表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
賛歌  作者: ゴートT
1/1

昭和二十年・三月八日・午後

 昭和二十年・三月八日・午後   

          一

「柿崎が見たら文句言うだろうが、仕方ない」

 地面に目を落とすと、父さんは言った。

 家の防空壕にまた寝布団が投げ込まれたのだ。

空襲は絶え間なかった。

一平の家は、隅田川から引かれた掘割に面していて、壕は護岸をくり抜いて作られていた。高さは一メートル半位で、幅も両手を伸ばせば届く程度だったが、長さは十メートルほどあった。壕の中は安全と思われたのか、近所の人達から色々な物が放り込まれ、保管庫の様相を呈するようになった。空襲で壕の中の物に火がついたら、周りの家々にも燃え移ると、以前柿崎が父さんに食ってかかったことがあった。

「さっき、柿崎さんもリヤカーで来て、布団を濠に入れてたよ。僕の顔を見ると、慌ててた。何にも言わないで行っちゃったよ」

一平は壕が誇らしくて、胸を張って、柿崎さんの行動を父さんに伝えた。

話を聞くと、父さんは意外そうな顔をしたあと笑った。皺が顔一杯に広がって猿みたいになった。

「壕に火がついて燃えても、水辺だから火が岸まで上がって家に燃え移ることなんかねえ。墨田の水が消す」

父さんは目の前の掘割に浮かぶ筏を見ながら言った。

一平の家族は東京の深川区門前仲町に住んでいた。柿崎さんは少し離れてはいたが同じ町内で、戦時下で防空訓練、町内の見廻り、配給制度の推進など、治安維持のための活動を行う、隣組の仲間だった。一平達の隣組には八世帯が属していた。

組長は柿崎さんで、防空訓練の指導員は佐々木憲兵さんだった。佐々木憲兵さんは、一平達の住む門前仲町の西を縦に流れる隅田川に面する佐賀町に住んでいた。門前仲町管内に軍隊経験のある適当な指導員がいないため、二年ほど前から隣組の訓練指導をしている。元憲兵との噂から「佐々木憲兵さん」と皆から呼ばれていた。とにかく怖くて、いつも何かを見つけては怒り、怒鳴っていた。

