阿恵:海
元気なく家に帰ってから携帯を見ると、浅田からLINEで連絡が入っていた。明日、バレー部の女子2人と四人で海に泳ぎに行かないかという誘いだった。バスケ部は日曜日は一日休みなのだ。浅田が入っているバレー部も、部活は午前中だけだった。
海は南に下ってすぐで、海水浴場も近い。
初夏、武蔵を泳ぎに誘ったが、水恐怖症で特に海は苦手だから無理だと断られたことを思いだす。実際武蔵はプールの授業には不参加だ。溺れた経験でもあるのかもしれない。
予定はなかったが、女子たちの中に男子一人で参加するのは流石の阿恵でも気が引けたので、楠本を誘ってみることにした。楠本の携帯に電話してみる。
「明日、浅田さんに海に行こうって誘われてるんだけど、楠本も一緒にどう?」
「へぇ、女子から誘われるなんてさすがだな。でも俺は明日も忙しいから無理だな。正太の追試勉強を見てやらないとだめだから」
「そうなんだ。じゃあしかなたいね…」
芽室が楠本のことをぼやいていたが、ぼやかれるだけのことはあるようだ。
電話を終え、他に適当な男子が思いつかず困っていると、
「明日海に行くの?」
と、楠本との電話を聞いていた鈴風が尋ねてきた。
「うん。女の子たちとだけどね」
「じゃあ私もついていっていい?」
その頼みは渡りに船だった。鈴風はスイミングスクールに通っているだけあって泳ぐのが好きだったが、危ないから一人で海には行かないように言われていた。
女子の中に男子一人と言う状況は変わらないが、妹の付き添いという役目が加われば、随分と印象が変わってくる。
阿恵は妹と参加すると浅田に連絡すると、OKとの回答がすぐにあった。時間を決めて、現地集合と言うことになった。
翌日、昼食を終えて水着に着替え、上から服を着た。帰りの着替えはトイレの中でする予定だ。
鈴風はスイミングスクール用ではないピンクのワンピースタイプの水着を着て、さらに上からも白色のロングのワンピースを着ていた。ピンク色が透けて見える。
阿恵の水着は黒のビキニタイプだ。姉が冗談で選んだものだが、姉の意図に反して本人は気に入って履いている。水着の上にジーパンをはいてTシャツを着る。
自転車に乗るほどの距離でもないので、二人で歩いて海水浴場へ向かった。帰り用の着替えの下着やタオル、すでに空気を入れた浮き輪はすべて阿恵が持っていて、鈴風は走り出さんばかりにウキウキしていた。
去年まではよく二人で海に行っていた。家は自営業で両親とも忙しいし、姉は母の代わりに家事をしていたからだ。
中学に入ってからは部活で忙しく、妹に構ってやる時間がほとんどなくなってしまったが、これからはなるべく時間を見つけて遊んでやらないとなと、阿恵は思った。
10分もかからず、海水浴場についた。
道路と浜辺の間には数段の階段があって、上から浜辺を見渡せた。浅田たちはまだ来ていないようだ。
無意識に武蔵の姿を探してしまう。当然ながら、武蔵の姿も神崎の姿もなかった。
「お兄ちゃん、泳いでもいい?」
「うん、いいよ」
鈴風は兄の了解を得ると、その場でワンピースを脱ぎ、兄へ渡して海へと走って行った。鈴風のワンピースをたたんでカバンへしまう。
今まさに立っているこの場所は、武蔵がマスコットを返してくれた場所だった。
あの日も日曜日だった。
マスコットを武蔵にとられてから、一週間近くがたっていた。返してくれとも言えず、また妹に知られたらどうしようとも悩み、阿恵は基本のん気でおおらかな気質に似合わず、神経をすり減らしていた。
阿恵が悩んでいること気づいたのか、この間のようにうちに買い物に来てくれていた浅田が、気晴らしにサイクリングにでも行こうと誘ってくれたのだ。二人はショッピングモールをおやつを買う最終目的地として、海沿いのサイクリングロードを阿恵の家から東へと走って行くことにした。
その途中にこの海水浴場はあった。
