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阿恵:縫いぐるみ

 家に帰った阿恵あえは、リビングのソファーにテディベアを抱えて寝ていた。芽室めむろの悪態が頭をよぎる。

 ──神崎こうさきのいる部に鞍替えしようって腹なんじゃねーの?

武蔵むさし、あれからどうしたんだろ…。電話してみようかな?)

 そう考えながらも、阿恵は目をつぶって別のことを思いだしていた。

 ──どさっと荷物の置かれた音に、阿恵は目を開けた。そこに武蔵が立っていた。

 ハードな部活を終えて、へばって座り込んでいた時のことだ。一ヶ月半ほども前になるだろうか。

 毎日毎日ただ苦しかった。練習の過酷さも勿論辛かったけれど、それ以上に苦しかったのは、閉塞感。あの時の自分は、間違いなく誤った道に迷い込んだ子どもだった。

武蔵は体力の尽き果てていた阿恵に代わって、かぎ当番をして荷物を持って来てくれたのだった。

「ごめん。何回も」

 あれは確か、三回目のことだった。

「これ、机の下に落ちてたぞ」

 そう言って差し出されたのはあのオレンジ色のマスコットだった。

「ああっ、ごめん」

 阿恵があわてて差し出した両手に、武蔵はマスコットを乗せた。それから鞄から水筒を取り出してコップに注ぐと、阿恵に渡した。

「あ…ありがとう」

 マスコットのついた鍵をポケットにしまってから、コップを受け取った阿恵は、薄めに作られた冷たいスポーツドリンクをちびちびと飲んだ。

 なんとなく武蔵の後方に目をやる。そこにはいつもいる神崎の姿はなかった。

 立ったままの武蔵から、言葉が降ってくる。

「お前、辞めた方がいいんじゃないか? 向いてないだろう、こういうスパルタは」

「……やっぱ、そうかな。よく言われるんだよね、根性なしだって。

 姉さんなんかは、俺にあるのは愛想とタッパだけで、根性も体力もない軟弱者だなんて言ってくれちゃってさ…はは。

 ――少しでも、強くなれたらと思ったんだけどな…」

 コップを手に持ったまま、顔を膝の間に埋める。

「──何のために?」

 武蔵の問いに、阿恵は顔を上げた。

「何のために強くなりたいんだ?」

 武蔵は真剣な顔で阿恵を見ていた――――。

「ちょっと、聞いてるの?!」

 姉の苛立ちを含んだ声が物思いをうち消した。目を開けて顔を向けると、エプロン姿の姉が仁王立ちしていた。

「ご飯出来たって言ってるでしょ。ただでさえボーとしてる顔、それ以上緩めてんじゃないわよ」

「…うん、ごめん」

 縫いぐるみを抱えたまま立ち上がる。

 一つ上の姉の瑞穂みずほは、その巨大テディベアを複雑な顔で見やった。

弟は昔からかわいいものが大好きだった。小さい頃、隣に住んでいたお姉さんからもらった大きなテディベアは特にお気に入りで、家にいるときはいつもそれを持ち歩いていたものだ。

しかし正月にそのテディベアは燃えてしまい、代わりに買い与えられたテディベアはもっぱら机の横で鎮座していた。弟がテディベアを抱きかかえているのを見るのは随分と久しぶりだ。

 中学に上がってから沈静化していたかわいいもの大好き病が再発したのは、よかったのか悪かったのか――。

原因を作ったのが自分なだけに、瑞穂の顔は自然複雑なものになってしまうのだった。

受験勉強で追い詰められていたとはいえ、弟の大事にしていた縫いぐるみを燃やしてしまったのはやりすぎだった。自分が全面的に悪いと理解はしているが、ごめんと言う言葉は未だに言えていない。

