1-2
白い空間が突然、暗闇に閉ざされた。
本当の目覚めが近い事が分かる。このまま本当の瞼を開ければ目が覚めるのだろう。
ゆっくりと瞼を開けると、暗い視界の中に太い梁が通った木組みの天井が見えた。
右側に顔と瞳を向けると、そこにはこぢんまりとした出窓があり、外はかなり暗くなっていた。出窓には花瓶が置いてあり、見た事のない花が飾ってあった。いや、憶えていないだけで、どこにでも咲いている花なのかも知れない。
体の節々に違和感を感じながら起き上がると、体に掛っていたシーツが上半身から落ちる。白い素朴なワンピース型のパジャマを着ていた。
どうやらベッドで眠っていたようだ。ミズキが吹っ飛ばされたとか言っていたので、てっきり床か地面にでも倒れているものだと思っていた。
寝ぼけ眼で周りを見回すと、そこは聖霊石が明かりを灯した皿ランプが乗った小さな丸いテーブルと、華奢そうな椅子が一脚だけ置かれた飾り気のない部屋だった。出入り口らしいドアが隅にあるけれど、今は閉まっている。
一瞬、自分の部屋なのではと思った。しかし、ミズキが言った事が本当なら分かるはずもないと思い直す。
ゆっくりと足をずらしながらベッドの端まで移動して腰掛ける。枕側の床に靴が置いてあるのが分かった。自分で脱いでベッドに入るなら足下側にあるのが自然なのではと思う。
取り敢えず自分の靴なのか履いてみようと木床に足を下ろすけれど、足の感覚がおかしいのか何となく感触に違和感があった。
立ち上がろうとしても足が思った通りに動いてくれない。ぐっと力を入れてなんとか立ち上がるけれど、ふわっと意識が遠くなる感じがして慌ててテーブルに寄り掛かる。しかし、小さなテーブルが耐えられるはずもなく、抗議の音を立てながら動いてしまう。危ないと思いながらも、なんとかベッドに座り直す事に成功した。
静かだった部屋にズズズッとテーブルのずれ動く音が思いの外大きく響いた。
その音が聞こえたのだろうか。ドアの向こう側から小さな足音が近づいて来たかと思うと、勢いよくドアが開かれた。
「良かった、起きたのね」
元気な声を発しながら入ってきたのは、わたしと変わらない十二、三歳くらいの少女だった。
頭に一本の小さな角が生えているのでトゥルク王国の人なのだと分かる。
確かに知識は残っているようなので少し安心した。
自分も角の数と形を調べれば出身地くらいは判るかもと思いついて両手で頭を触ってみるけれど、いくら触っても角に当たる感触は無かった。
どうして、と不安になるけれど、やはり判るはずも無かった。
「どうしたの、頭が痛いの?」
少女が心配しながら寄ってくる。
「いえ、大丈夫です。少しふらついてしまっただけ」
「ほんとに? 無理しないでね。ほら、ベッドに横になって」
少女に支えられながらベッドに戻ると、不思議と安心感があってほっとした。
「あなたは村はずれの麦畑の中に倒れてたのだけど、体は大丈夫? 痛いところとかない?」
椅子に腰掛けながら少女は言う。
「はい、節々に違和感はありますけれど、痛いところはありません。あの、何日か眠っていたのですか?」
「わたしが見付けてから半日くらい寝てたかな。ぱっとみ傷とかなかったから取り敢えずウチのベッドに寝かせたんだけど、何か倒れちゃうような病気なの?」
「たぶん違うと思います」
違って欲しいと思いながら曖昧に答える。たとえ持病があったとしても憶えていないのだから仕方がない。
「なら良いのだけれど、まだ無理に起き上がったりしない方が良いと思うわ。あ、お腹すいてない。消化に良いスープを作ったから持ってきてあげる」
少女は返事を待つ事なく飛び出す勢いで部屋を出て行く。騒がしいというか、忙しないというか。
「はい、お待たせ」
ぜんぜん待っていなかった。お腹がすいたか考える時間さえなかった。
テーブルに置かれたトレーには、湯気の立った具の少ないクリームスープと、スライスされたパンが数きれ、そして水らしきものが入ったコップが乗っていた。全て木製の器に盛り付けてあった。それを見た途端にお腹が騒ぎ出して音を立てる。
お腹の音が鳴ってしまった事に赤面してしまったけれど、少女は気にした様子もなく上半身を起こすのを手伝ってくれた。
「自分で食べられる? 無理そうならわたしが手伝ってあげようか」
少女は言いながらも、わたしが食べやすいようにテーブルの足がベッドの下に入るくらい近づけてくれた。
「いえ、大丈夫です。自分で食べられます」
実際に体に不調はなかった。さっきのはちょっと目眩がしただけだ。今では節々にあった違和感も感じられない。