武蔵はいつもどおり神崎と一緒にいて、レジャーシートをひいて武蔵は腕枕をして寝ころび、隣の神崎は海に向かってスケッチブックを開いていた。
今思うと特に描くべきものはなさそうなので何を描いていたのか疑問だが、その時は鍵だけを返してもらってから武蔵と初めて外で会ったことにびっくりしてしまい、阿恵はただただ慌てた。
先に二人を見つけた浅田は自転車を停め、海水浴場につながる階段を、二人の名前を呼びながら駆け下りて行った。そこで阿恵も二人に気づいたのだ。
自然、阿恵も止まることになり、しかし浅田の後も追えず右往左往していると、起き上がった武蔵の方が阿恵を見つけた。武蔵は話をしている神崎と浅田をおいて立ち上がり、迷いなく阿恵の方に歩いて来た。武蔵はジーパンにロゴ入りのシンプルなTシャツを着ていた。
どうしたものかあたふたしている間に、武蔵は階段を上り終え、阿恵の前に立った。
「おはよう。浅田と仲がいいんだな」
「え、うん。うちの店でよく買い物してくれるんだ」
「そうか」
そういうと武蔵はポケットに手を入れ、オレンジのクマのマスコットを取り出した。ちりんと、最初はついていなかった黄色の鈴が音を立てる。
「返すよ」
阿恵はまっすぐに差し出されたマスコットを慌てて受け取った。鈴のことを聞きたいが言葉にならず、ただただ武蔵とマスコットを見比べる。
「え…」
「十分反省しただろう。もう失くすなよ」
武蔵は少し神崎に似た、いじわるな笑顔を浮かべると、またその神崎の元に帰って行った。
「ありがとう!」
阿恵はなんとかそれだけ叫んだ。武蔵は振り返って、軽く手を上げそれに応えてくれた。その顔に浮かんだ穏やかな笑顔を今も覚えている。
「阿恵くん」
呼ばれて振り返ると、浅田とそのバレー友だちの青木と佐藤が立っていた。三人とももう水着姿だった。水着姿のままここまで来たのだろうか?
平均的体形の浅田は水色のフレアのついたワンピースタイプだったが、他の二人はビキニで、阿恵よりやや低いぐらいの長身の青木は赤色の花柄で、下は黒のショートパンツをはいていた。ぽっちゃりした背の低い佐藤は緑のビキニで、同じ色のパレオで下半身を隠していた。さすがに下着とそう変わらない姿は恥ずかしいらしい。
「三人ともよく似合ってるね。みんな可愛いよ」
「ありがとう」
三人とも褒めらえたお礼を言ってくれたが、浅田はおもしろそうに、青木はそっぱをむいて、佐藤は下をむいて恥ずかし気に言った。浅田が一人の阿恵を見て首をかしげる。
「妹さんは?」
「ああ、そうだった。もう先に泳ぎに行っちゃったんだよ。ごめんね」
四人は慌てて鈴風の後を追うことになった。
鈴風は昔注意された通りに、沖には向かわず、浜辺に水平に泳いでいた。海水浴場を区切る防波堤までくると、また折り返して泳ぐ。遠泳の限界にでもチャレンジしているのだろうか…。
阿恵や浅田たちも全員泳げたけれど、海に入るのは水遊び程度にとどめ、青木がビーチボールを持って来ていたので、バレー部らしく浜辺でボール遊びをして過ごした。
阿恵は遊びながらも鈴風を気にしていたが、鈴風はたまに休憩をとって、皆の荷物が置かれたレジャーシートに座ってスポーツドリンクを飲んだりしていたが、基本、ひたすら泳いでいた。
二時間ほど遊んだところで休憩をとり、佐藤が作ったというフルーツゼリーをみんなで食べた。ちゃんと保冷剤のたっぷり入った保冷バックに入れて来てくれていたおかげか、しっかり冷たかった。
「疲れた体にしみるねぇ」
オレンジ味を食べていた浅田が、目をつぶって美味しそうに言う。
「すごく美味しいよ」
グレープフルーツ味を食べていた阿恵も佐藤に言った。隣の鈴風も頷いている。
「そんな、ただジュースをゼラチンで固めただけよ」
褒められた佐藤は恥ずかしそうに答えた。
「十分すごいよ。私が作ったらもっとだまができてると思う」
青木も友達を褒める。褒められ慣れていないのか、佐藤は耳まで赤くして立ち上がると、浮き輪片手に海に走って行ってしまった。