 「今日の訓練にも、佐々木憲兵さん来るかな?」

 「何?」

猿の顔から戻って父さんは言った。

 「はっきりと、大きな声で、な」

 ひと月ほど前の訓練で、佐々木憲兵さんに

声が小さいと叱られ、殴られた。

 「一平は長男なんだから、しっかりな」

嫡子であり、日本国の子でもある、矢崎

一平は数えで一一歳。昭和二〇年三月八日は晴天なり敵からすれば空襲日和、ということで、早朝から家の前に設えた壕に、近隣の人達から色々なものが投げ込まれていた。

 「今日は怒られたくないよ。佐々木憲兵さんだって、僕の家に預かってもらってるんだ」

 「佐々木さんだろ。憲兵さん、は余計だ」

父さんは一平の顔を覗き込むようにして、低い声を出し、念を押した。

 一平は頷いて顔を上げた。父さんの肩越しに、大きな風呂敷包みを抱えた女性が近づいてくるのが見えた。

 「矢崎さん」

 父さんが振り返ると、女性は風呂敷包みを抱えたまま、父さんを拝む仕草を見せた。

 「頼みます」

 「はい」

 あっさり父さんは言うと、女性から風呂敷包みを受け取った。女性は父さんにお辞儀をし、そそくさと踵を返す。

 「一平、ほらよ」

風呂敷包みは、ずしりと腕に重たかった。

 「餅だよ」

 「餅?」

 「餅だ」

 「どこから?」

 「あの人の旦那さんが、お偉いさんと友達なんだよ」

 「なんで餅って知ってるの?見たの?」

 「ああ、見た。前預かった時な。重くて少し柔らかかった。前の時と同じだ」

 中身が分かると風呂敷包みが段々重く感じられ、一平は餅を胸に押し抱いた。

 「少し貰えないかな?」

 「頼んでみるか」

 「うん。絶対だよ」

 「ああ、わかった。前にも預かったしな」

 「餅ってどんな味だったかな?」

 「米がたくさん詰まってる味だ」

 「詰まってる?」

 一平は、風呂敷包みに鼻をあてて嗅いだ。

 微かに飯の匂いがした。

父さんは一平の胸から風呂敷包みを取ると、ゆっくりとした足取りで壕に入って行った。

 一平は口の中にあふれた唾を呑みこむ。

 サイレンが大きく耳を突いた。

防空訓練の知らせだ。

 「父さん、ぼく先に行くよ」

壕の中にいる父さんに声をかけると、一平は家の戸口に駆け寄り、地面に置かれたバケツを掴んだ。

 壕に向かって直立不動の姿勢を取ると、敬礼する。

 「一平、行くの?」

 家の中から母さんが呼んだ。

 「遅れると怒られるから」

 布巾で手を拭いながら母さんが家から出て来た時、一平はもう駆け出していた。

 母さんは何か言いたそうに口を動かしたが、何も言わずに少し首をすくめるようにして家の中に戻って行った。

 「兄ちゃん、行った?」

 一平より四つ年下の弟の健二が、甘えるような声を出した。

 「遅れちゃいけないって、大慌てよ」

 母さんは金盥の芋を洗いながら呟く。

 「憲兵さんがそんなに怖いのかな」

 健二が言った。

 芋を洗う手をとめると、母さんは建二をじっと見た。

 「憲兵さんはあだ名よ。佐々木さんは本当は憲兵さんじゃないのよ」

 「え、本当?でも、みんな佐々木さんのこと、憲兵さんって呼んでるよ」

 父さんが家の中に入ってきて、腕をめくって手を洗い始めた。

 「あんまり言うなよ。佐々木も悪い人間じゃない」

 母さんは父さんを見ると、少し拗ねた顔をして言った。

 「だって、あの人、嘘つきでしょ。憲兵でもないのに、憲兵だなんて」

 二人のやり取りを建二が黙って見つめているのに父さんは気付き、母さんに向かって右手を上げて左右に何回か振った。

 「そんな話は止めだ」

 母さんは少しふくれっ面をして、金盥の中の芋洗いに戻った。

 「壕の一部が崩れかかっててね。直さないとならない」

 「うちだけじゃなくて、他の人達のものも預かるからよ」

 母さんは芋を洗う手を休めずに言う。

 「好きでやってるわけじゃない。仕方ないだろ」

 父さんが珍しくむきになって、大きな声を出した。

 「喧嘩だ。喧嘩だ。喧嘩は犬も食べません。猫も食べません。喧嘩だ、喧嘩だ」

健二が、はしゃぐように言った。

「こら、親に向かってなんだ」

父さんが一喝すると、健二は母さんの腰にしがみついて、父さんを睨みつける。

「全く、仕方ないな」

父さんは健二から目を離すと、壕の修復に戻っていった。

「ねぇ、お母さん。佐々木憲兵さんって嘘つきなの?あのさ」

「もういいから。外で父さんの手伝いして」

「はーい」

さっきのふくれっ面はどこ吹く風か、健二は顔一面に笑みを浮かべて、勢いよく飛び出していった。

あれは、年の瀬だったか、正月前に米と少しだが砂糖の特別配給があった翌日だったと憶えている。外から郵便配達員の呼ぶ声がして、和江は外に出た。手紙は隣町の木場に嫁いだ姉からで、一平と同い年の長男が高熱を出して寝込んでいるので、その下の女の子を長男が回復するまで預かってほしい、という内容がしたためられていた。 

