芽室:雨
翌日の金曜の放課後、楠本は漢字スタンプのため遠江を探しに行くと言った。前は一緒に行かないかと誘われたが、今回は、
「早く家に帰って勉強しろよ」
と、釘をさして先生を捜しに向かった。
(やれやれ、小言大王なんだからよ。小舅よりも五月蠅いぜ)
幼なじみから追試の話を聞いた楠本は、芽室がほぼ想像したとおり憤った顔で説教を垂れた。そしてその後は定石通り勉強しろ勉強しろの一点張りである。言っていることは正論なのだが、それ故に息苦しく感じるのだ。
昇降口に向かっていた芽室は、窓にぽつぽつと水滴が付くのを目にした。昼前には止んでいた雨がまた降り出して来たのだ。
「ちぇっ、また降って来やがった。──しまった、傘教室に置いたままだよ」
昇降口まで後数段であったが、芽室は机に置いていた折り畳み傘を取りに戻るため渋々踵を返した。手間を増やしてくれた雨に恨みがましい視線を投げる。
その時窓の外、中庭に見つけた人影に芽室は足を止めた。ピンク色に黄色のチューリップ模様と言う派手に少女趣味な傘を差している。その人物がセーラー服姿ならば気にもしなかっただろうが、傘の陰から見えたのは学生ズボンだった。
怪訝な顔で眺めていると、傘が動いて顔が見えた。予想通り阿恵である。
(やっぱ彼奴か…。なにやってんだか)
阿恵は中庭を囲うように植えられた生け垣と校舎の隙間へ歩いて行くと、傘と手にしていたタオルを差し出した。灌木で陰になっていた場所から小柄な人物が立ち上がり、タオルを受け取る。
芽室はその人物──武蔵の腕から垂れた白い尻尾に目を見張った。
渡り廊下で傘についた水滴を払っていた阿恵は、雨が降る中、中庭を突っ切って現れた友達に驚きの目を向けた。芽室は渡り廊下の一歩手前まで来ると、足を止めた。息を切らせ雨に濡れながら、何も言わずにじっと一点を見つめている。阿恵のすぐ横にいる武蔵の、その腕の中を。
「──そいつ…」
武蔵の腕の中には、タオルにくるまれた猫がいた。本来は綺麗な白毛であろう猫は、薄汚れて灰色に見えた。犬と喧嘩したか車に当てられでもしたのか、その体は所々血が滲んで赤黒い。
学校に住み着いていた野良猫のブランジュだった。ここ数日姿が見えなくなっていた。餌付けをし、名前を付けたのは芽室だった。
武蔵は呆然と立ちつくした芽室に歩み寄ると、ブランシュを手渡した。小さな体はぐったりと力無く、薄く開いた青い瞳も宙を彷徨っている。息も絶え絶えだ。助からないことは誰の目にも明らかだった。
芽室が震える手で頭を撫でると、ブランシュは気持ちよさそうに目を細めた。
「こいつ、もう…?」
か細い呟きに、武蔵が無言で頷く。芽室はタオルに包まれたブランシュをしっかり抱え込んで顔を伏せた。雨に濡れ続けている芽室を気遣って、阿恵が横から傘を差しのばす。
「どうして…こんな…──こんなことになるぐらいなら、無理にでも連れて帰ればよかったッ。そうすれば──…」
そこまで言って、芽室は声を詰まらせ黙り込んだ。
「──よく帰って来たって、褒めてやらないのか?」
いつもの静かな声で武蔵が言った。その言葉に、芽室がゆっくりと顔を上げる。沈痛な表情だったが、その目に涙は見えなかった。
「そいつ、ここが好きだったんだろ? そんな姿になって、それでも必死で戻ってきたんだ。頑張ったなって褒めてやれよ」
「──偉いぞ…よく、帰ってきたなぁ」
その言葉に満足したのか、程なくしてブランシュは息を引き取った。
武蔵が手を差し伸べる。
「俺が預かるよ」
「どうするんだ?」
「明日晴れたら、あの楠の根元に埋める」
