阿恵:盗み聞き
その日、日直だった阿恵は国語の一年担当の澤村先生に言われ、昼休みにクラスのノートを集めて職員室に届けに行った。そんなに重くはなかったので、女子の日直には一人で持って行くと言って、一人で職員室に来ていた。
そこで、職員室から出てくる芽室に出会った。芽室はうつむき、険しい顔で大きくため息を吐いていた。
「芽室、どうしたの? 険しい顔して」
声をかけると、芽室は顔をあげて愚痴った。
「ああ、阿恵。ちょっとテストの出来が悪くてよぉ、今度追試受けろだってさ。しかも追試も悪かったら夏休み補習だぜ。ったく参るよな~」
「そんなに悪かったの?」
阿恵の質問に、なにやら指折り数える。
「半分以上は三十点なかったな」
「それは不味いよ」
「俺的には精一杯やったつもりなんだけどなぁ」
足で何かを蹴る動作をしながらぼやく。
「悪いことは言わないから、真剣に勉強した方がいいと思うよ」
「やっぱそうか。あーあ、まぁた和之に五月蠅く言われちまうぜ。カッタリィ」
阿恵の真っ当な助言に、芽室は真面目な幼なじみへの不満を口にしてから、教室に戻って行った。
阿恵が澤村先生に言われた通り、窓際のロッカーの上にノートを置いていると、「失礼します」という武蔵の声が聞えた。振り返ると、武蔵が職員室前方のドアから入って来て、教頭先生の机のところまで行くのが見えた。
後方にいた阿恵とはずいぶん離れていたので、武蔵は阿恵に気づかなかったようだった。教頭先生は近くの先生に何か頼むと、武蔵と2人で外に出ていった。
「遠江先生、遠江先生、至急第一会議室まで来てください」
教頭先生から何か頼まれていた先生が、マイクを持ってそんな校内アナウンスをした。
阿恵は少し迷ったが、B棟一階にある第一会議室に足を向けた。
遠江先生と顔を合わせるのは不味いかと思い、校舎の外に出て、廊下側の窓から遠江先生が第一会議室に来るのが見えるのを待った。
至急と言われたからか、ほどなく遠江はやってきたが、会議室に入る前に、さっきの芽室と同じように大きくため息をついた。
阿恵は校舎の中に戻り、こっそり第一会議室前のドアの前にしゃがんで、そっと耳を近づけた。中から激した声が聞える。
「…──無茶苦茶だ! そんなの辞めろって言ってるようなもんじゃないですかッ」
その声はバスケ部部長の山鹿のものだった。それに答えたのは教頭先生だ。
「そうは言っていません。でも成績が落ちたことは確かです。それに、一昨日のことは部活動停止にもなりかねない暴力事件ですよ」
ロッテンマイヤーが陰のあだ名の教頭の理論的な物言いに、山鹿が息をのむ気配がした。それでも数少ない1年を守るためか、頑張って言い返す。
「だからって、全教科80点以上なんて無茶すぎますよ。テストが受けられなかったのは、体調不良も原因なのに」
「わかっています。だからこそ、運動部は辞めるべきだとも思っているんです。
追試のことは、むしろチャンスを与えてもらったと考えてほしいわ。私は今すぐにでも、茶華道部に転部すべきだと、遠江先生にも闘雄くんにも言ったんですよ」
そこでしばらく沈黙が降りた。
「しかたないだろう。学生の本分は勉強なんだ…。成績に問題がなければ、バスケは続けられる…」
そう言ったのは遠江だった。
「だからって…――。おい、お前もなにか言ったらどうだ?」
「うちの教育方針は『本人の意見を尊重する』なんでね、兄弟と言えど無闇に口出しは出来ないのよ。俺は別にこいつがバスケ部だろうが茶華道部だろうがどっちでもいいし」
山鹿の言葉に無責任に答えたの兄の闘雄のようだった。
「じゃあ、駆流くんには追試を受けてもらって、全教科80点以上ないようなら、バスケ部を辞めて、茶華道部に入ってもらいます」
教頭の断定した言葉と席を立つ音を聞いて、阿恵はあわててその場から離れた。
次の休み時間、阿恵はいてもたってもいられず、八組に向かった。特に何かを言うかは考えていなかった。
一階に降りたところで、聞き知った声が聞こえた。
顔を向けると、学校の南西部にある楠や花水木などの木々や山茶花などの低木の植えらえた場所で、芽室が植え込みを覗きながら「ブランシュー」と猫の名前を呼んでいるのが見えた。
ブランシュとは、以前紹介してもらった学校に居ついている猫の名前だ。芽室本人から最近姿が見えないと聞いていたが、まだ見つからないようだ。
「まだ見つからないみたいだな」
心で思っていたことを声にして言われて振り返ると、武蔵が立っていた。