阿恵はゼリーの入っていた、ガラス製のモロゾフのカップを眺めて呟いた。
「――武蔵は甘いもの好きかな…」
すぐ隣に座っていたからか、その呟きを耳ざとく聞き留めた浅田が笑いながら答える。
「武蔵は甘いもの大丈夫だよ。今度追試受けるみたいだし、何か差し入れしてあげたら?」
「杏子ちゃん、追試のこと知ってるの?」
阿恵は驚いて聞いた。浅田は不思議そうに友人を見返す。
「うん。体調不良で休んで受けられなかった分、受けるんだよね?」
(ああ、そういうことか…)
阿恵はほっとしたようながっかりしたような気分になった。武蔵が全教科追試――いや、再試験か、を受けることは、やはり公にはなっていないようだ。
それでも浅田が言った差し入れは、自分にもできることなので、遊び終わったらジュースでも差し入れようと思った。
武蔵のマンションのエントランスに立ち、緊張した面持ちで入居者名の一覧を眺める。
701号室が武蔵の部屋だ。話には聞いていたが、同居人の詫間の名前もある。
部屋の番号を押すと、インタホーンからぶっきらぼうな声がした。
「はい。どちらさまですか?」
運悪く弘伸のようだった。
「あの、駆流くんの――友達の、阿恵です」
「ちょっと待ってください」
弘伸は冷たく言って、兄を呼びに行ったようだった。その間、阿恵は緊張して待った。
(友達って言ってよかったよね。ちゃんとそう紹介してもらったし)
そんなことを自信なく考えていると、エントランスと居住区の間の茶色い自動ドアが開いた。
武蔵が姿を現す。白地に青色の縞模様の甚兵衛を着ていた。
「いらっしゃい」
武蔵は要件は聞かなかった。事前に連絡を入れていたからだ。
「はいこれ、差し入れ」
ビニール袋に入った飲み物を渡す。武蔵が受け取って中を開けて見ると、リンゴジュースやオレンジジュースの他に、カフェオレやミルクティー、ゆずジンジャーエールが入っていた。
「随分多いな」
「家族分なんだけど」
武蔵たち兄弟四人と、まだ会ったことのない詫間さんの分だ。
「ああ、そうか。悪いな」
「勉強の調子どう?」
聞かれた武蔵は、阿恵の顔を見てから、エントランスからガラス扉の外に目を向けた。
「まあ、ぼちぼちだよ」
「大丈夫なの?」
「それは受けてみないとわからないな」
「……だよね」
武蔵は当たり前のことを言っただけだったが、阿恵はいつも自信があるように見える友人の曖昧な答えに、元気を失くしてしまった。
「お前が落ち込んでどうするんだ?」
「だって…」
「出来る限りのことはするから、心配するな」
「そんなの無理だよ…」
なんといっても全教科80点以上だ。武蔵の成績が良いことは知っていたが、成績が中の下の阿恵からしたら到底不可能な領域である。
「じゃあ心配しておいてくれ」
「え?」
思わぬ台詞に阿恵は改めて武蔵を見た。ふざけているのかと思ったが、武蔵はいたって真面目な顔をしていた。
「心配せずにいられないなら、そうするしかないだろう」
「そうだけど…ちょっと意地悪じゃない?」
「そうか?」
武蔵が首をかしげる。その姿を見て、阿恵は笑ってしまった。
「ははは。わかった、心配しておくよ。だから試験、頑張ってね。手を抜いたりしたらだめだよ?」
芽室の言いぐさではないが、神崎のいる茶華道部に鞍替えする気分でいるとしたら、手を抜かれかねないので、阿恵はそう念を押した。
「ああ、わかった。差し入れありがとう」
武蔵はジュースの入った袋を差し上げてそう言うと、居住スペースへ戻って行った。阿恵はその後ろ姿を見送ってから、家に帰った。
あとは神に祈ることぐらいしか出来ないので、阿恵は家にある仏壇の前に座って、友達がテストで良い点をとれますようにと願ったのだった。
余談だが、ゆずジンジャーエールは武蔵兄弟の長兄の勝優が飲んで気に入ったらしく、浅田と同じくそれだけ買いに、たまにやってくるようになった。