「そう、スープ熱いから気をつけてね。パンは食べられないようなら残しても良いから、スープだけでも飲んで。何も食べないのは返って体に悪いからね」
「ありがとう」
少女は、いえいえなどと言いながら、わたしが食べるのをじっと見ている。なんだか気恥ずかしいけれど、空腹には勝てなかった。
木製の大きなスプーンにスープを移し、冷ましながら口へと運ぶ。
それはとても美味しかった。様々な具材の味がスープに溶け込んでいるからだろうか。とても優しく、とても安心する味だった。
一口飲んだら我慢ができなくなった。行儀も忘れてガツガツと食べ尽くしてしまう。我ながら見苦しいと思ったけれど止められなかった。
それを見ていた少女は微笑みに困った表情を混ぜながら言う。
「ごめんね。もっと食べたいだろうけれど、起き抜けはあまり食べさせちゃいけないっておばあさんに言われているの。その代わりに回数を増やすから、量が少ないのは我慢してね」
確かに量は少なく感じたけれど、十分に空腹を満たせてくれた。
「自己紹介がまだだったわね。わたしはティア。あなたは?」
ティアと名のった少女は、わたしの名前を聞くのを楽しそうに待っていた。
しかし、その期待には応えられそうにない。いくら考えても自分の名前が浮かんでくる事はなかった。
「あの、憶えてなくて……」
なんだか自分の名前が思い出せない事よりも、ティアの期待に応えられない事の方が申し訳なく思ってしまう。
「憶えてないって名前を?」
「はい。名前だけではなくて、自分の事を全然憶えていなくて」
わたしが正直に言うと、ティアは驚いた顔をした後、すぐに真顔になる。
「そんな事って……。よし、分かったわ。あなたが何者なのか思い出すまでウチにいなさい。ウチはわたし一人だけだから気兼ねしなくて良いわよ」
「そんな、助けてもらっただけでも十分ご迷惑をかけているのに、これ以上はわるいです」
反射的に断ってしまってから、漠然とした不安が押し寄せてくる。
ティアはそんな様子から何かを察したのか、言い聞かせるように話す。
「あなた、わたしよりちょっと下くらいの年齢に見えるのにしっかりしてるのね。でもね、困ってるならそれを助けさせない方がわるい事なのよ。ここであなたを追い出してご覧なさい。罪悪感で後悔のしっぱなしになるわ」
「そうでしょうか……」
そういうものだろうか。厄介者を追い出せて清々する人の方が多いのではと思う。
しかし、実際ここを追い出されたら路頭に迷うのは間違いないのだ。何の寄る辺もない子供がひとりで生きていけるのか。少し考えただけで悲惨な結果が待っているのが予想できた。だったらお世話になっておいた方が良いにきまっている。
でも、わたしの中には、もうひとりの人格がいるらしい。消えてから話しかけては来ないけれど、近くにいる気配は感じている。いつ出てくるか分からないうえに、自分を魔王だと自称する危険人物と一緒に居させるわけにはいかない。
「ごめんなさい。事情があって無理です」
やはり黙って世話になるわけにはいかない。それこそ罪悪感を憶えてしまうだろう。
「どうして。何か憶えている事があるのね。良ければ話してみない。わたしは余程の事情でなければ受け入れるわよ」
聞くまでは諦めないかのような気迫でティアは迫ってくる。
これは何か言わなければ納得しないだろう。
しかし、誤魔化せる話ができるとは思えないし、そんな適当な事をしたら、助けて介抱してくれたティアにたいして不誠実になるのではないだろうか。
だとしたら本当の事を言わなければならないけれど、このばかげた話を信じてもらえるとも思えない。
まごまごとしていたら、ティアが代案をだしてきた。
「分かったわ。だったら代わりにわたしの秘密を教えてあげる。それを信じたら事情とやらを教えてね」
どうしてそうなるのだろう。秘密にも色々とあって、果たして釣り合う水準の話なのだろうか。
「最初に約束よ。わたしはあなたに嘘は言わないし、あなたはわたしに嘘を吐かない。どう、約束できそう?」
捲し立てる様子に思わず頷いてしまう。元々嘘を吐くつもりはないので問題ないのだけれど。
「わたしはね、何を隠そうトゥルクのお姫様なの」
思わず唖然としながらティアを見直す。着ている服は仕立ては悪く成さそうだけれど古びていて、修復跡が目立っているので特別褒める出来にも見えない。右手の袖から鈍く色あせた銀色の腕輪が覗いているけれど、特別高価なものとも思えない。出で立ちからはお姫様はともかくお嬢様にすら見えない。
