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芽室:お見舞い

 芽室めむろは風邪で休みだったので、カギ当番の楠本くすもとは一人で教室に残っていた。阿恵あえ武蔵むさしも用事があるようで着替えてすぐに帰っていた。

 先輩たちが帰って行く中、暇なので宿題をしていると、声をかけられた。

「楠本」

 顔を上げると、瀬戸せと沼島ぬしま、それに香住かすみの三人がいた。改めて周りを見渡すと、人影がなかった。

(失敗した)

 楠本は後悔した。いつもは必ず芽室が一緒にいるので、うっかり周りを気にするのを忘れてしまっていた。

 一番背の高い香住に襟首をつかまれ、後ろのロッカーに叩きつけられる。逃げる間もなくあっという間に三方を囲まれた。

 問答する余地すらなく、腹を殴られる。

「お前ら、最近ちょっと調子に乗ってるんじゃないか?」

 答えるだけ無駄なので、楠本は黙って腹を抱えた。また殴られないように。顔は殴ると目立つので、殴られる心配はない。心配なのは足だ。思い切り蹴られる可能性がある。

 楠本は逃げるのは諦め、ロッカーを背に頭を抱えるようにしてその場に座り込んだ。貝のように丸くなる。これならば蹴られてもそうひどい怪我にはならないはずだ。

 誰かが頭を囲う手を踏んだ。

「なに丸まってんだよ! 蹴られたいのか?」

 わき腹を蹴られるかもしれない。そう覚悟して腹に力を入れる。

 しかし、攻撃はこなかった。代わりに香住のものらしい短い叫び声がした。続いて沼島の、最後に瀬戸の声が聞こえ、静かになった。

「やれやれ、3対1とは情けない奴らだな」

 怒りすらない、呆れ果てた声が聞えて、楠本は顔を上げた。

 見たことのある上級生が瀬戸を踏みつけていた。香住と沼島も倒れているが、こちらは気を失っているようだった。

 その上級生の後ろに、山鹿やまが部長の姿があった。

 そこで助けてくれた上級生に心当たりがあることを思いだした。おそらく山鹿と同じクラスの、武蔵むさしの兄だ。直接話をしたことはなかったが、阿恵あえから二人が友達だと聞いていた。