「そうだな、それが一番いいよな。こいついっつもあの木の下で幸せそうな顔して昼寝してたもんな…」
芽室は心残りがありそうだったが素直にブランシュを渡した。武蔵はまだ温かい小さな体を優しく抱きかかえ、傷心の仲間を見上げる。
「芽室、自分を責めるなよ。お前は何も悪くない。誰のせいとか、そういう問題じゃないんだ」
芽室はその言葉に、目の前の同級生を凝視した。その目に浮かんだのは、悲痛や感動ではなく、純粋な驚愕の色。芽室は何かに耐えられないように俯いたかと思うと、ふらりと足を動かした。夢遊病者のような覚束ない足取りで中庭を歩き始める。
不自然なその様子に、声を掛けたのは阿恵だった。
「芽室?」
名を呼ばれて振り返りはしたが、芽室は武蔵を見て一瞬苦い顔を浮かべ、昇降口へ向かって一直線に走り出した。阿恵が咄嗟にその後ろ姿を追いかける。
「芽室?!」
「放っておけ」
後ろからの制止の声に足を止める。
「だけど──」
「大丈夫だから」
なぜそう言い切れるのか、武蔵は妙にはっきりとした調子でそう言った。
雨の中を無我夢中で走っていた芽室は、息が切れて、走るのを止めて歩き始めた。家までもう少しのところまで来ていた。気が付いてみると、鞄を持っていなかった。学校に置いてきてしまったらしい。体もずぶ濡れだ。傘も差さず鞄も持たず、がむしゃらに走っている自分の姿を想像し、思わず笑いが漏れた。周りからはさぞおかしな奴に写っただろう。
「はは…カッコ悪ィ…」
何故逃げ出したのか、自分でもよく分からなかった。ただ苦しくて居たたまれなかった。あの場にあれ以上いることが──武蔵と向かい合っていることが耐えられなかった。
『お前は何も悪くない』
(──違う)
その言葉を、脳が反射的に拒絶する。ブランシュへの罪悪感とは関係ないところで。
『お前は悪くない』『誰のせいでもない』
(違う──! 俺が悪い、俺のせいだ…俺の…──俺が、俺がもっと──もっとちゃんとしてれば…)
(違う違う違う! そんなことじゃない──)
(なにを考えてるんだ?俺は)
雨に濡れて熱が出たのか、家に着いた頃には意識はもうろうとしていた。うまく考えがまとまらない。飼い犬のビズラ犬、マリアンヌが心配して駆け寄ってきたが、芽室は愛犬を無視して家に入った。
それから先のことは良く覚えていない。居間に入って疲れた体を投げ出したことと、父親の驚いたような声だけが耳に残っていた。
玄関から聞こえる聞き慣れた声に、芽室は目を覚ました。楠本と父親の斉の声だった。
「──まだ熱引かないの?」
「ああ、雨に濡れたのが良くなかったみたいでな。今日は学校は無理だ」
二人の声はいつになく心配そうだ。芽室が風邪を引くのは珍しい事ではなかった。むしろ恒例行事のようなもので、毎年必ずと言っていいほど夏と冬に風邪を引いた。
けれど今回はなかなか熱が下がらず、それが父親と楠本を不安がらせていた。帰ってきたとき39度を超えていた熱は、その後も一向に下がる気配を見せず、昨晩から三十八度前後を彷徨い続けていた。
「──じゃあ部長と先生にそう言っておくよ。帰ったら寄るって言っといて」
「わかった。よろしくな」
玄関が閉まる音と共に、再び意識が遠のいていった。まるで底なし沼に足を取られたように、ゆっくりと、確実に、辛うじて表層を漂っていた意識が眠りの底へと沈んでいく。
芽室はそれと入れ替わるようにして、暗闇の奥から霧のようにぼんやりしたものが湧き上がってくるのを感じた。懐かしさと嫌悪を含んだものが、意識を覆い始める。
熱が幻影を連れてくる──忘れた記憶を呼び起こす。
――――。
「和、和ゥ」
やけに甲高い声。誰の声だ?──俺か?