女の子は男の子と比べると色々手伝ってくれるかな、と和江は考えながら手紙から目を上げた時、向かいの掘割の前に佐々木が立っていて、和江を見ているのに気が付いた。

佐々木は手に真四角の箱を抱えていた。

 和江は薄気味悪い感じがした。軽く会釈し踵を返し、家に入りかけた時、佐々木が小走りに駆け寄って来る音がしたので、和江は振り振り向いた。

「これを預かってほしい。壕の中で、一番火と煙が来ないところに置いてくれ」

和江が言い返す間もなく、佐々木は和江の目の前に箱を差しだし、頭を下げた。

女の腕には堪える重たさだった。

終わったら取りに行く、その時礼もする、と佐々木は言っていた、

「終わったら・・・戦争が終わったら・・・」

和江は空を見上げた。空は青く雲ひとつない。目をつぶると、一平が参加する防空訓練の掛け声が、遠くに聞こえる。

 「和江さん、芋洗えた?」

 小柄な姑が音を立てず和江の隣に立っていた。

 「びっくりした。お母さん、すっと来るの、やめてくださいよ」

 「あはは」

 天真爛漫な笑顔を姑の幸は見せた。

 幸は穀物問屋の一人娘で、不自由無く育った明るさと、世間知らずな無遠慮さがあった。

 「毎日、毎日、お芋ばっかりじゃ、あたし達はいいけれど、子供達は参っちゃうよね。配給なんてね。軍は米を貯めこんでるのよ、戦地へ送る分も大事だけど」

 「お母さん。大きな声で。誰かに聞かれたら、大変ですよ」

 和江に咎められても、幸はどこ吹く風で目を逸らした。

 「こんな婆さん、どうにでもするがいいわ」

 幸が更に大きな声を出した。

 和江は大きくため息をついた。またいつの間にか、幸が背後に立っている。

 和江は無言で幸を睨みつける。

 幸は大袈裟に右手を口にあてて笑うような仕草をした。和江は相手にせず芋の皮を剥きはじめる。

 「おーい。幸」

 舅の俊蔵の呼ぶ声がして、和江が振り返ると、幸は既に台所の隣の四畳の寝室の襖を開けていた。

 三年前、俊蔵は中風で倒れ、食事、着替え、排泄等一切の介護を幸がしていた。幸は頑なに一人で俊蔵を介護し、家族でも幸以外の人間には俊蔵を触れさせなかった。小柄な幸に比べ、俊蔵は大男である。夫の成男が言っていた。

 「子供の時、おとっつぁんの歩く少し後をおっかさんが付いて行って、その後を俺と弟がな、付いていく。おっかさんの姿がな、大きな岩・・・おとっつぁんに止まった蝶みたいでな。いつも白い割烹着てたからな。ひらひらとな」

