第3話 それぞれの通学路
_____時田安明、いつもの登校路
いつものように満員電車に揉まれ、同じ制服の集団に混じって改札を抜け出る。
この改札口から僕の高校まで、ひたすら真っ直ぐの一本道。
ただ前を歩き続けるだけのでいいはずなのに、朝のこの道はいつも足取りが重くなる。
だから、今、僕の足が重いのもいつものことだ。
だけど、今日はいつもより遥かに足を押さえつけられている気がする。
足が鉛のように重くて、全然前に進んでいる感じがしない。
まるでブラックホールの表面を歩いているみたいだ。
僕の心から湧いて出てきたどす黒い何かが、必死に僕の足を掴んで歩かせようとしない。
そのどす黒いものの正体、それは僕の感情だ。
不安と臆病と羞恥が混ざり合った、見るに堪えない醜い感情の塊だ。
そんな感情が湧いて出た原因ははっきりしている。
そう、昨日のあのゲーセンでの出来事だ。
水野さんとバッタリ鉢合ったあの時、僕にニコッと手を振ってくれた水野さんに対して、何を血迷ったか僕は返事も何もせずその場から逃げ出してしまった。
あぁ〜・・・僕は何をやってるんだ。
よりによって同じクラスの水野さんにあんな情けない姿を晒すだなんて。
今日の朝、彼女が教室に入った僕を見た時、一体なんて思うだろうか?
あ、噂をすれば時田くん来たよ(笑) また挨拶したら教室から逃げ出してくのかな(爆笑)
・・・いやいや水野さんはそんなこという人じゃない、明るくて優しいクラスの人気者だ。
僕には手の届かないような、周りを照らす光り輝いた存在。
きっと、水野さんは何も気にしてなんかないはず。
暗くて顔が見えなかったから私だと気付かなくてそのまま帰っちゃった、きっとこう考えてくれているはず。
・・・今思いついたけれど中々良いなこの理由。もし水野さんに何か聞かれたら今の言い訳で通そう。
・・・・・まあ聞いて来てくれたらの話だけど。
冷静に考えたら、僕に会っても昨日のことなんて何も無かったかのように、何の言葉もかけられないかもしれない可能性だってあるしな。
そもそも、水野さんと学校で会話したことなんて今までほとんど無かったじゃないか。
少し前、朝に下駄箱から上履きを取る時にたまたま会った時に向こうから挨拶をしてくれたことくらいだ。水野さんはあの時も笑顔に溢れた顔で明るく、「おはよっ!」って僕に声を投げかけてくれた。
そういえば、あの時には僕はちゃんと返事できていたな。
水野さんの挨拶の後、僕は「おはよう」としっかりと返せたはずだ。
いや、しっかりかと言うと少し怪しいな。実際は「ぉ、おはょ・・・」って感じだったかもしれない。
学校で誰かから声かけられることなんて皆無に等しかったから、思わず焦ってどもりにどもった声になってしまったんだった。
でも、返したことは返したんだ。
あの時はできたのに、なんで昨日の僕は何もできずに逃げ出してしまったんだろう。
そりゃ、状況が違いすぎるから一概には比べられない。
僕と水野さん以外の生徒も何人かいた昇降口の時と違って、あのゲーセンにいたのは僕と水野さん二人だけだった。
昇降口の時は水野さんの方にも一緒に登校して来た友達がいたから、それ以上の会話を続ける必要なくそのまま別れることができた。
でもあのゲーセンの場ではそうはいかなかった。あの場は挨拶だけじゃ済まないだろう。挨拶のその後のことを考えると、それ以上あの場にいるなんてことは僕には到底無理な話だ。
それに付け加えると、そもそもあんな場に水野さんがいること自体が全くの想定外で頭が混乱していたのだ。そんな状態でまともな行動なんてとれるはずがなかった。
今になって振り返って考えて見ると、やっぱりあの場は逃げて正解だったのかもしれない。
僕があのままあそこにいたところで、何も話すことができずに空気をさらに重くするだけだったろう。
そんな空気の重さに堪えられない僕は、最後はどっちにしろ同じように逃げ出していたはず。
それを考えると、状況が悪くなる前に逃げることができただけでもまだマシなのかもしれない。
これが普通の人だったら、そのまま水野さんの挨拶に気兼ねなく答えられて、ゲームの話とかでもして楽しく帰ることができるんだろう。
でも僕の場合はそうはいかない。楽しい会話を続けて明るい雰囲気を保つなんて技は残念ながら身につけてはいない。
小学生の頃は友達と笑いながらおしゃべりをしていたはずなのに、いつの間にかその技術は喪われてしまったようだ。今の僕は水野さんみたいな人にはなれない。
水野さんは優しい人だから、そんな僕相手にも面白い話や好きなゲームの話とかでもして盛り上げてくれるだろう。
じゃあ、僕はそれに一体どういう返し方ができるのか?
