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この世界が巻き戻されていると気づいたのはもうずいぶん前のことだ。2度目の生のときに、おやと既視感を覚え、3度目の生の時に確信した。この世界は繰り返されている。もっと正確に言うならば巻き戻し、そして新たな物語が紡がれている。
1度目の生のときも、わたしはリンフォード殿下の婚約者であった。公爵と隣国の姫君の間に生まれた娘として決められた結婚に抗うつもりはなかった。むしろ、穏やかで美しい王子となら穏やかな関係を築いていけると信じていた。初恋と名付けてもかまわない。王子と結婚し、その隣に並び立つ未来を疑いもしなかった。
けれどそんな淡い初恋はすぐに打ち破られる。ユーリフェリア15の誕生日を祝うパーティーでの席のことだ。わたしの妹を祝うためのものであるから、当然わたしの婚約者も未来の義妹を祝うために出席していた。
……わたしは初めて人が恋に落ちる瞬間というものを目撃することになる。あれをきっと一目ぼれというのだ。わたしの隣に立つ婚約者が小さく息をのんだ音が聞こえた。「ありがとうございます、殿下」と鈴を転がすような可憐な声。淡く染まった桃色の頬。照れたようにはにかんだ妹にたしかにわたしの婚約者は心を奪われたのだ。
それはきっと隣に立つわたしにしか分からなかった。小さく息をのみ、きゅっとこぶしを握り締め、ちらりとわたしを気遣うような視線を向けた。それは婚約者として、他の娘に惹かれたことを後ろめたく思うようなそんな視線だった。それはきっと殿下の優しさだったけれど、ほんの一瞬のその仕草でわたしは悟ってしまった。ああ、この妹にわたしは婚約者まで奪われるのかと。
ユーリフェリアは悲劇の娘だと、そんなふうに噂される。国の思惑により引き離された両親。引き取られた公爵家で義理の姉につらくあたられ、それでも健気にがんばっている。かわいそうな、悲劇の娘。
でもそんなことがなんだというのだ。ユーリフェリアは愛されている。それだけであんなにも恵まれているのに。
だって愛らしい義妹はたった1人寝室で目覚める冷たさを知らない。わたしの母が駆け落ちしたのはわたしが3つのときだった。まだ幼かったわたしに「ごめんね」も「さようなら」も告げず、母は夜中に屋敷を去った。あるいはわたしが寝ている間にそんな一幕があったのかもしれないが、少なくともわたしが目覚めたときには屋敷中上に下にの大騒ぎだったのだ。
父と義母のように持て囃される大恋愛の末生まれた子であるユーリフェリアには想像もつかないにちがいない。腕に抱くのが愛する者との子であればとため息をつく父の失望も。どうしてもあなたを愛せないと涙をこぼした母の絶望も。愛されたユーリフェリアにはわからない。
けれど、ユーリフェリアはいとも簡単にわたしの唯一の存在意義であったリンフォード殿下まで浚っていってしまった。そしてそれは周囲の目にも明らかだったのだろう。
王位略奪を目論む内乱。その芽に気づきながら目を背けたことが罪だったのか。小さな芽であったはずのそれはいつのまにか王国を揺るがす内乱へと発展し、その刃が第1王子にも向けられた。
そして王子の心を折ることを目的に行われた惨劇の的となったのは婚約者たるわたしではなく、わたしの付き添いという名目でともにいたユーリフェリアであった。後ろ手に縛られ、跪かされた王子の目の前でユーリフェリアは無残に殺された。白い肌を紅が伝い、そして床を汚した。王子のひきつった悲鳴をわたしはそのすぐ隣で聞いていた。
王子が一番悲しみ、そして苦しむ原因としてわたしは選ばれなかった。婚約者であったはずなのに。それはだれの目から見てもただの張りぼてにすぎなかったのだろう。ユーリフェリアは全身を血に染めていたのに、婚約者たるわたしはひとかけらの傷もつけられることはなかった。
そのあとのことはよく覚えていない。一応王家に連なる者として貴族のための牢に入れられたけれど、特になにをされるわけでも、なにを言われるわけでもなく時が過ぎた。ただユーリフェリアを呼ぶ、王子のかすれた悲鳴だけが耳にこびりついていた。
しばらくして、失意の末王子が命を絶ったことを聞かされた。その報せを聞いて、傷ひとつない自分の身体に視線を落とし、そして次に目を覚ましたときには、ユーリフェリア15の誕生日の日に巻き戻されていた。
そうして巻き戻された2度目の生で、ユーリフェリアは筆頭騎士であったグレアム・フルトンと恋に落ちた。