 夫から聞いた時、和江は幸に少し嫉妬したのを思い出した。

 幸達の寝室から笑い声があがった。

 「今日はいっぱい出たね。きのう出なかったからね」

 「冷たい手で尻さわるから、漏らしたんだ。やめてくれよ」

 幸がおむつを換えようとして、舅に悪戯しているらしい。

 幸と舅の笑い声が響く。

 幸の笑い声が、わざとらしく聞こえた。

 和江は急に一人ぼっちになった気がして大きく溜め息をつくと、洗い終わった芋を笊にあげ、蒸かしにかかった。

         二

 防空訓練のサイレンの音で目が覚めた。

 布団を二枚重ねに掛けても足が冷えた。万年床は饐えた汗の匂いがした。

空襲のせいで、お天道様が上がってから眠りにつく。慢性的な睡眠不足のため、仕事が無い日は、こんな時間まで惰眠を貪る。

 佐々木は天井の滲みの数を数え始めた。冷気で吐く息が白い。

 「そろそろ、行く」

誰もいない家に、佐々木のかすれた声が響く。

 うがいをして水を飲むと、以前仏壇が置かれた柱の前に座った。死んでしまった妻と子と少し話をしてから身づくろいをし、外に出た。

 晴天で風も無く、家の中に居るよりも暖かかった。今日の訓練場の神社の境内は、佐々木の住む佐賀町から歩いて三〇分程度の距離だった。

 墨田川沿いを南に下り、永代橋のたもとにさしかかると、橋を渡って来る陸軍歩兵部隊が見えた。

明後日は三月十日である。四十年前、日露戦争で日本軍が大勝利した日であり、陸軍記念日として、毎年大部隊が行進し大がかりな式典が催される。

 佐々木は橋の欄干にもたれかかり、歩兵部隊が通り過ぎるのを待った。

 長い四列の兵隊達が通り過ぎ、佐々木が歩こうとした時、男が小走りに近寄って来た。

 「佐々木先輩ですよね」

 佐々木は無遠慮に男の顔を見た。

 男は踵を鳴らすようにして、佐々木に敬礼した。

 「自分は、先輩に面倒をみて頂いた、金沢、金沢 真です。初等兵の時、先輩に助けて頂きまして」

 男が、未だ思い出せないのかと訝しがる顔になったので、佐々木は地面に目を伏せると、歩を進めた。

 「先輩」

 背中に強張りを感じながら歩く。

少し待って佐々木は振り返った。男の姿は無い。ほっとし、薄ら笑い浮かべると、佐々木は訓練場へと足を急ぐ。

 曲がりくねった路地を抜けると神社が見えてきた。バケツを手にした男の子と、小さな女の子が駆け足で佐々木を追い抜いていった。女の子が立ち止まり、振り返ると佐々木を見た。

 「へんな帽子」

 女の子が大きな声を出した。

 男の子はびっくりし、引き攣った顔で女の子の手を引く。

 「だって変な帽子なんだもん」

 女の子を引き摺るようにして佐々木から目を離させると、二人は神社へ駈け込んでいった。カシャカシャとバケツが男の子の体に当たり耳障りだった。

 霜の降りた階段が陽光で溶けて、きらきら光っている。霜が溶けて、佐々木の破れたゲートル靴に沁み込んで、不快だった。

 鳥居をくぐると、佐々木の到着を待ち構えていたように皆が整列し始める。

「遅いぞ。もっと速く。敵が来たら、全滅だ」

佐々木が怒鳴った。

一平は、佐々木憲兵さんに向かって左端の五列目の前から三番目にいた。一列に五、六人が並んでいた。前に立つ大人の肩越しに見る憲兵さんは、いつもよりぴりぴりしているようだった。

皆が整列すると、佐々木憲兵さんは大きな声を出した。

「貴様らの中に不忠心者がいる。未だ子供だが、体罰を与える」

一平は心臓が締めつけられ、鼻で息が出来なくなり、口で音がしないように息を吸い込んで、吐いた。

佐々木憲兵さんは、ぐるりと大きく首を回して整列する皆に近づいてきた。

一列目、二、三列目、そして四列目・・・一平の並ぶ五列目に近づく。

一平は思わず目を瞑り、下を向いた。

佐々木憲兵さんが叫んだ。

「お前らだ」

一平のすぐ近くで声がしたので心臓が止まりそうになった。目を開けると、右から四列目の前のほうで一平よりも幼い子供が二人、佐々木憲兵さんに引き摺られていた。男の子は健二ぐらいで、女の子はひとまわり小さかった。

「貴様らの性根を叩き直す。そこの木に両手をついて、尻を突き出せ」

女の子は男の子の背中に顔を埋めてしがみ付いていた。男の子は佐々木憲兵さんの顔を睨みつけていた。

佐々木憲兵さんは男の子の胸ぐらを右手で掴むと足払いをかけた。男の子と女の子の体が宙に舞った。

どすんと、大きな音を聞かないために一平はとっさに両手で耳を塞いだ。

地面に落ちた二人は動かなくなった。

佐々木憲兵さんが、一平の列の一番前の人に何か言った。

佐々木憲兵さんはバケツを受け取ると、動かない子供達に、中の水を浴びせかけた。

子供達はまだ動かない。

佐々木憲兵さんの口が慌ただしく動き、何度も何度も叫んでいる。

一平は、恐る恐る耳を塞ぐ両手を解いた。「順番に、順番に、水をかけろ。あいつらの性根を叩き直す。皆でだ」

佐々木憲兵さんは、次に水をかける人を指差したが、その人は動かなかった。

佐々木憲兵さんがその人の胸ぐらを掴んだ時、一平の父親が駆けてくるのが見えた。

「何してるんだ」

父さんは、今まで一平が見たことも無いような厳しく怖い顔をしていて、他の人に見えた。

父さんは佐々木憲兵さんの隣に立つと、動かずに横たわっている子供達を見た。

「何してるんだ」

「性根を叩き直す」

父さんは佐々木憲兵さんには応えず、子供達に近づきしゃがみこんだ。まず女の子を抱きかかえ胸に耳を当てると頷き、静かに寝かせ、男の子にも同じことをした。儀式の様だった。

