阿恵:七夕
飛行機雲の走るコバルトブルーの空の下、浅田は海に近い私鉄駅前の道を自転車で走っていた。下町の活性化計画で駅前の商店街の道は歩道が整備され、赤茶と渋茶を組み合わせて幾何学模様が描かれていた。
照りつける真夏の太陽には辟易させられるが、フレッシュジュースの店の前で汗をかきながら冷たいジュースを飲んでいる人々の姿は、いかにも夏らしい爽快感を漂わせ、見ているだけでも気持ちがよかった。
駅前の商店街は家から少し離れているのであまり来る機会はないのだが、たまに自転車を走らせるのも悪くないなと浅田は思った。
浅田は中学一年の女の子。セミロングの黒髪をポニーテールにし、薄いオレンジ色のパーカーを風になびかせている。膝丈のキュロットから出た足は、運動部らしくすらりと引き締まり、日に焼けて小麦色になっていた。
取り柄は元気なこと。顔も体格も成績も平均値。多少運動に自信がある程度なので、自然そういうところに落ち着く。中学に上がって丸三ヶ月が経ち、漸く学校にも慣れてきた頃だ。
今日は休日に七夕が重なっているためか、人通りには親子連れが多く見られた。立ち並ぶ店の前にも業種関係なく七夕の竹が立っている。流石にもう七夕ではしゃいだりはしないが、カラフルな色紙の飾りや短冊を見ているのは楽しかった。
浅田は目的の店、『阿恵酒店』にやってきた。同級生の店だ。この店にも店先に竹が立っている。
中に入ってすぐの机の上には白い短冊の入った箱とペンが置いてあった。「自由に願い事を書いてください」との張り紙どおり、今も幼稚園ぐらいの子どもが母親に見守られながら真面目な顔で短冊に何かを書いている。
浅田は足を止めて、飾りや短冊が所狭しと埋まる竹を眺めた。見るとはなく願い事に目をやる。解読不能のモノから、海外旅行に行きたいと現実的なものまで願いは様々だ。その中の一つに目を留め、浅田は思わず吹き出した。
『武蔵ともっと仲良くなれますように』
名前は書いていなかったが、書いた人間は容易に想像が出来た。これが中学生にもなって書く願いだろうか。けれど本人が至って真剣に書いていることも想像出来るので、浅田としては笑うしかない。
浅田が笑いを堪えていると、店内からエプロンを付けた若い男性店員と客の男の子が並んで出てきた。さっき短冊を書いていた子だ。一生懸命書いたであろう短冊は、店員の手の中にあった。
「高いとこに付けてよ、ずーっと高いとこだよ」
「わかった、高いところだね」
必死に上を見上げる子供の希望通り、店員は脚立まで駆使して可能な限り高い位置に短冊を付けた。短冊にはかろうじて読めるひらがなで、「じどうしゃすき」と書いてあった。一体何を叶えてもらいたいのかまでは読めない。
「これでいい?」
「うん、ありがとう」
礼を言うと、子どもは願いが叶うよう手を合わせてから母親と帰っていった。
「阿恵君」
脚立をしまい終わった店員に声を掛けると、店員は浅田の姿に朗らかな笑顔を浮かべた。
「杏子ちゃん、いらっしゃい」
阿恵は浅田と同じ中学一年生。クラスは違うが、趣味が似ているという理由で仲が良かった。
この酒屋は阿恵の両親が経営している店で、酒だけではなく珍しい飲み物やおつまみ類のお菓子も取り扱っている。
配達が多いようだったが、客足が増える休みの日ともなると、少しでも戦力になりそうな家族は年齢に関係なくかり出されるらしかった。今日も期末テスト前だと言うのに、机の前ではなく客の前に立たされているようだ。
定番のジーパン&白Tシャツに店のマークが入った黄色いエプロン──冗談にも格好いい姿ではないのに、それが様に見えてしまうのだから顔立ちのよい人間は得だ。
阿恵は中学一年にしては背の高い方で、身長はすでに160センチを越えていた。運動部のため体も締まっているし、何より顔の作りが良い。可愛らしさの残る、典型的なジャニーズ系ハンサム顔だ。
それに加えて女子には絶対的に優しいと言うフェミニストぶり。これでモテなければ嘘だろう。実際年齢問わず女子にモテているのだが、天然なのかクールなのか、本人が一番その現実に疎く見えた。
「明日からテストなのにお店の手伝い? 大変だね」
「そうなんだ。父さんも母さんも、俺のテスト結果より店の売り上げの方が大事みたいでさ」
「ははは。でも勉強しろ勉強しろって五月蠅く言われるよりいいんじゃない?」
「そうかもね。わざわざ買い物に来てくれたの?」
「ジュースをね。これから沢ちゃんちで試験勉強するから。ついでに」
浅田はそう言って勉強道具の入ったトートバックを持ち上げた。勉強の苦手さが自然外に出て顔が渋くなる。阿恵はそんな同級生を見て、柔和な笑顔で礼を言った。
こういうところが人気の理由なんだろうな~、と浅田は人ごとに思う。客観的にカッコイイとは思うが、阿恵は浅田のヒットゾーンには入らないので仲のいい友達以外の何ものでもない。だからこそこうやって気楽に話も出来るのだが。
浅田は夏の日差しを遮るため、頭上に手をかざしながら短冊のかかった竹を見上げた。自分の身長の1.5倍はあるだろうか?