わたしが「おや」と思ったのはユーリフェリア15の誕生日のときのことだ。
わたしの隣に立つのは変わらず婚約者たるリンフォード殿下だったけれど、その半歩後ろに護衛騎士のグレアムが控えていた。「ありがとうございます、殿下」その鈴を転がす愛らしい声に息をのんだのは殿下ではなく、半歩後ろに控えるグレアムだった。「あら、殿下ではなかったかしら」と違和を覚えた、それが始め。けれど違和感があったのはそれだけで、その後愛らしいユーリフェリアと恋に落ちたグレアムをわたしは殿下の隣でまるで演劇を鑑賞するかのように眺めていた。
公爵家令嬢と護衛騎士であるグレアムの恋は、姉の婚約者との恋に比べれば障害は少なかっただろうが、それでも貴族社会においてあまり称賛されるものではなかった。それがわかっていたから2人はそれはもうひそやかに、そして大切にその恋を育てていった。それを主たる殿下は気づいていたのだろう。わたしの付き添いとしてユーリフェリアを王城に呼びつけたり、さりげなくグレアムに息抜きの間を与えたりと細やかな気配りをしていたように思う。グレアムは殿下の乳兄弟であったし、生真面目で何よりも殿下を優先しそれこそ本当の兄のように傍に控えるグレアムを殿下は他より大切に思っていたのだろう。
だから、1度目と同じように王位略奪の反乱がおきたとき、自らの御身より殿下はグレアムを優先した。それは王太子として決して褒められた行動ではなかったけれど国王が凶刃に倒れたその時、王太子の傍で果てるより愛しいものと生き延びてほしいという願いだったのだろう。
夜明け前にユーリフェリアと亡命するよう王太子として最後の命を下した。グレアムは最後まで抵抗していた。けれど瑠璃の瞳に涙をたたえ、震えるユーリフェリアを一人にしておくことができなかった。明るくなる前にと2人は王城を抜け出した。それをわたしは殿下の隣で見送った。
グレアムは護衛騎士であった。「王城にいるときは彼が君を守るよ」とグレアムを紹介されたのは、1度目のときも、2度目のときもわたしが10のときだった。表情の変わらない彼のことがわたしは苦手であったけれど、わたしの3つ年上であるだけの彼の剣の腕はたしかだったから殿下の信頼のもとの采配だったのだろう。その護衛騎士はわたしと義妹を天秤にかけ、そして迷うことなく義妹を選んだのだ。そしてその命を下した殿下もわたしと義妹を天秤にかけ、迷わず義妹を選んだ。
だから1度目と同じように兵に囲まれたとき、わたしを守る盾も剣もわたしの傍にはなかった。「おまえを見捨てた護衛騎士は女と共に死んだ」と兵に告げられ崩れ落ちる殿下の隣にありながら、それでもわたしは無傷であった。わたしを守る騎士はいなかったけれど、価値のないわたしは傷つけられることすらなかった。
1度目と同じように入れられた牢の中で、グレアムとユーリフェリアは敵の刃に血を流しながら川へと身を投げたのだと聞いた。例えば、万が一にも生き残って脅しの材料として使われないために。たとえば、死体から首を切り離され王子の希望を絶つための道具として使われないために。見つめあい、身を寄せ合って国一番の急流にその身を投げた。
それから間もなくして殿下は処刑台におくられた。国王に連なる血筋は絶やさねば、革命は完了しなかったからである。次はきっとわたしの番だ、と牢にしては居心地のいい塔の一室で目を閉じ、次に目を開けたときにはやはり時は巻き戻されていた。
3度目の生のとき、これが繰り返されていると気づいたのはやはりユーリフェリア15の誕生日のときであった。「ありがとうございます、殿下」と鈴のなるような声で答えるユーリフェリアに息をのんだのはわたしの半歩後ろに控える従僕のルーウェンだった。「今度はルーウェンなのね」と息を吐き、そしてはっきりと思い出したのだ。1度目の惨めさ、2度目の寂しさを。そして耳にこびりつく、ユーリフェリアの名を呼び泣き崩れる殿下の声を。
そうして、思い出した記憶を整理し、わたしの出した結論はどうやら世界が巻き戻されているらしいこと。そして世界は全く同じ道をたどるわけではないらしいことであった。
大まかな流れは変わらないけれど、細かいところが同じように進むわけでない。たとえば、ユーリフェリアの恋の相手は1度目と2度目では違っていたし、ルーウェンの反応を見るに3度目も違ったものとなるだろう。けれど、思い返すにわたしの人生はどうやらそれほど変化はなさそうだという結論にも至った。殿下の婚約者となることも、殿下の婚約者として生を終えるだろうこともおそらく変わらない。それはきっとこの世界の主人公がユーリフェリアであるからだ。