「武蔵も行方不明だって聞いてたの?」
「神崎からな」
「そうなんだ」
芽室が武蔵を辛辣に評価していたことを思いだす。芽室と武蔵は井上が辞めてから基礎トレーニングで組むようになったが、あまり仲良くはやっていないようだった。
二人はしばらく芽室の様子をみていたが、芽室はそのうち諦めて別の場所を探しに行き、二人の視界から姿を消した。
「見つからなかったみたいだね」
「そうだな…」
武蔵が珍しく感情をあらわにして、心配そうに言った。もしかしたら武蔵もブランシュにちくわをあげたことがあるのかもしれない。武蔵は芽室が去っていった方向をじっと眺めている。
やはり、芽室のことを心配しているのだろう――鈴風が言ったように、武蔵は優しい。
阿恵は三度、マスコットを落とした時のことを思いだした。
三度目は六月中旬で、また机の下に落としていた。阿恵は家に帰り着いて、自分の部屋のカギを開けようとしたところで、カギを初めて落としていたことに気づいた。家に合いカギがあったので部屋には問題なくは入れたが、また着替えた時に落としたのかと、翌日阿恵は珍しく早くに学校に行って、部室を調べたが見つからなかった。
朝練で出会った誰も――武蔵も、カギについて言及してくることはなかった。
休み時間に忘れ物として届いていないかと職員室も訪ねたが、やはりなかった。
見つかったのは――正確にいうならば、返してもらったのは放課後の部活の後だった。カギ当番として残っていて、見つからないマスコットにしょんぼりしながら席に座っていた阿恵に、武蔵が鍵を渡してきたのだ。ただしそれは鍵だけで、マスコットはついていなかった。
「また机の下に落ちてたぞ」
「――クマは?」
鍵だけを見て、阿恵は驚いた顔で武蔵を見返した。
「必要ないだろう。何度も落とすぐらいなんだから」
武蔵は冷淡にそう言って、阿恵の反論も受け付けず、すぐに帰ってしまった。
阿恵は手の中にある、家と部屋の鍵二本を見つめて、握り締めた。握った手を額に当ててて、机に突っ伏す。涙をこらえるために。
言い返す言葉は、何一つ思い浮かばなかった。武蔵の言葉は正論過ぎて、阿恵の涙腺を緩めた。
――阿恵はズボンのポケットから、チリンと音を立てて、カギを取り出した。
「そろそろ戻らないと時間だぞ」
武蔵に言われ、阿恵は我に返った。追試のことを聞きたかったが、仕方なく教室に戻った。
練習後。皆が着替えを終えて出ていく中、武蔵は鍵当番で残っていた。部室で一年の陣地である教室中央の前方、一番前の席に座っている。阿恵はその隣の席に座っていた。
因みに窓際後方が三年、廊下側一面が二年の陣地になっている。居心地の良い場所から年功序列で場所が決まっていた。
のんびり世間話をしていた先輩達も引き上げ、残るのは阿恵と武蔵の2人きりだ。
阿恵は昼に聞いたことを武蔵に話したかったが、盗み聞きしていただけに言い出せない。
武蔵は普段は素早く帰るが、今日は阿恵以外の部員がいなくなっても、席を立つ気配がなかった。英語の問題集を出して解いている。
阿恵は心を決めて口を開いた。
「――ねえ武蔵、何か悩み事があるんじゃないの?」
阿恵の心配そうな問いかけに、武蔵が顔を上げる。
「昼休み、会議室で教頭先生と部長たちが話してたの聞いたんだ──転部のこと」
「…そうか」
「どうするの?」
「──さぁ、どうしようか」
そう言って武蔵は窓の外を眺めた。目線を向けると、外は雨だった。朝降っていたが、昼には止んでいた雨がまた降り出したようだった。
武蔵は誤魔化しているのではなく、本当に思い悩んでいるように阿恵には見えた。
「ねぇ武蔵。前俺に、何のために強くなりたいのかって聞いてくれただろ。覚えてる?」
「ああ」
──何のために強くなりたいんだ?
忘れたかったから強くなりたかった。でも本当は違ってたんだ。
何も無くしたくなかったから。もう二度と大事な物を失うのは嫌だったから。
本当は、守るために強くなりたかった。
「俺、武蔵がああ言ってくれたから間違わずに済んだと思ってるんだ。だから──だからさ武蔵、何か俺に出来ることがあるなら遠慮なく言ってよ」
阿恵は精一杯の思いでそう言い募った。ほんの僅かでも届くようにと。
「ありがとう」
武蔵はどこか寂しそうな笑顔で、そう答えただけだった。
それから武蔵はふと、シャーペンを置いて席を立った。廊下の方に出て行く。阿恵もその後を追った。
武蔵は雨が降る外の、窓の下の植え込みを見ていた。