返って脇に抱えていたユニフォームを楠本和之に渡した。墨でペイントされたユニフォーム、八着である。
「試合が終わるまでに綺麗にしろよ…」
「俺達が洗うのかよ?」
芽室正太が不満の声を上げる。
「当然だ、連帯責任だからな。井上は話があるから、お前らだけでやれ。ノルマは一人二着だ。頑張れよ…」
と言い残し、遠江は井上を連れて校舎内に去って行った。
「くっそー…なんで俺達が炎天下にこんな洗濯女みてーなことしなきゃなんねーんだよ。洗濯機で洗やいいだろうが洗濯機でッ。何のための文明の利器だっつーの」
石で出来た洗い場にユニフォームを擦り付けながら、芽室が腹立たしげにぼやいた。芽室は平均的体格で、前髪の右側を後ろに流していた。
「文句言ってる暇があったら洗えよ」
芽室の幼なじみでもある楠本がたしなめたが、その声は正太と同じぐらい苛立っていた。楠本は中一にしては体格がよく、幼なじみが自由奔放なせいか顔は年齢よりも老けて見えた。
「洗ってるだろ! 文句言いながらでもなきゃやってられっかよこんな馬鹿馬鹿しいこと」
「そんなに怒らないでよ。井上も色々あるんだよ」
洗濯の手を止めて阿恵が言った。阿恵は元々人を非難するのを好まないが、井上は小学時代からの友達でもあり聞くに忍びないのだろう。
阿恵は一年で一番長身で、顔も体形も見目好く、性格も優しかったので女子からの好感度は圧倒的に高かった。
「色々ありゃなにしてもいいってのかぁ? そんな言い訳が誰に通じるってんだよッ」
「ごめん。……横にいた俺がもっとよく気を付けてればこんなことにならなかったかも」
阿恵が怒りの収まらない芽室に謝る。
「なら最初から気をつけてろよな」
芽室に冷たく言い放たれた阿恵は、返す言葉なく項垂れた。
「阿恵、手が止まってるぞ」
楠本に注意されて手を動かし始めるが、傷心のせいかユニフォームを洗う手には力がない。
「ったく井上の奴も大概にして欲しいぜ。割食うのはこっちなんだからよ」
そんなことは分かってる。幼なじみの呟きに楠本は腹立ちながら思った。井上が二年に逆らい、自分たちも連帯責任でペナルティを食らう。残り時間ひたすら外周を走らされたり階段の昇降運動をさせられたり、一体今まで幾度そんな目にあったか、とても両手両足だけで足りるものではない。井上もその都度は悪いと思っているのか謝るのだが、また同じことを繰り返すのだ。
しかし元々一年の扱いは最低、下僕同然である。部活といってもトレーニング一色でボールを触るのはボール拾いとボール磨きの時だけ。だから時間中ずっと外周を走らされようが、実際のところ部活の内容に大差はない。今まで正太が連帯責任を取らされても大した文句も言わずにいたのはそのためだろう。だが今回ばかりは部活とは言い難かった。
「こんなところで文句言っててもしょうがないだろう」
楠本は苛立たしさを抑えて言った。正太がまなじりをあげて隣の幼なじみを睨む。
「本人にはっきり言えってか? 言っとくけどな、俺はあいつにはっきり何度も言いましたよ。『いい加減にしろ』ってなッ。それでも改善されねーんだから、他にどうしろってんだよ。ストレートに、迷惑だからバスケ部辞めてくれとでも言うか?」
「──あいつが反省しないなら、それしかないかもな」
楠本の本気の様子に芽室が軽く口笛を吹く。慌てたのは阿恵だ。
「楠本、井上の話を聞いてからでも…」
これまでも問題が起こるたび友達の弁明に終始していた阿恵は、今回も井上に代わって釈明しようとする。けれど、この期に及んで本人以外から話をきいても意味など無い。
「話ならお前から十分聞いたよ。お前だってわかってるだろ? 彼奴一人で部活やってるわけじゃないんだ。それともお前は彼奴のために俺達に犬にでもなれっていうのか?」
「それは…」
「諦めろよな。お前がどれだけ頑張っても、彼奴があれじゃどうしようもねーぜ。向いてなかったってことだな、この部には」
「あのな、俺は本気で井上を辞めさせようなんて思ってないぞ。いつまでも同じこと繰り返すならこっちにもそれ相応の考えがあるってことだ」
「warning shot ってヤツかよ」
「文句ないだろ、阿恵」
「…うん、それなら」
警告ならばと、阿恵は渋々うなずいた。
「じゃあ俺が明日井上に言うよ。武蔵、お前もそれでいいか?」
今まで端で黙ってユニフォームを洗っていた武蔵に言う。
小柄で140cmぐらいしかない武蔵は、体格も可愛いかったが顔も可愛かった。しかし基本無表情で態度も淡々としているので、和之は客観的に可愛いとは思っても、感情的には可愛いとは思えなかった。
武蔵はちらりとこちらを見て、洗濯物を絞りながら他人事のように短く答えた。
「いいよ」
全員の許可を取った楠本は、やれやれと洗濯物にとりかかる。ふと隣の芽室の動きが止まっていることに気づいて目を向けると、訝しげな顔で武蔵を見ていた。
「正太?」
「え? ああ、はいはい真面目にやりますよ」
芽室は文句を言うのをぴたりと止めて、けれど不愉快げな顔で憎しみをぶつけるようにユニフォームを洗い始めた。
早い対処が功を奏したのか、ユニフォームは黒く染まっていたことなど分からないほど綺麗になった。視界を眩ませるほどの陽光の下で、洗い場に広げて干された赤いユニフォームが風に揺れている。時間内に一仕事終えられた楠本は、額の汗を拭って校舎に目を向けた。井上も遠江も姿を現す気配はなかった。
試合の片づけが終わるころになって遠江は戻ってきたが、その日、最後まで井上の姿を見ることはなかった。