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プロローグ 雨上がり

 夕焼け色の空の下、ほの暗くなった田圃道を男子中学生が二人、連れだって歩いていた。

 中学一年の平均身長、といえる芽室めむろと、それより頭半分ほど高い楠本くすもとは、幼なじみの同級生。家が隣同士で、生まれた頃からの知り合いである。芽室は一人っ子できかん気な性格が顔にも表れ、その幼なじみのお守り役を、物心ついた時からやっている、三兄弟の長男でもある楠本の顔は、蓄積された苦労のせいか年齢よりも年上に見えた。

 クラスは違ったが部活は同じバスケ部。自然、一緒に登下校することになる。

 昨日から降り続いていた雨がつい先ほど止み、芽室は中途半端に濡れた傘を煩わしげにもてあましていた。そして手持ちぶさたな気持ちを紛らわすように、『愛をください』を口笛で吹きながら歩いている。

「今日も参ったなぁ。井上いのうえの奴、もうちょっとなんとかならないかな」

 視界の隅で目障りに動く芽室の傘を自分の傘で押さえながら、楠本が言った。芽室は傘を反対の手に持ち替えつつ同調する。

「ホント、毎日毎日よくやるよなぁ」

「とばっちり受ける俺達の身にもなってほしいぜ」

 井上はバスケ部員の一年で、二人から見れば仲間である。バスケ部は代々理不尽な上下関係が受け継がれていて、そういう意味では周辺中学でも有名な部だ。二人とも時代錯誤な封建制度は嫌いだったが、逆らったところで損をするのは自分だとわかり切っているので、だましだましやっていた。けれど井上は一方的な支配体制がどうしても我慢できないらしく、毎日何かにつけて先輩に逆らうのだ。

 自分たちにも不満はある。だから気持ちはわかる。だがその度に連帯責任で一年全員がグランドを走らされるのだから、文句が出るのも当然だろう。

 今日も井上が二年に逆らい、部活後一年全員でグラウンド二周を走らされたばかりだ。頭ごなしに命令する態度にむかついたらしく、わざと二年の沼島ぬしまの足を踏んだのだ。相当気合いを入れて踏んだようで、素っ頓狂な声を上げて蹲った沼島の姿には笑えたが。

「でも、ちょっといい気味、だったよな」

「──まぁな」

 思い出して笑う芽室に、同罪の楠本も複雑な顔を浮かべた。

「あ、俺明日プールだ。めんどくさいなぁ。あの先生プールになると俄然張り切るんだからよ」

 楠本が走っていくリムジンバスを見ながら不満の声を上げる。水色のバスの横腹には、『セントラルスイミング』のオレンジの丸文字が踊っていた。JRの駅から少し離れたところにあるスイミングスクールの送迎バスだった。連想で思い出したらしい。

「なーに言ってんだよ。俺なんか今日の5時間目、雨の中強行でやった上に明日もなんだぜ。それも一時間目初っぱなから、男ばっかりで。サイテーだろ?」

 同じ体育教師が受け持ちの芽室が、相方に対抗してぼやいた。楠本もしかめっ面で同調する。

「うわ、それ最悪だな」

「だろ? どうせまた休みなく延々25メートルの繰り返しだぜ。ったく何で朝っぱらからプールなんかで体力使い果たさなきゃなんねーんだよ。本気で代わって欲しいぜ」

 ぶつくさと文句を漏らす芽室を、楠本は不思議そうな顔でじろじろと見つめた。

「あれ…? でもお前、プールの用意はどうしたんだよ? 今日あったんだろ」

「え?」

 その不吉極まりない言葉に、芽室は改めて自分の持ち物を確認した。しかし、どこにもプールの用意は見あたらない。しばし硬直した芽室は絶叫した。

「うわ──ッ、忘れて来たぁ──!!」

 もう少しで家にたどり着くという所で気が付いたのだから無理もない。しかもよりにもよってプールの用意である。忘れて来たものが普通の体操服なら、スペアの服を持っていけば済むが、プールの用意にそれは通用しない。予備など持っていないし、体操服のように二度続けて着ることも出来ない。最終手段として学校で洗って乾かすという手もあるが、一時間目の授業ではそれも難しかった。

 学校に取りに戻るより他に選択肢はない。

「いってらっしゃい」

 泣く泣く今来た道を引き返す決意をした芽室の横で、楠本が無情に手を振る。

 一緒に取りに戻ろうか、なんて台詞、絶対でないのが幼なじみのいいところだ。しかし折角近くに住んでいる奴を使わない手はない。

「カバン持って帰っといてくれ!」

 芽室は有無を言わさず楠本に鞄を押しつけると、踵を返して薄暗くなった道を走り出した。


 屈辱感のおかげか予想以上に早く学校に着いた芽室は、昇降口で上履きに履き替えながら、忘れ物の行方を推理していた。

(えっとぉ…確か部活に行くときは持ってたんだよなぁ。んで、着替えの時邪魔だからって横に掛けて──。そうだ。それで忘れちまったんだよ…くっそぉ!)

