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微笑う死神の追憶 -幾億の夜を抱えて-  作者: 木村竜史
第六章 『バラナシオ』
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微かに動く指先

 バラナシオとニッティの二人は献身的だった。彼らは私の口から砂混じりの海水が出なくなるまでずっと寄り添ってくれたし、力が全く入らなくなっていた身体が微かに動いた時は声を上げて喜んでくれた。生き延びてしまっただけの私を見捨てることなどせず、ただただ手を尽くしたのだ。


 私が寝ている部屋は元々はニッティの寝室だったようだ。今では隣に新しく作られたニッティの寝具が置かれている。ニッティは力強い外見から見てわかる通りに生活習慣はなかなかに荒々しい。着ていたものは近くに放り投げるし、その辺に食べた動物の骨を投げ捨てる。5日もすれば彼女の寝床の周りは悲惨なことになるのだが、時折バラナシオが部屋に入り込んで慣れた手つきで部屋を掃除していく。


 二人がどういった関係なのか気になったが、それを確かめることは出来なかった。身体は未だに指先ぐらいしか動かないし、口からは掠れた吐息しか出てこない。この状態で出来ることは、彼の一挙手一投足をじっと見つめることしかできなかった。


「そんなに面白いかな?」


 照れたように笑うバラナシオは、顎髭がなければ少年にしか見えないだろう。何処まで流されて漂ったのかわからないが、今までいた場所に住んでいた男たちより髪の毛以外の体毛が少ないような気がする。それが個人差なのかわからないのだが。少し高い彼の声が、尚更幼さを感じられた。


「俺とニッティは昔からの馴染でね。こうやって片付けてやらないとえらいことになっちまうんだ。まぁ、アンタが元気になったら、アイツのこととか、もっといろいろ教えてやるよ。だから、死ぬんじゃねぇぞ」


 バラナシオの言葉で身体より先に冷えてしまったはずの胸の奥がじわり、と熱を帯びていくのを感じる。今も瞼を閉じると闇の端から血塗られた男が何かを言いたそうにこちらを見ている。私が何人もヒトを殺した獣であることを知ったら彼らはどう思うのだろうか。二人に優しくされる価値は私にあるのだろうか。考えれば考えるほど、この場から逃げ出したくなる。


 歩けるようになったら、ここを出よう。何度も何度も考えたことだったが、彼らの優しい目を見ていると躊躇いのようなものを感じている私も確かに存在するのだ。


 海水は出なくなったが、そこの方に沈んでいた砂はまだ残っている。何度出したかわからないほどだが、口の中にはいつでも砂や小石が存在していた。弱った身体を押してどうにか砂を吐き出すと、身体の内側を傷つけながら出てくる砂は血液が混ざっている。不快感の塊のような粘度の高い液体を吐き出し終えるまでに、実に8日を要した。


 砂が抜けきったあとに私の身体が求めたのは、自分の意志のままに動くことが出来る強度を取り戻すことだった。遮っていたものがなくなったせいか、呼吸は十全に出来るようになったが、問題は食べることであった。弱りきった身体が殆どの食べ物が口を通らなくなっていた。食べることが出来なければ身体は弱っていく。堂々巡りではあったが、それも二人のおかげでなんとかなってきていた。


「ここまで来たなら一安心かもしれないね」


 原型を留めなくなるまで柔らかく煮込まれた魚と芋を匙で私の口に運びながら、ニッティは目を細める。薄味でありながら確かに旨味を感じる、魚の生臭さを微塵も感じさせないほどに手をかけられた優しい味付けが、ほんの僅かではあるが確かに私の身体の力を取り戻させてくれる。


 全身につけられていた傷はもう完全に癒えていた。普通完治するまでにかなりの時間を必要とするほどの怪我だったこともあり、治る速度に二人は驚いていたが、「珍しいこともあるものだ」で済ませていた。


「あの状況で生きてるなら、傷がすぐに治っててもおかしくねぇだろな」


 バラナシオは少しだけ大きな声で呟いていた。それ以降、傷の治りが早いことに関して、これ以上二人が何かを言うことはなかった。ニッティは魚を食べ終えた私を再び寝具へと横たわらせ、布を整えていく。


 ヒトは自分たちと違うものを排斥しようとする生き物だ。肌の色、髪の色、話す言葉だけでなく食べるものや観点の違いだけで排除される。それなのにこの2人は私の紅い髪や浅黒い肌、そしてこの身体に何も言わずにその手を握りしめてくれる。彼らにとっては当たり前のことかもしれないが、その優しさが今の私にはとても辛いけれど、とても有難かった。


 まだ生きていてもいいのかもしれない。歩き続けていいのかもしれない。視界の隅で揺れる血濡れの男たちがぼやけて揺らめいていく。それが自分の目から流れていく涙によるものだと気づくまでに、そう時間はかからなかった。


「どどど、どどどうした!? どこか痛むのか⁉︎」


 違う、違うんだよ、バラナシオ。そう言いたくても涙は際限なく溢れてくる。出し切ったと思った海水が再び噴き出してきたようだ。例え一時的なものであっても、まるでハドの旋律を聴いたときのように、冷えきった心に熱が戻ってきたのだ。しゃくり上げる口から漏れるのは喘鳴だけだ。それでも、声を振り絞らなければ。微かに取り戻した体力を全て燃やし尽くす気概で空気を無理やり吸い込み、一気に吐き出す。

 

「……あ、あ、がと」


 どういうことか、口から出てきたのは感謝の言葉だった。掠れ切った声ではあったが、それを二人は聞き逃すことはなかった。すぐに彼らは私の手を握る。壊れそうなものを扱うように繊細に握るバラナシオと、喜びを隠さずに力強く握るニッティ。二人は共に満面の笑みを浮かべていた。


「喋れるようになってきたのか! これはいい!」


 心の底から嬉しそうなニッティの声に自然と口角が上がっていく。だがそれ以上に今の言葉で本当に体力を使い果たしてしまったようで、急速に眠気がやってきた。瞼が尋常ではないほどに重くなり、すぐに目を開けていられなくなっていった。


「おやすみ、アンタはここにいていいんだよ。ずっと、ずっとね」


 ニッティの呟きはどこか悲しげなものだったが、それがどう言う意味なのかを考えるより先に私の意識は深く深く沈んでいく。


 閉じた瞼の裏側にいつもいた筈の男たちは、姿を消していた。

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