 武蔵の兄は唯一意識のある瀬戸の腹を蹴った。瀬戸は嗚咽を上げ、唾液をもらす。動けないよう再び瀬戸の背中を踏みつけた武蔵の兄は、前かがみになって瀬戸に言った。

「この間はうちの弟が世話になったなぁ。次はないと思えよ? 他のやつらにも言っとけ」

「口出しは禁止じゃなかったのか?」

 後ろから見守っていた山鹿が言った。

「これは口出しじゃなくて挨拶。弟が世話になったのに礼の一つもしないんじゃ失礼だろ?」

「よく言うぜ」

 山鹿は友人がやりすぎないよう見張っていたのかもしれない。今のところ腹に蹴り一発なので、弟がされた分と同じだ。武蔵の兄は瀬戸を踏みつけたまま、楠本を見た。

「おいお前、早く帰れ。他のやつが目を覚ますかもしれないからな」

 そう言われ、楠本は急いで立ち上がった。

「楠本、鍵よこせ」

 山鹿が楠本のカバンを持って、反対の手をさし出した。楠本はズボンのポケットに入れていた鍵を山鹿に渡し、代わりにカバンを受け取った。

 教室から出る間際、楠本は後ろを振り返った。武蔵の兄は楠本が教室から出るのを待ってから、瀬戸から足をのけたようだった。

 瀬戸が四つん這いに立ち上がるのを目にして、楠本は安堵した。好き嫌い以前の問題の相手だが、それでも再起不能に傷つくのを見るのは嫌だった。

 昇降口のところで、神崎こうさきに会った。

「遅かったね。何かあったの?」

 そう聞かれ、一緒に芽室の見舞いに行く約束を、楠本はようやく思いだした。

「……瀬戸たちに殴られた」

「本当に?!」

「ああ。腹だったし、そう大したことないけど…」

「よくそれだけですんだね」

「ああ、運が良かったよ…」

 武蔵の兄のことを――三人が簡単に倒されたことを話す気になれず、楠本は曖昧なまま話を終わらせた。


 楠本と神崎は、登下校路の近くにあるうどん屋で昼食をすませた。神崎が行きたいと言ったからだ。

芽室の家にたどり着き、二人を出迎えたのは、家族ではなく休んでいる本人と愛犬だった。

 散歩に行こうとしていたようで、玄関前で鉢合わせした。

「元気そうだな」

「丸一日も寝てりゃあな。中にはいれよ」

 散歩が中断されて、愛犬のマリアンヌは不服そうに鳴いたが、芽室が「また後でな」と頭や体を撫でてやると、玄関先の犬小屋に自ら入っていった。

 楠本と神崎は玄関から入ってすぐ左の、長机が置いてある客間に座った。

 芽室は問答無用でコップと水出しコーヒーを持って来て座ると、自分の分も含めて三つのコップにコーヒーを注いだ。楠本が立ち上がって台所へ向かう。

「ありがとう。僕もお見舞い持ってきたんだよ」

 神崎は笑顔でそう言った。

「なんだ、食べ物か?」

「これ」

 カバンからプリントの束を出すと、ばさりと重たい音をたてて机の上に置く。

「こ、これは、まさかっ」

「もち追試対策のプリントだよ。先生に頼んでコピーしてきたんだから、泣いて感謝しなよね」

 感謝ゆえかはともかく、涙は出そうになった。

 できる限りの協力はすると言ったのはこのことかと芽室は思った。

「ブランシュ、室ちゃんには悪いと思ったけど、今日埋葬したから。そのままにしておくのも可哀想だし」

 神崎が淡々という。楠本が台所から牛乳と砂糖、スプーンを手に戻って来た。自分のコップに牛乳と砂糖を入れる。

「神崎、お前も入れるか?」

「じゃあ牛乳だけ」

 楠本が隣に座った神崎のコップに牛乳を注ぐ。

「思ったより冷静だね。メソメソ涙流して悲しんでるかと思ったけど」

 カフェオレになったコーヒーを飲みながら神崎が言った。楠本もブランシュが亡くなったことは、阿恵からも神崎からも聞いて知っている。楠本は黙って聞くに徹したようだった。