 自業自得なのだが腹は立つ。父親によく「お前は大丈夫だとすぐに鷹をくくって気を抜くから失敗するんだ」と言われる芽室だが、そういう忠言は大体において失敗をやらかした後に思い出すものだ。

 今日の夕食は天麩羅で、揚げ上がりのタイミングを合わせるために帰る時間を父親に言っていたのだが、この調子では予定の時間を軽く五〇分はオーバーしそうだった。

 帰ってからのことを考えるだけで頭が痛くなる。文句を言われることは間違いない。なにせ親父は、揚げたてじゃない天麩羅は天麩羅じゃないとまで断言した男である。正直芽室には、父親の天麩羅作りに掛ける情熱は理解出来なかった。普段は揚げたてのおいしい天麩羅を食べられるからいいのだが、こういう非常事態になるとそのポリシーもやっかいごとでしかない。

 しなくてもいいのに、頭が勝手に帰ってからのシュミレーションを始める。

 家に帰るとまず、親父が帰りの遅い息子に言う。

「なにしてたんだ、こんな時間まで。天麩羅が冷めちまったぞ」

「…プールの用意忘れて、取りに戻ってたら遅くなった」

 と正直に返すと、それを聞いた親父は鼻で笑ってこうだ。

「それで帰るのが一時間も遅れたのか? 普段から注意の足りない奴だがとことん間抜けだな。折角の天麩羅も情けなくって湿気とるわ」

(なんて嫌み言うに決まってやがるぅ~! ぐがぁ! ムカつくー)

 一人、想像で腸を煮えくりかえらせる芽室だったが、部室のある3階まで上がってきたところで重要なことに気が付いた。

(あ、そういや部室、もう閉まってるよな…)

 学校のA棟3階、階段から右に三つ目の教室が、芽室の所属するバスケ部の部室になる。部室とは言っても、公立中学のためか部専用の部屋というのは存在しない。普段クラス教室として使われている部屋を部ごとに割り振り、そこで着替えやミーティングを行っているのである。だから芽室が部室と言っているのも、一般的に言えば二年五組の教室となる。

 放課後の教室管理は使用している部が担うことになり、バスケ部では着替えが終わったら鍵当番の一年が鍵をして帰ることになっていた。今日の当番は芽室ではなかったが、さすがにこの時間まで開いているとは思えない。

 それでも三階まで後一歩のところまで上がってきていた芽室は、確認の気持ちで三階の廊下を覗いた。するとどうしたことか、廊下の中程辺りが教室から漏れる明かりで照らされているのが見えた。

(あの教室って、うちの部室じゃねーの?)

 廊下を進むと、やはり明かりが漏れている教室は二年五組、バスケ部の部室だった。

 不思議に思いながら、電気がついているぐらいだから鍵も開いているだろうと踏んで戸に手を掛けると、案の定ドアは簡単に開いた。

「あん?」

 教室を見回すまでもなく、黒板の下に小柄な人物を発見した。一段高い教壇に座り込み、黒板が掛かっている壁に凭れて眠っている。

同じバスケ部の一年、武蔵むさしだった。

(今日の鍵当番ってこいつだったっけ?)

 座っていたのが知り合いだとわかって、なんとなくほっとしながら前髪を掻き上げる。

 ドアが開いても武蔵は起きる様子もなく、ぐっすりと眠っていた。

(参ったなぁ…俺、こいつ苦手なんだよね)

 芽室は片手で頭を抱え、同級生を見下ろした。

 とても小柄な武蔵は一見小学三四年生にしか見えない。身長は約一四〇センチ、顔も身長に比例して幼く、色白の肌に整った目鼻が見本のように綺麗に並んでいた。色の薄い髪は短く刈られていたが、作りだけ見ればかわいい女子小学生である。

 しかし、中身はそのかわいい外見に全く反していた。愛想は良くなく基本的に無口で無表情。何事にも動じず物静かで、仲間と一緒に騒ぐこともなかった。笑えば可愛いのだろうが、同じ部の阿恵あえに気に入れて始終まとわり付かれている影響もあって、笑顔どころか迷惑そうな表情をしていることが多かった。