巷では「灰かぶり姫」と呼ばれる物語が流行っているらしい。正妻が亡くなり、妾の子として貴族の家に迎え入れられた娘。正妻の子にはつらくあたられ、それでも健気に過ごす娘がやがて王子と恋に落ちる。そんな物語だ。まさしくユーリフェリアそのものである。となれば、わたしは主人公につらくあたる正妻の子の役どころだ。幸せな結末は用意されていないし、必要もない。
それがわかればわたしにできることなど何もなかった。巻き戻しても変わらぬ事象は存在する。それが運命と呼ばれる神の采配であるのだろう。つまり、あの反乱は運命であったわけだから、変えることはできない。そのほか変わらぬことは山とあったが、わたしは都合のいい部分だけを運命だと無視することにした。
だから我関せずと時を過ごし、その間にユーリフェリアはわたしの従僕として雇われていたルーウェンとの仲を深めた。その中でルーウェンが我がバローズ王国に滅ぼされた公国の王子であったこと、リンフォード殿下に復讐するために公爵家に雇われ息をひそめていたことが発覚したけれど、わたしにはそれすら他人事だった。わたしのために、と雇われたルーウェンの出自が不透明であることは1度目のときから知っていた。わたしに興味のない父が雇い入れた従僕である。見目だけは美しかったから、わたしが文句を言わないとふんだのだろう。けれど従僕にしては上品な仕草も時折漏れる亡国訛りの言葉もきっとなにか思惑があってここへ雇われたのだろうと察していた。それがまさか王家転覆を目論むものだとは思ってもいなかったけれど。
1度目のときも、2度目のときもおそらくは裏でルーウェンが糸をひいていた。でなければ、野心家でけれど小心者のデルバルト伯爵が反旗を翻し、ましてやそれを成功させることなどできるわけがない。だからこそ1度目のとき、わたしは反乱の芽をないものとして目をつむったのだから。
けれど今生でユーリフェリアとの清らかな恋に落ちたルーウェンはその作戦の途中で復讐心を燃やし続けることができなくなったらしい。すべての罪を告白し、彼は大罪人として捕らえられることとなる。国家転覆の罪は重い。すぐに処刑台へとひったてられ、その首が落とされた。嘆き悲しんだのはユーリフェリアであった。美しい瑠璃の瞳が溶けてなくなるのではないかというほど涙を流し、食事もとらず部屋に閉じこもった。父も義母も殿下もグレアムも心配して毎日のように扉越しに話しかけていたけれど、ユーリフェリアは嗚咽を返すばかりで立ち直る兆しもない。そうしてそのまま命を絶った。
穏やかな春の日差しが降り注ぐ日だった。ベッドのシーツを引き裂いて作った紐を首にかけ、彼女の細い体は頼りなげに揺れていた。
誰が見てもそれは自殺であったはずなのに、なぜかそれがわたしの仕業ではないかと噂がたった。
ユーリフェリアの名を呼び泣き崩れる殿下、取り乱す義母の声。息を殺すグレアムと青白いユーリフェリアの頬を包み涙を流す父の声。その場で涙を流さなかったのはたしかにわたしだけだったけれど、3度目の生をわたしは演劇でも見るかのように他人事として歩んでいたから、それは仕方のないことだったともいえる。けれど、薄情な姉だとなじられ、本当はおまえが手に掛けたのただろうといわれない罪を着せられた。そうして妹殺しの汚名と共に再び牢に入れられたのだ。
1度目と2度目のときとは違い、薄汚い牢獄だった。おそらくそれは実家から縁を切られたことを意味していたのだろう。黴臭いじめじめとしたその牢で「これも運命というやつかしら」とそれでもなお他人事のように眠りについて、目をあけたとき、わたしは4度目の生を歩んでいた。それが今生である。
ユーリフェリア15の誕生日である。
「ありがとうございます、殿下」
鈴の鳴るような声。隣のリンフォード殿下は眩しそうに目を細め、その後ろグレアムとルーウェンはその口元に小さな笑みを浮かべた。
小さく息をのんだのは、ユーリフェリアの傍にいた弟、エドアルドだった。
今回は、エドアルドなのね。血が半分つながっている分、今までとはちがった障害がありそうだけれど。
まるで宝石のようと令嬢たちがほめそやす翡翠の瞳が、ついとユーリフェリアに向けられるのを眺めながらわたしは小さく息を吐いた。