顔は整っており、可愛いと言うよりききれいな顔立ちだとは思うけれど、別に顔でお姫様になるわけではないから判断材料にならない。
なんだろうか、これではわたしが魔王だと言っても冗談にしかならないような気がする。
「理由は知らないのだけれど、もっと小さな時に、この家に捨てられたの。嘘だと思うなら村長さんに聞くといいわ。ただ、村長さんとその奥さん以外の人は知らないから、言いふらさないでね」
たぶん嘘なのだろう。わたしが話しやすいように、それと分かる嘘を吐いているに違いない。
ここまで気遣ってもらってしまっては、包み隠さず話すしかないだろう。
「分かりました。わたしも本当の事を話します。……笑わないでくださいね」
咳払いをひとつして覚悟を決める。
「実はわたしの中には、もうひとりわたし以外の人格が存在します。その人の言うには自分は魔王で、勇者に負けてわたしの中に入り込んだそうです。その影響で記憶がなくなったのだそうです」
ティアは肩眉を寄せて話を吟味していた。本当の事を言っているのか、それともティアが言った話に合わせて誤魔化されているのか考えているのだろう。
「いつ魔王の人格が出てきて危害を加えるか分かりませんので、お世話になるわけにはいきません」
ティアはあごに手を当てて考える素振りを見せると、とんでもない事を言いだした。
「その魔王と話をしたいのだけれど、できる?」
「えっ……あっ、か、確認しないと分かりません」
「じゃあ、確認してみて」
「……はい」
あまり気乗りはしないけれど、心の中でミズキに話しかけてみる。
『ミズキ、いますか。……ミズキ?』
やっぱりミズキなんて存在しないのではと疑心に駆られ始めた時に、寝起きのような気だるげな声が返ってくる。
『……なんの用だ』
本当にいたと少し落胆しながら話を続ける。
『先ほどまでの話は聞いていましたか?』
『いや、眠りについていたので知らんが。それより、このガキは誰だ』
『失礼ですね、あなた。ティアさんはあなたに倒されたわたしを助けてくれた恩人です』
『お前、俺の事を話したのか? 正気か?』
『本当に失礼ですね。これだけの面倒をかけた方に嘘は言えませんよ。それに、これからも面倒を見てくれると仰るほど良い方です』
『どうだかな。俺の事を知って利用しようとしているだけかもしれん。まあ、いい。それで何用で俺を呼んだ』
『実はわたしの中にはあなたがいるから危険だと言ったら、ティアさんがあなたと話したいと仰って。危険性を説いてくれませんか』
『なぜだ。このまま世話になれば良かろう。外は家も金もないバカ正直なお前が生きていけるほど優しい世界ではないぞ』
『いいんです。ティアさんが真実を知っても受け入れてくれるならお世話になりますが、少しでも忌避感があるなら出て行くべきです』
『……いいか、お前が死ぬ日は俺の、お前たちが呼ぶ魔王の復活の日になる。何十万人もの人々を殺した魔王がだ。いいな、それを忘れるな。では、体を明け渡すが良い』
体を明け渡せと言われても、一体どうしたら良いか分からない。気絶でもすれば良いのだろうか。
テーブルの角に頭をぶつける事を躊躇していると、呆れたようにミズキが教えてくれた。
『たぶんだが、気絶しても良いし、寝ても大丈夫だと思う。だが一番簡単なのはお前が俺に体を預けると強く願う事だろうな。試してみなければ断言できんが、おそらく出来るだろう』
あまりに簡単に言うから驚きはなかったけれど、よく考えてみると聞き捨てならない事を言ったのではないだろうか。
『それが可能なら、いつでも体を支配できるのでは?』
『一時的なら可能だろうが、永続的には無理だな。お前が拒めば俺にはどうする事も出来ん』
『本当でしょうか……』
訝しく思うけれど、嘘を付く必要のない事だと思いつく。嘘なら今ごろ体はミズキに支配されているだろうから。
「ティアさん、お待たせしました。ミズキと変われそうなので、もう少し待ってください。……んっ……」
意識が沈んで行く感覚と同時に、何かが浮かび上がってくる感覚があった。
胸を締め付けられる息苦しさにも似た感触が過ぎると、何の感触も無い虚無な感覚が訪れた。
「ああ、自分の体ではないというのは違和感が凄いものだな」
ミズキは腕をぐるぐると回しながら、自分と同じ不満を言う。少し声が低くなっているように感じるのは気のせいだろうか。
ティアはそんなミズキを懐疑的に見ながら問いかけた。
「あなたが魔王?」
「お前たちはそう呼ぶな。正確にはミズキだ。生憎と貧民の出なので姓はない。ハメーンリンナで首相をしていた。勇者の野郎にやられるまではな」
