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プロローグ 井上

 六月の上旬、梅雨前線が物陰から日本列島を狙ってはいたが、まだ攻撃を仕掛けてくる様子はなく、空は穏やかに晴れていた。土曜日の街は行楽日和な天気も影響して、若者や親子連れで溢れかえっている。

 その人波の中に、空と同じく晴れやかな笑顔で歩いている少年がいた。少年と言っても

身長は160センチを越え、学校指定のジャージと顔立ちの幼さから中学生であろうことが推察される程度である。

 阿恵あえは今年中学に上がったばかりの十二歳。卵形の輪郭にともすればたれ目に見える穏やかな目元と、洋犬を思わせるふわふわしたくせっ毛が印象的な少年だ。

 彼は午前中の部活を終え、それからテニス部の女の子達と連れだって街に来ていたが、今はその彼女たちとも別れ、一人街からはずれた小さな公園の横を歩いているところだった。 生け垣のコデマリを眺めながらうろ覚えの曲を鼻歌で歌っていると、ふと公園のベンチに知り合いを見つけた。

「こんなところでお昼?」

 阿恵に話しかけられ、サンデーを読みながらコロッケドックを食べていた井上いのうえは顔を上げた。神経質そうな細面の顔を微妙に歪ませ、お互い様な疑問を口にする。

「なんだお前? こんなとこで何やッてんだ」

 阿恵と井上はともにバスケ部の一年生部員。部活が終わってから二時間は経っていたが、井上もまだ赤いジャージ姿のままだった。

「女バレの子達と今日オープンの雑貨屋さんに行ってたんだよ。『テディベア』っていうお店なんだけど、クマのキャラクターグッズ売ってるんだ」

 友人の問いに彼は朗らかな笑顔で答えた。阿恵は目鼻立ちも整っていたし、やや細身の長身だったのでトータル的に見ればジャニーズ系のハンサムである。柔和な態度と根っからのフェミニストも相まって、女子からは絶大な支持を受けていた。

 しかし、玉に瑕なのがこの年の男子にしては異常なまでに『可愛い物好き』であることだった。中学に上がってから暫くは沈静化していたのだが、ついこの間再発してから病状は進む一方だ。

「家に帰らないの?」

「どうせ誰もいないからな」

 井上の家は両親共働きで、土日ですら家族が揃うことは珍しいらしかった。突っ慳貪な答えを返し、井上は雑誌に目を戻した。阿恵は悪いこと聞いたかと思ったが、心中に反しおなかがぐるぐるぐるぅ…と間の抜けた音を立てた。実は部活が終わってから今まで、料金半額とともに量も減少しているチーズバーガーを一つ口にしただけで、食事らしい食事はまだ何も取っていなかったのだ。

「ははは、実はお昼まだなんだ」

 照れ笑いの阿恵に、井上が横に置いていたパン屋の袋を放り寄越す。袋の中を覗いてみると、あんパンが一つ入っていた。

「くれるの?」

「いらねーから」

「ありがとう!」

 阿恵は素直に喜ぶと、井上の横に座ってあんパンを食べ始めた。子供のように無邪気にあんパンを頬張る。さも幸せそうな同級生の横顔に、井上は自然呆れた笑顔を浮かべた。

 こいつを見ているとピリピリしている自分がばからしく思える。

「お前、最近武蔵むさしとよくつるんでるよな」

「俺が一方的にくっついてるだけだけどね」

「ホント、物好きだよな」

 井上は雑誌に目を落としたままぼそりと言った。口元には歪んだ笑い。皮肉を隠さない、憎しみすら感じる呟きだ。

 武蔵は同じバスケ部の一年で、井上とはクラスメートでもある。井上は入学当初から武蔵のことが気に入らない様子で、武蔵に対する態度もきつかった。毛嫌いしているそのわけが知りたくて、阿恵は何度か井上に理由を尋ねたことがあったが、返ってきた答えは「人を馬鹿にしてる」「すかした態度がムカツク」などなど。確かに武蔵は無愛想ではあったが、阿恵が納得できる答えは一つも無かった。そして釈然としない阿恵に井上はいつも「お気楽なお前にはわからねぇよ」でとどめを刺すのだ。そう言い切られては返す言葉も見あたらず、口論が好きではない阿恵は黙るしかなかった。

 最近では、武蔵の話題がでるだけで機嫌が悪くなる井上に、あえて武蔵の話をすることはなくなっていた。そんな井上本人から武蔵の話が出るのは、たとえ一言でも、それが皮肉な台詞だとしても、とても珍しいことだった。

「俺、部活辞めるかもしんねぇ」

「えっ、なんで!?」

「塾のテストが悪くてさ、それで、ハハオヤがな」

 井上は感情を殺した無機質な声で言う。

「そんなことで?」

「お前の家は五月蠅くないのかよ。そういうの」

「…よっぽど酷い成績でもないかぎりは、あんまり」

 阿恵の家は酒屋を経営していて、忙しさにかまけ構ってやれないことに負い目があるのか、両親とも子どもには比較的寛容だった。ただしそれは両親の話で、母に代わって家事を切り盛りしている高校生の姉からは、成績と言わず生活態度全般に渡って不出来さを容赦なく罵れてはいるのだが。

 それでも、馬鹿にはされても勉強を強制されたことのない阿恵には、成績が悪いからといって部活を辞めさせられるというのは正直ピンとこない話だった。

「勝手だよ、そんなの…」

「大人なんて勝手なもんだよ。いつだって──ヒトのためとか言って、自分のことしか考えてねぇくせによ」

 憎々しげに吐き出すと、井上は苦い顔で黙り込んだ。

 上手い慰めの言葉も見あたらず、阿恵は肩を落としてさっきまではおいしかったパンをもぐもぐと噛んだ。少しでも、井上の気持ちが晴れればいいと思うけれど…。

 と、阿恵の頭に名案が浮かんだ。

「そうだ。これあげるよ、あんパンのお礼」

 阿恵はそう言うが早いか、早速カバンに付けていた青地に緑のチェック柄のクマのマスコットを外し始める。明るい阿恵に反し、井上はあからさまに迷惑な顔を浮かべた。中学生にもなってクマのマスコットをほしがる男が、隣に座っている同級生以外にいるというのか?

「いらねーよっ。そのまま付けてりゃいいだろ、お前そう言うの好きなんだろ」

「うん、でも他にも沢山あるから。部屋にでも飾ってあげてよ」

 と、無理矢理同級生にクマのマスコットを渡す。井上は全く欲しくなかったが、屈託ない言葉に反抗する気も殺がれ、結局素直にマスコットを受け取って鞄にしまった。

 阿恵はクマの行方を見届けると、満足そうな笑みを浮かべてあんパンの残りを平らげた。

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