イングリット・グラッツナーの特筆すべきことの無い日。
-GA暦119年2月15日
石造りの殺風景な部屋の中、すでにかなり高くまで昇った日差しが顔に差し掛かり、イングリットは目を醒ました。
黎明、微睡みの中で、どさりという音が聞こえた気がする。カーテンがまた壊れたのだろう。
日差しに照らされるは均整の取れた裸体。女としてはかなりの長身でもある。そしてベッドの上で渦を巻き乱れる金糸の如き長髪。
絵画にもなりそうな光景であるが、その裸身からはなぜか禍々しさを感じるのであった。
イングリットが正面を向くと、そこには寝ている彼女にのしかかるような男性の石像が見える。
その石像は昨晩、彼女の上で腰を振っていた男の顔をしていた。
「マサキ……と言ったかしら。いい夜だったわ」
彼女はその金の妖眼で石像の顔を見つめ、右手で頬を撫でる。
数時間前までは熱を持ち、柔らかかった身体。それはもはや冷たく、硬く、触れているイングリットの熱を奪っていくだけの存在。
「……さよなら」
彼女はその繊手を石像の胸から腰へと這わせると、右手一本で優に100kgを超えるであろうそれを持ち上げ、壁へと投げ捨てた。
轟音と共に砕け散る石像。石片が飛散し、粉塵が立ち込める。
イングリットはベッドから身を起こすと、裸身に粉塵がつくのも介さず部屋を横切った。
「カムロゥ、清掃を」
部屋を出たところで身長120cmほどの童女型石人形に、すれ違い様に声をかける。
カムロゥと呼ばれた石人形は、全身から石臼を挽くような音を立てて彼女に礼をした。
昨日、恋人たちの日。
イングリットがひっかけた、この町にやってきたばかりの新参者、彼女の危険性に気付かなかった男。極東の血が入っているのか、黒に近い髪色に特徴的な名前の痩せた男だったが、どうしてなかなかの当たりだった。
そんなことを思いつつ、風呂で残滓を洗い流す。
風呂から上がる頃には男の名前も思い出せなくなっていたが、気にすることはない。覚える意味がないのだ。
彼女の身体はどの男も見惚れる曲線を描き、肌理の細かさはどの女も嫉むもの。
……だがその身には毒がある。あらゆるものを石化させる毒が。彼女の裸身に触れて、生きていられた人間はいない。
イングリットは風呂を出ると、髪を、体を布で拭う。柔らかで吸水性の高いそれも体を拭き終わる頃には硬化しはじめ、彼女はそれを無造作に屑籠に捨てた。
裸身を晒したまま部屋に戻ると、砕けた男の石像は片付けられ、衣桁が部屋の中央に引き出されていた。
衣桁に打ち掛けられるは漆黒の留袖。
イングリットはまず同じ色のブーツを履き込むと、手を横に出す。カムロゥによりその上に恭しく襦袢が置かれ、彼女の裸身が布で覆われていく。次いで緋の小袖が手渡され、そして漆黒の留袖が手に取られた。
大魔術師、世界最高位の付与魔術師であるロビンソン夫人の手による着物。表地の裾には黒地に黒糸で波濤と亀の刺繍がなされ、裏地には毒を封じる魔法円が刺繍されている。
彼女が着ても唯一石化しない、真の一張羅。小国の国家予算に匹敵する程の衣装。
イングリットはそれを左前、死装束のように羽織ると、銀糸で織られた破邪の帯を腹の上に巻き付けていく。
長い金の髪を無造作に後頭部で束ね、封魔の術式の付与された複雑な文様の浮かぶ布で両眼を覆い、眼帯とする。
空気が、変わった。
今まであたりに立ち籠めていた禍々しい気配が鳴りを潜め、静謐とも言える雰囲気に塗り替えられる。
カムロゥがイングリットの唇に紅をのせ、最後に恭しく白鞘の装丁の刀を捧げ持った。
イングリットはその両眼が眼帯で覆われているにも関わらず迷わぬ動きで刀を掴むと、一言、
「出るわ」
とのみ口に乗せ、部屋を後にする。
かつて黄道12都市の1つであったヴァルゴ。今は遺都ヴァルゴと呼ばれる世界最大のダンジョンの1つである。
ヴァルゴの周囲には衛星都市が複数存在し、その目的は全てダンジョンの探索にある。広大な面積を誇るダンジョンへ各方向からアタックを仕掛けるのが目的だ。
今、彼女が滞在するのはヴァルゴ北部の町、ミューレベッカー。数ある衛星都市からこの町を選んで滞在している理由はただひとつ。
冒険者ギルドが最も腐っているからだ。
ダンジョンアタックが許可されているのは冒険者のみであり、それを管轄する組織が冒険者ギルド。