 姉の視線に気づき、阿恵は首を傾げた。

「何?」

「──別に。縫いぐるみまで持って来ないでよ」

 縫いぐるみをソファに置くと、ただ付けていただけのテレビを消して、二人はダイニングへ向かった。


 次の日の休み時間、クラスメートから借りた江島えじま小学校の卒業文集を読んでいた神崎こうさきのもとに、同じ小学校だった渦目うずめ藤野ふじのがやってきた。

「何読んでんだ?」

 中学一年生にしては体格のよい渦目が尋ねる。

 神崎は冊子を閉じて表紙を見せた。『道しるべ』第47期卒業生 江島小学校の印刷があった。

「──変わったもん読んでるな」

「なかなか面白いよ」

「それより聞いたぜ、昨日の話。武蔵むさしの奴、二年相手に派手に暴れまくったんだって?」

 渦目は好奇心を隠すどころか、興味津々に目を輝かせて聞いた。神崎も藤野も呆れた表情を浮かべる。

「暴れてないよ。むしろ一方的に殴られただけだね」

「そうなのか? 蹴られたとは聞いたけど、んじゃ一発もやり返してないのかよ」

「当然だろ」

「なーんだ、つまんねーの」

「──全く、詰まらないね」

 座った目で不愉快に言う神崎に、渦目は引いた。それでもなんとか話を続ける。

「それで彼奴、大丈夫なのかよ? 体の方は。休んでるぐらいだし相当酷かったんだろ」

 渦目は武蔵と同じ八組なのだ。

「別に。普通にしてたよ」

「じゃあなんで今日休んでるんだ?」

「さぁね。用事でもあるんじゃないの」

「お前も知らないのかよ」

「なんで僕がそんなことまで知ってなきゃならないのさ」

 神崎は終始ぶっきらぼうな物言いだった。

「機嫌わるいなぁ。武蔵が殴られたのがそんなにムカツクのかよ?」

「関係ないね。彼奴が殴られようが蹴られようが僕は痛くも痒くもないし。大体鋼鉄並に頑丈に出来てる人間が二三発殴られたぐらいどうだっていうのさ」

「お前ねぇ…──」

「なんだよその言い方」

 渦目がなんとも言えない顔を浮かべた時、外から物言いがかかった。神崎も渦目も藤野も、そろって廊下側の窓に目を向ける。そこに阿恵あえが立っていた。

「そんな言い方ないだろ。元はと言えばお前の──」

阿恵は言いかけて止めた。中途半端に止められた言葉に神崎は益々虫の居所を悪くしたらしく、眉間のしわを一層深くして、割り込んできた同級生をにらみ返した。

「ふん、だったら何さ。お前みたいに沈痛な面持ちしてろっての? 冗談じゃないね」

 神崎は不機嫌に言い放つ。

 阿恵には神崎のその態度が理解できなかった。あれだけ武蔵に信用されているのに、神崎は武蔵が殴られたところを見ていながら、声も掛けずに帰ったのだ。

「武蔵のこと、心配じゃないの?」

「──心配だよ。何も知らない部外者のくせに、したり顔で説教してくるような奴よりもずっとね」

 神崎に容赦はなかった。冷たくいい放たれた言葉に、阿恵はショックを受けて立ちつくした。

「阿恵」

 ずっと渦目の横にいたが、全く話さずにいた同じクラスの藤野に声をかけられ、阿恵は我を取り戻した。返す言葉も思いつかず、ショックを抱えたまま足早にその場を立ち去った。


 授業は主にテストの返却と答え合わせで、阿恵のテストの成績は平均点よりやや下だった。

 ──何も知らない部外者のくせに──

 神崎の言うとおりだ。俺は何も知らない。だって、武蔵は俺には何も話してくれない。

 窓の外を見る。今日も雨だ。朝からしとしとと弱い雨が降り続いている。

 そう言えばあの日も雨だった。

 6月下旬の水曜日。昼過ぎから降り始めた雨は次第に雨足を強め、部活が終わる頃には木の葉を激しく打ち鳴らしていた。先輩も楠本たちも家路に付き、その時教室に残っていたのは阿恵と鍵当番の武蔵だけだった。阿恵は椅子に座って外を眺めていた武蔵に、何度目になるかわからない同じ台詞を繰り返した。