「この竹すごい大きいね。切ってきたの?」
「うん、三郎池ってとこに竹林があるんだけど、そこからもらってきたんだ」
「へぇ」
「よかったら短冊書いて行かない? お金はとらないよ」
「じゃあテストの出来でもお願いしようかな」
友達の勧めを素直に受け、浅田は目的のこの店でしか見たことがないゆずジンジャーエールを買った後、『期末試験で平均点が取れますように』と謙虚な願いを短冊に託した。
阿恵は待っていてくれたのか、単に休憩していたのか、さっきと同じ出入り口付近で買い物に付いてきたらしい4、5歳ぐらいの女の子と何か話をしていた。近くに母親の姿は見えず、どうやら子守をしているようだ。しゃがんで目線を合わし、思いつくままに喋る女の子を相手に、こやかに頷いたりしている。女の子と話している時の阿恵は、相手が誰であろうと何歳であろうといつも楽しそうだ。
浅田が出てきたのに気づくと、阿恵は女の子を抱えて立ち上がった。
「願い事書けた?」
うんと頷いて短冊を見せる。
「美和ちゃん、お姉ちゃんの短冊、笹につけてあげてくれる?」
阿恵にお願いされた女の子は、元気に頷くと浅田から受け取った短冊を不器用に、けれど一生懸命に竹の葉にくくりつけてくれた。ありがとうと、二人からお礼を言われて美和ちゃんはご満悦顔だ。間もなく母親が会計を終えて出てきたので、二人は並んで手を振る美和ちゃんを見送った。
「ところでさ、最近武蔵と井上の様子どう? 相変わらず?」
二人になって落ち着いたところで、阿恵がそんな話を振ってきた。やはり出てくるのを待っていたらしい。
武蔵も井上も浅田のクラスメート、阿恵には友達になる。二人が揉めているのを知っているので気になるのだろう。揉めているとは言っても、井上が一方的に武蔵に絡んでいるだけなのだが。
浅田は軽く首を傾げて考えた。
「ん~、相変わらずかな。でも最近ちょっと武蔵は元気ないかも」
「やっぱり? なんだかそんな気はしてたんだけど──」
「いつもがいつもだから確信が、でしょ」
笑顔でビシリと言い当てられ、阿恵は苦笑いを浮かべる。武蔵は大体いつも無表情で、何があっても動じることがなかった。友達からは不動明王やらロボットやらと親しみも込めて揶揄られている。
どことなく元気がないと感じるのは、多少つきあいの長い浅田だからこそ、思い入れの深い阿恵だからこそだ。
「鉄面皮だから分かりづらいよねぇ」
「何かあったのかな」
「別に何かあったとかじゃないと思うよ。梅雨でしょ、今」
浅田の言葉に今度は阿恵が首を傾げた。
「雨が苦手なんだって。降り続くと調子が悪くなるみたい。去年もこの時期は体調崩して休んでたしね」
「え、そうなの?」
「うん。でも神崎君も大丈夫だって言ってたし、大したことないと思うよ」
「そう…」
大丈夫だと言われても、まだ阿恵は不安そうだった。疑っている訳ではなく余程心配なのだろう。