十中八九何も言えずに、口が開かずに、ただ水野さんの話を俯いて聞いているだけだ。
だから僕は言うのだ。最終的に空気を重くして終わるくらいなら、さっさとその場を去るのが正解、と。
それなら水野さんに迷惑をかけることもないし、僕だって辛い思いをせずに済む。
だから、あれでよかったんだ。
そう、あれでいいんだ・・・・・
昨日の出来事に対し、なんとかそれらしい理由を見つけることができた僕は、自分の足にかかっている重さを幾分か和らげることができた。
「あの場の空気を悪くしないためには、逃げるしかなかった」という理由。
しかしその理由を認めることは、僕が人との会話すらろくにできない人間ということを認めることをも意味する。
その酷く捻じ曲がった矛盾は、僕の心に新たにのしかかる。
まるで、消えた足の重みと釣り合いをとるかのようにして・・・
そんな晴れない心を内に秘めて、僕は”いつもの”この道を歩いていった。
_____真岡高校、教室
長かった登校路を渡りきり、僕は自分のクラスの前にたどり着いた。
廊下と教室を分かつドアに手をかける際、普段とは打って変わった緊張が全身を駆け巡る。
このドアの先に彼女はいるだろうか。
いたとしたら、僕を見てどんな反応を示すのだろう。
笑いながら昨日の僕の行動を尋ねてくるのか。
あるいは、笑うは笑うけれど、一つ前のとは全く違う意味の笑みを浮かべて終わりなのか。
それとも、そもそもなんの反応も示さないのか。
色々な映像が僕の脳内に浮かび上がる。
それぞれの映像は全く違う様子だけど、全てに存在する共通点が一つあった。
どれも僕にとっては嫌だということだ。
ドアに掛けられた僕の右手に汗が滲む。
できることならずっとこのまま教室に入らずにいたい。けど、当然そうはいかない。僕はこのドアを開けるしかないんだ。
それに、どんな結末になろうと、それは元は僕が呼び寄せたものなんだ。僕が受け入れなければならない。
そうだ。ここで考えていても仕方がない。
僕は意を決した。
ドアを横に動かすにはあまりに過剰なほどに、右手に力を入れて、僕を教室から別け出していた壁を取り払った。
目の前にいつもの教室が現れた。
友達と群れて喋っている生徒、机に突っ伏して寝ている生徒、座りながら携帯をいじっている生徒・・・・教室は色とりどりの生徒たちで埋め尽くされていた。
そんな生徒たちをよそ目にして、僕の目が一目散に向かう先は、“彼女”のいるあの机だった。
廊下側の壁際の列の、真ん中の机。
そこが水野さんの机の位置だった。
揺れ動く心臓を触れずに抑え、唾を飲み込みながらその場所に目を投げかける。
その目線の先に映ったものは______
誰も座ってない椅子と何も置かれてない机だった。
僕はしばし呆然とした。
数秒後、体の硬直を取り払うように教室中を見回した。
しかし教室のどこを探しても水野さんは見つけられなかった。
水野さんの反応だけに心を悩ませていた僕は、そこに彼女がいるという前提を一瞬で壊されることで思考の場を失い、ただただ拍子抜けするだけだった。
水野さんがいないと分かった僕は、そのまま静かに僕の席へと向かっていった。
彼女がいないことで安心しているのか。
あるいは全く逆の感情なのか。