目に映る景色全てがやけに広く大きい。
「正太、早く。おいてくぞ」
まん丸いのが振り返る。昔の和之が、空色の園児服を着て立っていた。幼稚園の頃のことだ。小さい頃の和之は甘いものが大好きで、押せばよく転がりそうな体型をしていた。
子供の頃、記憶の中の俺は決まって和之の後を追いかけていた。一回り小柄だった俺は、彼奴の後に付いて行くのにいつも必死だった。
上下に揺れていた景色が大きく崩れる。地面に、手。どうやらコケたらしい。どんくさいの、俺。──泣くな、これは。
「う゛、うわぁああああん!」
けたたましい泣き声が、頭の中に柔らかく響く。
案の定だ。あの頃は事あるごとに泣いていた。コケては泣き、叱られては泣き、和之に置いてけぼりされただけでも泣いていた。よく涙が枯れなかったものだ。
丸い和之が、迷惑そうな、でも心配した顔で駆け寄ってくる。
「あぁーもう、大丈夫。血出てないだろ、な。大丈夫だから泣くな」
「──うん」
どれだけ遠くにいても喧嘩してても、俺が泣くと和之は必ず一直線に走ってきた。あいつの困ってる顔を見るのが好きだった。安心出来たから。でも、今は…。
「ただいまー!」
突然景色が変わる。目の前で鶏がうろちょろ歩き回っていた。──家だ。
「ただいま布津」
ウェルシュコーギ―の布津が短い足で俺の元に走って来る。今はもう走らなくなった布津がまだ元気なこと。
目に映る景色も今とは違う。玄関先の犬小屋は…そうだ、昔は緑だった。マリアンヌを外に出した時に、青の大きいのに作り替えたんだ。裏庭に植え替えたはずの椿が、まだ庭先に茂ってた。
──ああ、あの時の映像だ。こんなにはっきり覚えてたのか。
布津を撫でる俺の手が小さい。小学二年の秋だ。
顔を上げて走り出す。前庭を横切り、家屋と生け垣の間をすり抜けて裏庭に回る。
──今でも覚えている。今ではもう狭すぎて通ることの出来ない小道。あの頃の俺は、家から帰ると真っ先に裏の洗濯場に走っていった。それが日課だった。一頻り遊んだ俺が帰る四時頃、母さんは必ず外の洗濯場で干した洗濯物を取り入れていた。
帰ってきて最初にただいまを言うのは鶏にだったけど、最初にお帰りの言葉をかけてくれるのは母さんだった。その言葉を聞くために、俺は家につくと真っ直ぐに母さんの所に駆けていった。
物干し竿いっぱいに干された洗濯物。様々な色で埋め尽くされた空間から、母さんの姿を見つけるのは容易かった。当時の俺の視点からは母さんの足がよく見えたから。
けれどその日、そこには何もなかった。母さんの足も、母さんの姿を隠す洗濯物達も。
「母さん?」
もう洗濯物を取り込んでしまったのかと、そう思って家の中を覗く。居間にも台所にも人影はなかった。文字通り誰もいない。まだ飼い猫のジュリアさえもいない。
「お母さんなら買い物に行ったよ」
そう俺に声を掛けたのは、従業員の小霧海さんだった。
駄目だ、思い出すな。これから先は思い出しちゃいけない──ッ。
芽室は襲いかかる明晰夢に、必死に目を覚まそうとした。それでもどうしても目が覚めない。
夜になっても戻らない母。正太を呼ぶ祖母。焼酎のグラスを片手に黙ったままの父。
答えは知っている。忘れるわけがない。だからもうやめてくれ!
―――。
「なぁあ」
不満げな鳴き声と、頭をひっかく鋭い爪の感触に、芽室はようやく目を覚ました。うっすらと涙が浮かんでいた。
「なぁ」
再度の鳴き声に顔を向けると、ジュリアが枕元に座っていた。
涙と、額に浮かんだ脂汗を拭いながら、芽室は上体を起こした。ジュリアが膝の上に乗ってくる。2,3度背中を撫でて抱き上げると、嫌そうに逃げてしまった。
枕もとの時計を見ると1時を過ぎていた。ジュリアはおやつをねだりに来たのだろう。芽室が休みの日には、昼ごはんのあとにいつもちゅーるをやっていた。
ジュリアは抱っこされるのがあまり好きではない。すこし遠巻きに飼い主を見ていた。
「ありがとうな」
芽室は苦笑しながら愛猫に礼を言って、おやつをやるべく布団から起き上がった。