和之:スイミングスクール
「正太。行くぞ」
和之が芽室家の玄関から中に声をかけると、戸の閉まった奥の、今の方から声が返ってきた。
「悪ぃ、まだ用意出来てねーから先に行っててくれよ」
「かかるのか?」
「あー、これから着替えっから」
「また夜遅くまでゲームしてたのかよ」
「んなとこ。朝練には間に合うように行くからさ」
「遅れるなよ」
和之は奥に声をかけて、一人で学校に向かった。
和之達一年三人が朝練の用意をしていると、二年がぽつぽつ来始めた。そこに、遅れて正太が現れた。
「ぉはよーす」
正太の顔を見て部員達は驚いた。左頬が無惨に腫れ上がっていたからだ。
「芽室!? どうしたんだその顔?」
二年の中で最も常識人と言われる黒メガネの松田が、駆け寄って来て声をかけた。
「ははは、昨日親父と喧嘩して。んで」
「大丈夫なのかお前? ものすごい顔になってるぞ」
「え、マジ? 湿布したんだけどなぁ」
「保健室、行った方がいいんじゃないか…?」
松田と一緒に来ていた二年の、人のいい梅原が言う。
「そうだな、奈津子先生もこの時間なら来てるよな。
芽室、お前保健室行って来い。赤井には俺らから言っといてやるから」
松田がそう言ってくれたが、正太は苦笑いを浮かべて答える。
「いや、別にいいっスよ」
「俺が連れて行きます」
そう素早く名乗りを上げたのは和之だ。怒気を含んだその顔に、松田たちも引いた。
「…そ、そうか。じゃあ頼む…」
和之は有無を言わさず、正太を引っ張って体育館を出ていく。口を閉ざしてバカな幼なじみの腕を掴んで引きずっていた和之だったが、保健室前に来て後ろの幼馴染を振り返った。
「──なんで朝言わなかったんだよッ」
「だって、知ったらお前うるさく言うじゃん」
「言うに決まってるだろ! お前今自分がどんな顔してるか分かってるのか?! そんな顔面腫れ上がった、妖怪みたいな顔で」
「大げさだなぁ」
殴りつけたい衝動を、拳を握りしめてぐっと抑える。
「おじさんと喧嘩したって、一体何やらかしたんだ? ちょっとやそっとのことじゃそこまでやられないだろう」
「べっつにィ、ただちょっとゲームに没頭して晩飯当番忘れただけだぜ? 運悪くご機嫌斜めだったみてぇでさ」
その答えが本当かはぐらかしているだけか、和之には判断が付かなかった。けれどそれ以上の質問を押し殺し、和之は勢いよく保健室のドアを開けた。
保健の奈津子先生をその顔で十分に驚かせた正太は、結局今日一日激しい運動は禁止との命令を受け、そして朝練の間中、最も嫌いなボール磨きをする羽目になったのだった。
土曜日の部活後、雨が降る外を、和之は部室の窓から下を見ていた。そこに阿恵が声をかける。
「何見てるの?」
後ろからの不意打ちに、驚いて振り返る和之。
「お前、まだ帰ってなかったのか?」
「うん。テニス部の子達と話してたんだ。そしたら楠本の姿が見えたから」
阿恵の後方に目をやると、廊下を数人の女子が階段に向かって歩いていく姿が見えた。
「またサンリオキャラの話でもしてたのか?」
「ううん、マスコットの作り方聞いてたんだ」
(まさか作る気か…)
下から正太の声が聞こえてくる。何度もブランシュと猫の名を呼びながら、緑の傘を片手に玄関付近の草むらを見て回っている。
阿恵は部活仲間を確認して、横の同じく部活仲間に目を向けた。和之はその視線に、気まずげに目をそらした。
「ブランシュって、この間の猫のことだよね?」
「…ああ、昨日から姿見せないらしくてさ」
二人が話をしていると、芽室は諦めたらしく正門へ歩いて行った。
「帰るみたいだよ」
「ああ…」
相づちを返しただけで和之は動かない。
「一緒に帰らないの?」
「──ああ」
「もしかして、喧嘩してる?」
阿恵は不機嫌に答える仲間に、心配そうに聞いた。
「いいや、まだしてないよ」
「まだって…」
阿恵は困ったような呆れたような顔を和之に向けた。
「なんか、割りに合わないよな。──兄貴分なんてさ」
ぽつりと漏れた仲間の本音に、思わず阿恵は笑顔を浮かべた。
「そうだね。楠本はちょっと過保護すぎだと思うけど」
不本意な顔で阿恵を見る。