今、自分の心を支配しているのはどっちなのか、自分でも分からなかった。
そんなことに可笑しさを感じながら、僕は席に座った。
水野さんの席にもう一度目を向けてみたが、相変わらずそこには誰もいなかった。
_____水野ヒカリ、駅の改札口
ピッ
飛ぶようにして改札を抜け出した少女の表情は、希望と絶望の間で揺れ動くなんとも言い難いものであった。
顔に滴らせた汗をふるい落すように少女は道を真っ直ぐに走り続ける。
道路が一点に集まる遥か向こう側には、真岡高校がかすかに小さく映る。
そこが少女の目指さんとする場所であった。
「今の時間は・・・8時30分!! ホームルーム始まるまであと・・・10分!」
駅から学校まで普段かかる時間が30分であることを考えると、全力で走ったとしても際どい時間だ。
途中で信号に一つでも引っかかれば遅刻回避は危ういものとなる。
真岡高校に転校してから1ヶ月、遅刻すれすれの登校を重ねながらもなんとか遅刻認定は回避し続けてきた僕だったが、ついに初黒星をつけてしまうことになるのか。
いや、それは嫌だな。
せっかく保ち続けてきた無遅刻無欠席を、こんなあっさりと崩してしまうのは癪に触る。
成績表に箔を付けたいからとかじゃなくて、僕の気分的にそれは認めたくないのだ。
体は女になったけど、心は男のままだ。
僕の生来の負けず嫌いな性質がこんなところで諦めるなと全身を叱咤してくる。
考えろ、きっと何かあるはずだ、遅刻を回避するための方法が何か・・・
タクシーを使う。
・・・確実に遅刻は回避できるけど金がかかりすぎる。当分ゲーセン通いはお預けになってしまう、却下。
レンタルサイクルを使う。
これならコストも大してかからない上に走るよりも早く学校に着ける。しかしそんなものはここら辺にはない、却下。
ヒッチハイク。「真岡高校までお願いしまーす!(親指を立てながら)」
これならタクシー並みの速さを確保できる上にコストも一切かからない。まあ車を捕まえられないとなんの意味もないけど。
・・・今の僕は一応女だしJKパワーを使えば捕まえられないこともないのか・・・?
いやでもどうなんだろ、止まってくれるのかな?
もし僕がドライバーの注意を引けるくらいの美少女ならすぐに1台捕まえられるだろうけど、僕って実際のとこかわいいのかな?
・・・いや鏡見る限りブスってことはないとは思うけど、元男っていう強烈なバイアスがかかってるせいで可愛いと言い切ることは僕にはできない。友達はかわいいとは言ってくれるけど女子の言う「かわいい」ほどアテにならないものもないし・・・
客観的に見て、もし僕がそこまでかわいくないとしたらヒッチハイクは成功しない。
そしてもし客観的にかわいいとしても、女子高生一人で車内に乗り込むということを考えると今度は高校を通り過ぎてそのまま拉致監禁コースなんて事態もあり得る。
うん、色々な意味で危険だなヒッチハイク作戦は。これも却下。
となるともう手のう打ちようが・・・・・
いや!
ある考えが僕の脳みそを震わした。
いける! この方法なら遅刻を回避できるかもしれない!
ニヤッと口を開いて不敵な笑みが浮かぶ。
僕は暗闇の向こうに光り始めた小さな希望に賭けて、朝日に照らされる登校路に爽やかな汗を撒き散らしつつ、全力で学校を目指し駆け抜けていった。