ミズキは憎々しげに吐き出した。
「親切にどうも。わたしはティア=レイステラ。まだ登録されているならトゥルク王の娘です」
ミズキはじっと見定めるようにティアを見つめると、一拍おいて口を開いた。
「……俺が魔王だと信じるのか?」
「信じますよ。疑う理由がありませんし、わたしはわたしを信じますから。それよりも、あなたはわたしを信じるんですか?」
「信じるさ。疑う理由がないし、嘘だったとしても実害がないからな」
ティアは僅かに微笑むと、納得したように頷く。
「なるほどね。確かに別人格のようだわ。それで話ですが、その子から出て行ってくれませんか」
「それは無理だ。魂が完全に融合している。俺が死ぬ時は、この小娘の死ぬ時だ」
「あなた……ミズキと呼びますね、ミズキはこの子に何をさせるつもりですか」
「なにも。勝手に体を乗っ取るほど外道ではないのだ。好きに生きて、好きに死んでくれればよい。死んだ後は勝手にさせてもらうがな」
「なるほど。裏の人格でいる時はどの様な状態なのです」
ミズキは腕を組んで答える。なんか偉そうだ。
「簡単に言えば眠っているようなものだな。主人格からの呼びかけがなければ表には出てこられない」
「この子が眠っている時は?」
「やってみたが無理だったな。完全に意識を失っているなら出来るかもしれん。どちらも詳しく試したわけではないから絶対とはいえないが」
「この子に寄生しているだけで何も出来ないのね。では、今後は出てこないでもらえます。わたしはこの子を妹にします。家族としてのお願いです」
「勝手な事を言うのだな。今だってお前が呼ばなければ俺は出しゃばるつもりはなかったんだぜ」
「それは家族として必要な確認事項です。今後出てこなければ、それで良いです」
「ああ、約束しよう。俺から出てくる事はない。この小娘が望まぬかぎりな」
「ではもう会う事もないでしょう。さようなら」
もう話す事はないと別れの挨拶で拒絶する。
その一方的な切り上げ方にミズキとしては面白くはなかったが、不愉快でもなかった。
「……ふん。そう願おう」
深い水の中から浮かび上がる様な感覚。息が胸に詰まり、一気に吐き出される感覚がきた。
「ごほ、ごほ」
僅かな唾が気道に詰まり、思わずむせてしまう。ティアが背中をさすってくれたけれど、それ程酷いわけでもないのですぐに落ち着いた。
「それでどうなりましたか。わたしの中に魔王がいると分りましたか?」
「ええ、わかったわ。あんな演技が出来るほど器用そうにはみえないもの。あなたの中にはもう一人の人格がいる」
「そうですよね……」
他の人から見ても魔王がいる事が分ってしまったのが少し辛かった。何よりもここを出て行かなくてはならない事が悲しかった。
「すみませんが、今夜は泊めていただけませんか。明日の朝には出て行きますので」
今すぐ出て行けと言われても仕方ないなと思いながら言うと、ティアから予想もしない言葉が返ってきた。
「わたし決めたの。今からあなたはわたしの家族よ。出ていくなんてとんでもないわ。いい? あなたはずっとわたしと居るの。否定や拒否は受付けないからね」
出ていく事ばかりを考えていたから、ティアの言葉が素直に入ってこない。
わたしとティアが家族? ずっと一緒に居る?
「あの、本当に……、いいのでしょうか」
「良いに決まってるでしょ。それでも出ていくって言うなら鎖で縛り付けるからね」
信じられない。安堵のあまり涙と言葉がこぼれ落ちた。
「ご迷惑お掛けしますが、お世話になります。よろしく、ぐすっ、お願いします」
ティアは頬を流れ落ちる涙を拭ってくれながら、屈託のない笑顔で話してくれる。
「うん、今日からよろしくね。それにしても堅いわね。自分の事を憶えてないから? 不安だから? それとも、もともとお堅い性格なのかな。わたしには何も遠慮しなくて良いのよ。今日からあなたのお姉さんなんだから。甘えてくれて良いのよ」
お姉さんと聞いても違和感を憶えない。もしかすると、自分には姉妹がいたのかも知れない。
「ではティア姉ですね」
「やっ、ちょっと自分で言っといてなんだけど照れるわ。でも、いい。なんかいいわ」
赤くなりながら、うねうねと身もだえていたが、どうやら呼び方は気に入ったようだ。
「そうだ、あなたの名前、リータでどう? 由来は忘れたけれど、わたしが知っている名前の中で一番好きな名前なんだけど」
「リータ……。分りました。今日からわたしはリータです。ティア姉」
不思議と違和感を抱かない。まるで最初から自分の名前だったかのように、心に刻み込まれたのだった。