「俺だって好きで心配してる訳じゃないんだぜ。──習慣みたいなもんだ」
「ははははは。それは大変だね」
屈託なく笑う阿恵に、和之は内心を見透かされたようで居心地が悪かった。
「芽室に母親がいないから心配してるの?」
「なんでそのこと──」
「世間話してたら自然にね。気になるのは分かるけど、あんまり気にされると芽室もしんどいんじゃないかな」
ずばりと指摘されて、和之は言葉に詰まった。いつまでも気にしていても仕方ないことは分かっていた。それは正太の問題で自分の問題ではないのだから。
わかっている。分かってはいるけれど…。
「──でも、無理してるのがバレバレなのに平気な顔されたら逆に気になるだろッ?!」
矛先の間違った発憤だった。突然の感情の爆発に面食らった阿恵は、しばらくきょとんとしてから苦笑を浮かべた。そうだね、と短く同意して窓の外に顔を向ける。
「でもさ、無理するのが必要な時もあるんだよ、きっと。苦しくって辛くって、見当違いの無駄な足掻きでもさ。
俺が今こうやって楠本と話してられるのも、無駄に足掻いたお陰だしね。どうすればよかったかなんて、後にならなきゃわからないものじゃない?」
珍しく真っ当な事を言うなと感心していると、阿恵の顔が俄に明るくなった。
「あ、武蔵だ!」
阿恵は濡れるのも構わず窓から身を乗り出し、大きく手を振って声を掛ける。和之が窓ガラス越しに下を覗くと、通り過ぎようとしていた二つの傘がその場に止まった。傘が邪魔で姿は見えない。
「武蔵、こっちだよ、こっち!」
二度目の呼びかけに、傘が傾いて顔が覗いた。確かに武蔵だ。それと──神崎。
気づいてもらえた阿恵は大喜びで手を振っている。武蔵は子供のようにはしゃぐ同級生に軽く手を上げて応えると、神崎と一緒に校門へ去っていった。
「傘だけでよく分かるな…」
「前一緒に帰ったときにあの傘差してたんだ。可愛い傘だよね」
武蔵が差していたのは青空に雲が浮かんだ模様の傘だった。
(合ってないけどな…)
「俺も一緒に帰りたかったなぁ」
うらやましそうに言うが、阿恵と武蔵は学校を挟んで南北逆方向に家がある。
「お前、本当に武蔵がお気に入りだな。何がそんなにいいんだ?」
「え~それは色々あるけど」
別に彼女との馴れ初め話をしている訳でもないのに、照れくさそうにする阿恵。そんな友人を和之は呆れた顔で眺めた。
「…かわいいからか?」
「それは勿論そうだけど、やっぱ色々だよ」
こいつに比べたら俺は普通だな。和之は少し気が楽になった。
「俺も帰るか」
もたれ掛かっていた窓から身を起こす。すると阿恵が言った。
「そうだ。俺これからスイミングスクールに妹迎えに行く予定なんだけど、よかったら楠本も付き合わない? 気晴らしにさ。ガリガリ君ぐらいならおごるよ」
「──安いおごりだな」
和之は了承の代わりに苦笑を浮かべた。
スイミングスクールは和之も小学低学年の頃に体験で来たことのあるところだった。住宅街の端に控えめに建っている。狭い駐車場には「魚富スイミングスクール」の名前の入った送迎用の小型バスが停まっていた。
両開きのガラス戸を開けて中に入ると、ベンチと観葉植物の置かれた手狭なロビーだった。昔は小さかったので、もっと広く感じたものだ。
「ごめん、俺ちょっとトイレ行ってくるよ」
阿恵はそう言うと、通路の奥に歩いて行った。
和之は暇つぶしに、壁際に置かれたトロフィーの飾られたガラスケースや表彰状を眺めた。個人戦は本人が持っているので、全て団体戦のものだ。住宅街が造られたのと同時期に建ったのだろう。一番古いものは10年すこし前の日付だった。
なかなかの戦績に感心していると、背後から人の走る音が聞えてきた。阿恵にしては軽い足音だ。
振り返ると、小柄な、おそらく武蔵と変わらないであろう140㎝前後の長髪の可愛い女の子がロビーに走り出て来た。まだちゃんと髪を乾かしていないらしく、まとめてもいない濡れ髪は、黒く光って目立った。
女の子は和之を見て驚き、背後を覗い見てから改めてロビーを見わたす。どこに行くべきか迷っているようだった。
するとそこに、「あえ!」と呼ぶ男の子の声が廊下の奥から聞こえてきた。