父さんは立ち上がると大きく息を吐き、佐々木憲兵さんの前に立った。

「あの子達は少ししたら目を覚ますだろう。今日は終いだ。帰ってくれ」

佐々木さんの顔は真っ白で唇が震えていた。

「この非国民が・・・」

「非国民はお前だ。子はお国の宝だ。お前のものではない」

父さんの声が凛と響いた。皆、下を向いて黙っている。佐々木さんより小柄な父さんの背中が、とても大きかった。

 女の子がふぅっと息を吐いた。一平の隣に立っていた男の人が叫んだ。

 「目、覚ましたよ」

叫び声が合図となって、皆が倒れている子達のまわりに集まった。皆が輪になる前に、何も言わず佐々木さんは父さんに背を向け、去って行った。

 父さんは、少しほっとしたように見えた。

 「父さん」

 「おう」

父さんは口をとんがらして、照れくさそうな顔をしていた。

 「あの子達、大丈夫みたいだね」

 先に気が付いた女の子に何度も肩を揺すられて、男の子も目を覚まし、体を起していた。

 一平の家の前に住む勝見さんが、父さんの前に立った。皆のうち、半分は子供達を、半分は父さんと勝見さんを見ていた。

 「あんたが来てくれてよかった」

 「仕事が思ったより早く終わった。でも来てみたら、こんなことになってる。見かけない子達だが、親は?」

 「菊田だよ。疎開してた子達だ。昨日、菊田と挨拶に来た。矢崎さんのところにも挨拶に行ったが幸さんしかいなかった、と言ってた」

 「そうか、菊田のか」

 菊田は父さんより五歳年下で、一年前の  空襲で奥さんを亡くしてから、子供達を奥さんの里の埼玉に疎開させ、菊田だけ実家のある深川に戻って家業の菓子店の手伝いをしていた。時勢より、菓子店といっても庶民のためでなく、不定期に軍からの依頼で将校達のために用意された原材料を使って軍に饅頭などを納めていた。正月の二日、余りものだ、と菊田が水分が抜けてぱさぱさの白い饅頭を二つ持ってきてくれた。父さんと母さんは食べず、ひとつを一平と健二が、もうひとつを俊蔵夫婦が食べた。中身は入っていなかったが、ほんのりと小豆の香りがした。

 あの時菊田から、子供達が疎開先の生活に馴染めず春頃戻って来ること、健二と同じ小学校に通うと思うから仲よくしてほしい、と言われたのを思い出した。喋り方に朴訥な性格が表れていて、父さんは菊田に好感を覚えた。

 父さんが子供達に近づくと、二人は立ち上がり、父さんに礼をした。

 「大丈夫か?歩けるか?」

 二人はうなずくと、手を繋いで父さんの脇をゆっくりと歩き過ぎ、鳥居の前で立ち止まった。皆が二人を見ていた。二人が振り返り、さっきより深々と皆に礼をした。

  三月八日・夕方

      一 

 「和江さん、明日、杉さんのところに連れれって」

 「療養所から戻られたんですか」

 「そう。昨日、杉さんから手紙が届いて。ひと月前から、自宅に戻って療養してるって。俊さんとも相談して、お見舞いに行こうと思って。早い方がいいと思ってね」

 姑は舅のことを名前の一字を取り、時々、俊さんと呼ぶ。自分も夫のことを、成さんと呼んでみようかしら、と思ったら自然と笑みがこぼれた。そんな和江の表情を見て明日の 外出を承諾したと思ったのか、幸が嬉しそうに言った。