(なんか、取っつき悪いんだよなぁ)

 行き掛かり上起こさなければならないが、出来れば関わり合いたくなかった。どうしたものかと完全に寝こけている部活仲間を見ていた芽室は、その姿に何か違和感を感じた。

 武蔵は見飽きた学生服に、右手に漢字の本、左手にパックのリンゴジュースを持っていた。漢字テストの勉強でもしていたらしいが、特別変わった様子はない。気のせいかと思った芽室だったが、不意に違和感の正体に気が付いた。

 ──両手首に付けられた、白いリストバンド。

 今まで武蔵がリストバンドをしているのを見たことはなかった。今日の部活の時にも付けていなかったはずだ。

(なんで今更こんなもん…)

 芽室は何の気なしに近づいて、武蔵の手首に手を伸ばした。

 が、その時廊下から足音が聞こえたので、芽室は手を止めてドアに目を向けた。足音はバタバタとせわしなく近づいてくる。

(えーちゃん? にしては随分急いでるなぁ)

 こんな時間にこの教室に来るとすれば、鍵の管理をしているバスケ部顧問の国語教師、遠江とおとうみ──えーちゃんの名で生徒から親しまれている──なのだが、自他共に認めるなまけものの遠江が、堅物の学年主任、戸田とだの説教から逃げる以外の理由で走るとは考えにくかった。

 首を傾げたところで、開けたままにしていたドアから男が走り込んで来た。芽室と同じ学生服を着た、背の高い細身の男だ。あまり目の良くない芽室には、学年章ははっきりとは見えなかったが、雰囲気からして三年生だろうか。

 芽室の姿に、警戒心露わな表情を浮かべる。

「なんだお前? なにやってんだ?」

「俺? 忘れ物取りに来たんだけど」

「…ふぅん」

 不審者の正体が分かった男子生徒は芽室には興味を失った様子で、教壇の上で寝ていた武蔵に目を移した。熟睡していることを見て取った男子生徒は短く悪態を付くと、近くの机から椅子を取り上げ、椅子の足を持って寝ている武蔵に横からそっと近づく。

「え? あんた何を──」

 突拍子もない行動に芽室がとまどいの声を上げたが、男子生徒はそれを無視して椅子の背もたれで武蔵を攻撃した。

 けれど、背もたれの先が武蔵の左肩に触るか触らないかのその瞬間、武蔵は目を覚まして右手へ跳び退くと、素早く体勢を立て直し椅子を掴み取った。男子生徒は武蔵が椅子を掴むと同時に手を離したので、椅子はあっけなく武蔵の手に渡った。

 手応えの無さに拍子抜けした武蔵が、ぽかんと相手を見つめる。

「目は覚めたか?」

「…兄貴?」

「今何時だと思ってんだ?! もうすぐ八時だぞ八時! 心配するだろうが」

 そう言われて、武蔵は黒板の上の時計を振り返った。時計は七時四二分を指していた。定まらない視線で時計を眺めている姿からするに、まだ少し寝ぼけているらしい。

 部活中は一瞬たりとも気の緩んだところを見せたことがない武蔵のその姿を、芽室は驚嘆の思いで眺めていた。今の今まで、武蔵は不眠不休でも働けるサイボーグ人間だと、半ば本気で信じていたのである。

「ほら、椅子返せよ。帰るぞ」

 武蔵は言われるがままに兄に椅子を渡すと、ぼんやりと窓の外へ目を泳がせた。

「雨ならもうやんでる」

 武蔵の兄が短くそう言って、椅子を戻すべく教壇から降りる。そこで、眼前の2人のやりとりを呆然と眺め、今はまた、同級生の普段と違う様子を珍しげに見ている芽室へ不機嫌な顔を向けた。

「なにんなとこで突っ立ってんだよ。忘れ物取りに来たんじゃねーのか?」

 兄の言葉に、武蔵が今初めて同級生の存在に気づいた顔で振り向いた。

 ──色素の薄い大きな目。親しみも疑いもこもらない瞳がそこにあった。

 芽室はその乾いた双眸にたじろぎ、無言で目をそらした。教室後方の机からプールの用意を奪い取って、耐え難い居心地の悪さから逃げるように教室から出て行く。

「なんだ彼奴は、さよならの一言もなしか?」

 武蔵の兄は脱兎のごとく立ち去った芽室に首を傾げ、武蔵は同級生の残像が残るドアから、雨上がりの空へと目を移した。

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