組織の補助無くして冒険者はその力を発揮できず、冒険者の活躍無くしてギルドは存続できない。そんな相互扶助、共存共栄が個人と組織の間に在るべきだが、ミューレベッカーのギルドは搾取の体制が強すぎる。
本来、それではギルドは回らない。真っ当な冒険者は他の町に移動するだけだからだ。
だがミューレベッカーでは犯罪を犯してギルド証を剥奪されたギルド員や、兵士崩れ、犯罪者、孤児、奴隷、数々の手段で員数を揃えて成果を上げさせている。
それで動いてきた町であった。
イングリットが確かな足取りで町を歩く。道の中央を。
そこには目が見えていないと思わせる素振りはない。
誰かにぶつかる心配もない。彼女が近づくと全ての人は道を開けるからだ。
ギルドの扉を潜ると、喧噪が耳を打ち、そして彼女を認めた順に静かになる。
彼女は併設の食堂に向かうと、混雑の中、なぜか不自然に空席のままであった四人掛けのテーブルについた。
暫くすると、ウェイトレスが震えながら朝食を持ってくる。
キルシュのジャムが塗られた丸パンと、ソーセージ、ザワークラウト、カットされたオレンジ、そしてコーヒー。
イングリットが黙々とそれを平らげていると、向かいの席に別の女が座る。彼女がここに来て2カ月、そこに人が座るのは初めてだった。
「あんたがシュヴァートかい?」
若い女の声だ。イングリットが20代後半なのに対し、その女はどうみても10代。旅装に身を包みフードを被っているが、そこから覗く顔も、整っているが未成熟なものを感じさせた。
「13竜騎兵が1、シュヴァート。“無明剣”イングリット・グラッツナーよ。
若きカッツェ」
「初対面なのに分かるのか?」
カッツェと呼ばれた女に警戒の色が籠もる。
「なぜ分からないと思う?
先代から継承されたであろうその足音、腰に下げる二丁拳銃の擦れる音。あなたがこの町に入ったときから聞こえている」
カッツェは降参と言うように両手を挙げて言った。
「失礼した。13竜騎兵が1、カッツェ。エレン・アーヴィンだ。
……ヴォルフがリヴァイアサンまでたどり着いた」
イングリットは眉をぴくりと動かした。
それは待ち望んでいた時であった。彼女の仲間たちが、ヴァルゴのダンジョンで目的を達したという事なのだから。
「シュヴァート、あんたの出番だ。あたしはあんたの手助けをするように……」
「不要」
イングリットはそう言い切ると、音も無く立ち上がる。
彼女がこの町にいる理由は1つ。目的が達せられた時、この町のギルドを壊滅させること。
リヴァイアサンをヴァルゴから持ち出すことを、気付かせないためのバックアップ要員である。
ふらりと身体が揺れたかと思うと踵を返す。
その左手には白鞘、右手には抜き身の刀。黒い留袖の上で機嫌良さそうに金の髪の尾が躍る。
……待て。
カッツェは激しく動揺する。
いつ抜いた?そもそもいつから刀を手にしていた?
隣の机に座っていた冒険者たちの上半身がズレて地面に落ちる。
背後の料理人が、ウェイトレスが喉から鮮血を噴き出しカウンターに崩れ落ちる。
カツカツとブーツの音を響かせてイングリットは隣の冒険者ギルドへと歩いていく。
カッツェの視界の中、ギルドでは虐殺が繰り広げられていた。誰1人として近づいたイングリットに斬られていると気付かず、彼女が離れた後に悲鳴を上げる間もなく絶命している。
ただ、どさり、どさりと人が倒れ内臓の溢れる音のみがする、静かな虐殺。
「“無明剣”……!」
カッツェはイングリットの事を師匠より聞き、その称号を単に魔眼を封じるため眼帯をしている故の、盲目の意と考えていた。
そして魔術師でも無い剣士に、その魔眼を使われない限りは銃使いである自分が負けるはずがないとも。
「とんだ化け物じゃねぇか……!」
無明とは無知であり、苦しみの根源を表す言葉である。彼女の剣こそが無明、不可知であるとカッツェは知った。
一般の人間やそこらの冒険者はおろか、13竜騎兵の一員となったカッツェにすらまるで見切ることの出来ないものであった。
GA暦119年2月15日、ミューレベッカーの冒険者ギルドは壊滅した。だが、その出来事はすぐに忘れられる事となる。
その数日後、リヴァイアサンによって遺都ヴァルゴの北部ごとミューレベッカーの町も消滅させられた為に。
-To be continued?