「武蔵、途中まで一緒に帰らない?」

 阿恵と武蔵は家が学校の南北逆方向で、一緒に帰ると言っても昇降口までの短い距離でしかない。それでもその誘いに対する武蔵の返答は決まって『NO』だった。しかしその日の武蔵は即答を避け、しばらく考えてからぽつりと言った。

「…いいよ」

「ホント?!」

「ああ」

 武蔵は答えながら立ち上がった。

 気落ちしたように見える、すぐ隣の小さな背中を、阿恵はつい後ろから抱きかかえた。

 やはり家のテディベアと抱き心地が似ている。縫いぐるみより細身で、こちらは熱があったが。汗臭くはなく、カーディガンの柔軟剤の臭いなのか、爽やかなシトラスの香りがした。

「なんだ?」

 奇行ともとれる仲間の行動に、武蔵は顔を振り仰いで訊いてきた。

「元気なさそうだったから。プラスエネルギーチャージ」

「はは、なんだそれ」

 阿恵が笑顔で言ったのはLINEのスタンプの言葉だったが、武蔵にとっては意味不明な言葉が面白かったのか、武蔵は短く笑った。暑いから邪魔だと、阿恵の腕を振り払うこともしなかった。

 珍しく声を上げて笑った武蔵に、浮かれた気分の阿恵は、武蔵がつけた白いリストバンドに初めて気づいた。

「どうしたのそのリストバンド」

 何気なくのばした手は、武蔵に激しく打ち払われた。拒絶にとまどう。

「…え?」

「――ごめん」

 武蔵は怒らず、それどころかうつむいて謝った。意図してではなく、反射で手を叩かれたのが阿恵にもわかった。

「ううん。俺の方こそ…」

 だから阿恵も、謝るしかなかった。

「ありがとう。少しエネルギーがたまった気がするよ」

 武蔵は珍しくふざけたようにそう言って、阿恵の腕の中から抜け出した。

 ――ホントはあの時、泣きたい気分だった。

 武蔵の手首にある傷のことなら、阿恵も当然知っていた。けれど武蔵があまり気にしていないようだったので、気にしていなかった。気にしないようにしていた。

 拒絶が心根を弱くさせる。

 俺って、友達だと思われてないのかなぁ…。

「そんなに点数悪かったのか?」

 机に突っ伏してどんよりとした空気を漂わせる阿恵に、クラスメートが声を掛ける。

「普通…」

 クラスメートに答案を渡し、阿恵はため息を付いた。

 自分はあの時から、少しは強くなれたんだろうか?


 放課後には風紀委員会があった。雨は上がり、眩しい太陽が雲間に顔をのぞかせていた。

 浅田が吹き上げる風をものともせず、渡り廊下を走ってくる。

「阿恵君!」

「杏子ちゃん。何?」

「これ、阿恵君のでしょ? 忘れてたよ」

 可愛らしいパンダのペンケースを差し出す。

「あ。ありがとう。ごめん、ぼーっとしてたよ」

 阿恵は無理ににこりと笑って、ペンケースを受け取った。

「委員会の間もずーっと上の空だったもんね。もしかして武蔵の心配?」

「ん…」

 どうやら武蔵とも長い付き合いの浅田の目は誤魔化せないようだ。浅田は明るく言う。

「大丈夫だって。武蔵はそんなヤワには出来てないから。神崎くんも大したことないって言ってたし」

「そう」

(『神崎くんも』、か…)