「んなことで一々泣くかよ」

「あんなに可愛がってたのに随分冷たい言いようじゃない。追悼の意味も込めて涙ぐらい流してやったら? その方がブランシュも早く成仏できると思うよ」

「また勝手なこと。お前、そんなに俺の泣き顔が見たいのか?」

「見たいかって聞かれたら、そりゃ見たいね」

 神崎は不謹慎に笑っている。

「お前の方がよっぽど冷たいぜ」

「そりゃあ、僕は室ちゃんほどロマンチストでもセンチメンタルでもないからね」

「誰がロマンチストだって?」

「だって、知らなきゃよかったって思ってるでしょ?」

 一瞬の混乱。けれどあり得ない。──こいつがあのことを知ってる訳がない。

「…何を?」

「ブランシュが死んじゃったこと。あのままずっと行方不明なら、どこかで生きてるって信じられたもんね」

 ──いつか、必ず迎えに来てくれると信じて──

 コップの中のコーヒーが波紋を描く。

 芽室は迷いをうち消すように、コップを机においた。

「いくらなんでもそこまでおセンチじゃないよ」

「ねぇ芽室。武蔵に誰を重ねてるの?」

「──え?」

 言葉に詰まった。本当に詰まったのは胸かもしれない。

「室ちゃんが武蔵を苦手なのは気にしてないけど、彼奴を誰かの代わりに見てるんなら気に入らないね」

「あんな奇特なのと似てる奴がいるならこっちが聞きたいわ」

「はははは、確かにね。まあいいや。お見舞いが目的だし、僕はそろそろ帰るよ。

 かずくんは追試勉強の相手よろしく~」

「ああ」

 楠本は嫌がらせに近い幼い日の呼び名をあだ名にされていたが、もう慣れたようで真面目な顔で神崎の頼みであり自分の使命でもあることに頷いた。


「珍しく真面目に勉強してるじゃないか」

 日曜日、居間に座って神崎が残していった『お見舞い』と格闘していた芽室に、楠本が縁側から顔を覗かせてそう言った。

「そりゃ夏休みの進退が懸かってっからな。真面目にもなるぜ」

「じゃあ俺も付き合って宿題するか。これ母さんから差し入れだけど飲むか?」

 無遠慮に縁側から居間に上がった和之が、ペットボトルのリンゴジュースを差し出す。

「サンキュ。でも今はいいよ」

 魅力的ではあったが、勉強モードが崩れるの畏れて芽室が断ると、楠本は冷蔵庫にジュースをしまいに台所へ去った。

すぐに戻ってくると、幼なじみの斜め横に陣取ってワークブックを広げる。

「あー、慣れねぇことすると疲れるなぁ。こんな必死になってやってもまだやっと折り返し地点だぜ」

 大の字に寝ころんで、芽室はぼやいた。楠本が尋ねる。

「なんだよ折り返し地点て」

「ノルマのだよ。そこに置いてあるプリントの、左のが済みで右のがまだのなんだよ」

 机の上にはプリントの山が二つ。一山二十枚以上はありそうである。

「昨日の土産か」

「そ。三時間ぶっ通しでやってやっと半分だぜ。──出来ッかっての!」

 実は神崎から一方的に課せられたノルマを必死でやっていたのである。今までのペースを崩さずにやっても後三時間。考えただけでも気が遠くなったが、やらずに行けば神崎の

嫌み攻撃が待っている。やらずに落ちても俺が困るだけ、という逃げ口上は奴には通じない。夏休み全日補習もごめんだが、それよりもまず神崎の怒りの方が脅威だった。

「ったく、『誰かさん』と一緒にするなってぇの」

「お前、武蔵のどこが苦手なんだよ」

「──鉄面皮なとこ」

「でももう三ヶ月だぜ。いくらなんでもそろそろ慣れていい頃だろ」

「いい頃も何もあるかよ。お前だって昔かららっきょ嫌いなままじゃねーか」

「それとこれとは話が違うだろ」

「ヒトの好き嫌いも食い物の好き嫌いも大して変わんねーぜ? 相手が喋るか喋らないかの違いだろ」

「はぐらかすなよ。武蔵が、おばさんに似てるから苦手なんじゃないのか?」

 正直、虚を突かれた。

「──何言ってんだよ。彼奴は男だぜ」

「けどどことなく雰囲気が似てるだろ」

「似てねーよ」

「でも笑った感じが──」

「似てねぇって!」

 と、つい鋭く口走ったところで我に返る。己の失言に、青汁を一気飲みしたような気分の悪さに襲われ、芽室は口の中の不快感を胃の中に無理矢理押し込んだ。

 武蔵は母さんじゃない──分かってる。そう言えば良かったのだろうが、口をついて出たのは険悪な言葉だった。

「俺が彼奴を苦手でも、お前には関係ないだろ。余計な口出すんじゃねーよ」

「お前! 本当にかわいくないぞこの頃ッ。俺はお前のこと心配してッ──平気な顔してるけど、お前本当は──」

「っせーんだよ! 誰が心配してくれなんて頼んだ?! いっつもいっつもまるで俺の過去背負ったみてぇな顔しやがって、それがどれだけ鬱陶しいかわからねぇのか?!

 お前は俺の心配してりゃ満足かもしれねぇけどな、こっちはその面見るだけでウンザリするんだよ!」

「──…本気で言ってるのか?」

 硬直した顔で幼なじみが怒鳴るのを聞いていた楠本は、重たい間の後、自問自答に似た呟きを発した。

「冗談だって言って欲しいのかよ?」

 芽室は自分でももう、皮肉な言葉を止められなかった。殴られる事を覚悟したが、飛んできたのは拳ではなく理科の教科書だった。

「勝手にしろ!」

 楠本はやって来た時と同じに、縁側から帰っていった。

 その後ろ姿を見送る勇気は湧かなかった。


 夜、芽室は客間にあるアップライトピアノを撫でた。誰も使わなくなってもう4年は経つ。蓋は開けなかった。

 ピアノは二階に上がる階段のすぐそばに置かれていて、二階からでも母が練習している音が聞こえてくることがあった。

 母はドビッシュ―の『月の光』が好きで、よく弾いていた。最初はスローテンポで同じフレーズだから簡単に弾けるが、途中からテンポも早くなって難しくなるので、母はいつも冒頭の主旋律の部分を何度も弾いていた。

 武蔵のことはもともと何を考えているかよくわからず、関わり合いになりたくないと思っていたが、決定的に苦手になったのは、『月の光』を弾いているのを聞いたからだ。

 その日は神崎に用事があり、芽室は教室の掃除を終えて、特別教室の音楽室の掃除当番だった神崎に会いに行った。

 音楽室のドアは掃除中だからか開け放たれていて、中からの話し声が聞こえて来た。

「いいから弾いてよ。先生、いいでしょ?」

「すこしぐらいならね」

 それは神崎と音楽教諭の声だった。

「『月の光』ぐらいしかちゃんと弾けないけど」

 武蔵の声が言う。違うクラスの武蔵がなぜそこにいるのか分からなかったが、芽室はその言葉に、硬直して足を止めた。

「いいよ。僕好きだし」

 神崎に言われてか、武蔵は音楽教室にあるグランドピアノを弾きはじめた。

 聞き慣れた曲。夜の闇を照らすように、月の光がこぼれるように、曲が奏でられる。

 武蔵はアップテンポの難しいところは苦手なのか、ややテンポを落として、それでも最後まで弾き終えた。

 その間ずっと、芽室はその場に立ち尽くして曲を聞いていた。

 曲が終わった後に、神崎や先生、他の掃除当番が「上手だね!」と言いながら拍手をしているのを聞いて、初めて我に返った。

 芽室は結局神崎には会わず、踵を返して部室へ向かった。

 幼なじみには武蔵と母は似ていないと言ったが、それ以来、どうしても面影が重なるようになってしまっていた。

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