その声に文字通り飛び上がると、女の子はロビーに置かれた自分よりも丈のあるガジュマルの木の陰に隠れた。小柄なので体は全て隠れたが、お尻ならぬピンクの服が葉陰からのぞいていて、人が隠れているのは一目瞭然だった。
追ってきた相手にもそれがすぐにわかったようで、女の子よりすこしだけ背の高い短髪の男の子は、観葉植物の後ろに回って、隠れていた女の子の腕を取った。
「なんで逃げるんだよ!」
女の子は泣きそうな顔をして、黙ったまま腕を引き離そうと抵抗している。
その様子を見ながら、和之は思った。
(あれっぽいなぁ…。さっきあえって呼ばれてたし)
廊下の方を見るが、阿恵が現れる様子はない。和之はしかたなく足を向けた。
背後に女の子をかばうようにして、自分の肩ぐらいの身長の二人の間に体を差し込む。男の子は、自分からしたら大男の出現に女の子の腕を離した。
「嫌がってるのがわからないのか?」
和之は男の子の強引さを不快に思っていたので、年下相手についつい冷たい口調で言ってしまった。男の子が和之を睨む。
「あんたには関係ないだろ」
「関係ないかもな。でもそんな態度で仲良くなれると本気で思ってるのか?」
見下ろされながら言われた正論に、男の子は一歩下がった。
そこに阿恵がやってきた。
男の子は阿恵の姿を見、次に和之を見上げてから、舌打ちをして外に出て行った。
「あれ? 何かあったの?」
阿恵が緊張感なく聞いて来る。
「いや、ちょっと絡まれてたから」
「え、また? 誰に?」
阿恵が和之の後ろにいる妹に聞いた。和之も体の向きを変えて阿恵の妹に正対する。
阿恵の妹はうつむいて小さな声で答えた。
「…杉山くん」
「そんな子いたっけ?」
「この間入った、四年生の子」
「…そっかぁ、四年生かぁ。鈴風、年下の子にぐらいはちゃんと嫌だって言わなきゃだめだよ」
「言ったけど、聞いてくれなくて…」
鈴風というらしい阿恵の妹は、本当に今にも泣き出しそうになってしまった。
小さな妹がいる和之は、半ば無意識にしゃがんで、鈴風の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。ちゃんと話せばわかってくれるって。せっかく可愛い顔してるんだから、泣いたりしたらもったいないよ」
鈴風は、さっきまでは男の子を厳しい口調で見下ろしていた兄の友人が、今度は優しい笑顔で見上げてくるのによほど驚いたのか、泣きそうになっていた理由も忘れたように、目をぱちくりさせた。
「鈴風。友だちの楠本だよ」
阿恵が改めて妹に友人を紹介する。
「楠本和之です。よろしく、鈴風ちゃん」
和之はしゃがんだまま自己紹介して、手をさし出した。
鈴風は驚いた顔のまま兄を見上げ、兄より背は低いががっしりとした体格の男子に戸惑いながらも、和之の手を握った。
4年生が年下ならば、鈴風は小学5年か6年だろう。当然ながら、まだ幼稚園にも入っていない和之の妹よりも大きな手だったが、けれど同じぐらい柔らかく暖かかった。
その後、三人は近くのコンビニに行ってアイスを買って食べたが、和之は甘いものが苦手なのでレモン味の炭酸水を奢ってもらった。阿恵は反対に甘いものが好きなようで、チョコモナカジャンボを買っていた。鈴風は自分で買うと言っていたが、兄がついでだからと強く主張するので、ガリガリ君を選んでいた。兄の財布事情を気にしているのかと、なんとなく和之は思った。
ガリガリ君は安いからか食感がすきだからか、正太もよく食べているアイスだった。
楠本家のリビングで、変形できない変形ロボットを持って、走り回って遊んでいる幼い次男を見て母がとがめた。
「俊、駄目でしょ! お兄ちゃんが怒るわよ」
「違うもん! にーちゃんがくれたんだもん」
母に奪われまいとロボットを抱え込む俊之。
「またそんな嘘言って」
「本当だよ。俺がやったんだ」
背後から長男の声が聞えた。冷蔵庫から麦茶を取り出しながら母親に言う。
「いいの? 大事にしてたんでしょ?」
「別に、たまたま残ってただけだよ」
和之は、もう弟ぐらいしか必要としなくなった、ある意味壊れたロボットを見ながら、麦茶をコップに注いだ。冷蔵庫からとりだしたばかりの麦茶は、冷たくて美味しかった。