「気になるなら一緒にお見舞いに行く? 私、帰りに様子見に寄ろうかと思ってたんだ」

「ありがとう。でも今日は妹をスイミングスクールに迎えに行く予定だから」

 武蔵の見舞いには行きたかったが、そこに神崎がいるのを見るのは嫌だった。


 妹を迎えに行くと、妹の鈴風すずかはスイミングスクールの外で阿恵とそう変わらない年の男子に話しかけられていた。見たことのない顔だ。

 阿恵は足早に近づくと、妹を背に男子に声をかけた。

「妹に何か?」

 いつも穏やかな表情の阿恵だが、今回ばかりは眼光鋭く睨み付ける。

 阿恵の気迫に後込みして、名も知らぬ男子は去っていった。

「普段はぼんやりしてるのに大したもんだな」

 横からかかった声に振りむくと、Tシャツにジーパン姿の武蔵が立っていた。片手に業務用スーパーのエコバックを提げている。

「武蔵? なんでここに…」

「買い物だよ」

「体は大丈夫なの?」

「ああ。あれぐらい大したことないよ」

「でも…」

 武蔵は心配顔の同級生に、

「今日は念のために休んでただけだ」

 と平然と返す。

「そいつ誰?」

 そこに、武蔵の横に立っていた少年が、二人の会話を断ち切るようにぶっきらぼうに聞いた。

 鈴風と同じ年ぐらいだろうか。身長は武蔵とあまり変わらない。

「友達の阿恵だよ」

 子どもをあやすような口調で武蔵が答える。阿恵は思わず耳を疑った。同級生でも部活仲間でもなく、友達と言われたことが一瞬信じられなかった。

 少年はその答えが不満だったのか、仏頂面で阿恵を上から下まで眺め回したあと、ふいっと横を向いた。

「行こうよ駆流」

 そう言って踵を返して離れようとしたが、武蔵に腕を捕まえられて少年は止まった。

「待て。挨拶ぐらいしろ。誰か聞いたのはお前だろう。阿恵、弟の弘伸ひろのぶだ」

 兄から紹介を受けた弘伸は、不満顔ながらぺこりと挨拶した。これでいいだろうと言わんばかりに一人先に行ってしまう。

「悪いな。俺が言うのもなんだけど、ブラコンなんだ」

 と言っている間にも、弘伸の姿は小さくなっていく。

「いいの? 放っておいて」

「ああ、いつものことだから。

 ──名前は?」

 一瞬何のことかと思ったが、すぐに視線でわかった。その目は妹に向けられている。

「鈴風だよ。小学五年なんだ」

「はじめまして。武蔵です」

 穏やかに挨拶する武蔵に、鈴風も小さく笑って頭を下げた。妹にしては珍しい反応だ。

「噂に違わず可愛い妹さんだな」

 武蔵からそういう台詞がでるのがなんだかおかしくて、阿恵は笑って礼を言った。

「よくあるのか? さっきみたいなこと」

「うん、まあね。この間は4年生に絡まれてるとこ、楠本に助けてもらったんだよね」

 鈴風は顔を赤くして俯くと、兄の陰に隠れた。その様子をみて武蔵は楽しそうにほほえんでいる。

「今日は、神崎は一緒じゃないんだ」

「弟といるときは大体別行動だよ。とにかく相性が悪くてな」

 武蔵は珍しく困り顔でそういう。

「それ、わかる気がする」

 阿恵は苦笑して言った。

 武蔵は学校と外にいるときでは態度が違った。部活中は私語厳禁なので無理もないが。あまり学校から離れたところで2人で話すことがないからだろうか、距離感が随分違う気がした。

 もう少し話をしていたかったが、武蔵は弟を追ってすぐに帰ってしまった。

「今のがよく話してるムサシさん?」

 名残惜し気に武蔵の背中を見送っていると、妹がたずねてきた。そうだと答えると、

「優しそうな人だね」

 と鈴風は言った。

 部活では無表情でそっけない態度の武蔵だが、確かに行動はその通りなので、阿恵は苦笑を浮かべて同意するしかなかった。

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