 「俊さんも久しぶりの外出だし、楽しみにしてるの」

 杉さんとは舅の弟で杉作と言い、和江達の住む門前仲町の東南に位置する東陽町に住んでいた。舅とはひとまわり年齢が離れているためか、舅はこの弟のことを杉坊と呼んで息子みたいに可愛がっている、と夫の成男から聞かされていた。

 「成男さんは、何て言ってますか?」

 「成男には和江さんから言って」

 そう言うと、幸は悪戯っぽく微笑んだ。

 蒸かした芋に振りかけている塩の瓶が少し重たくなったが、気にせず和江は三つ目、四つ目と塩を振り続ける。蒸かした芋に直ぐ塩を振りかけないと味がしみ込まない。今日は芋は六個あるから、皆一個ずつ食べられる。

 成男にばかり負担がかかる、と和江は思った。

 舅は下肢が麻痺しているため、外出する時はリヤカーに乗せ成男が自転車で引いた。明日の東陽町も、ただ歩くだけなら一時間程度の道程だが、舅をリヤカーで引き、休み休み進めば、半日がかりとなるだろう。

月に何度も外出するわけではないのだが、舅が外出した後の成男の憔悴しきった顔を思い出すと鼻の奥がつんとなった。今は食糧難だから、リヤカーの舅を自転車で引いて何時間も移動し疲労困憊しても、栄養をつけてあげることが出来ない。牛鍋でも食べさせてあげたいと、何度思ったことか。

 和江の不機嫌そうな顔を見て、幸は何かを感じたのか、急に黙り込んでしまい、自分の部屋に戻っていった。食器棚から皿を二つだし芋を四つ、二つと、分けてのせた。和江の家族と姑達の分だ。食卓に皿を置くと布巾を被せた。両足が少しむくんでいる。ふくらはぎを暫く擦っていると、健二が帰って来た。

 「お母さん、ご飯出来た?」

 「どこ行ってたの?」

 「信ちゃんと遊んでた。チャンバラした。えい」

 健二は、枯れ枝を両手で握り、和江に向かって振り降ろす。

 「こら」

 和江に叱られると、健二は首をすくめいつものように姑達の部屋に逃げ込もうとした。

顔が赤い。

 「健二、顔が赤い。風邪でもひいたの」

 「へっちゃら。へっちゃら」

 右手でおでこを叩きながら、姑達の部屋へ駈け込んでいく。

 「咳が出たら、おじいちゃん達にうつるから」

 和江は叫んだが健二は答えず、代わりに幸の高笑いが聞こえて来た。和江は溜息をつきながら立ちあがった。火鉢に炭を足そうと思い戸口に向かいかけた時、何も言わず戸を開け柿崎が無遠慮に入って来た。手に瓶を下げている。

 「うう、寒い。火鉢に炭足したら」

 「今、足すとこですよ。なんですか?いきなり」

 食卓の皿を見ると、柿崎はドカリと食卓の前に座った。

 「芋か」

 和江に睨みつけられると、柿崎は作り笑いを和江に向け、右手で瓶を持ち上げて顔の前で拝むようにして言った。

 「お酒でござる」

 一升瓶ではなく一升と四合瓶との中間くらいの大きさで、清酒の様に澄んだ色ではなく、鼠色の液体が入っている。

 「配給が止まってるから、これも芋から造った。ま、見てくれは悪いけどな。」

 柿崎は、今度は大きく笑った。

 「旦那、帰ってねぇの?」

 「まだです」

 月に何度か柿崎は成男を訪ねてきたが、用事はいつも組内の決めごとの相談で、今日の様に酒を下げて現れたことはなかった。

 「今日はどうしたんですか。何かあるんですか?」

 柿崎は和江から目を逸らすと一呼吸置いて答えた。

 「揉め事があったんだよ。訓練で。俺は用事があって今日は不参加だった・・・今日は行くべきだったな」

 「揉め事って、うちの主人も関係してるんですか?」

 和江は、柿崎の前に腰を下ろした。

 柿崎が、首を大きく振った。

 「佐々木だよ。あいつが酷いことしたらしい」

 「で、主人は・・・、一平もいたはず・・・」

 「まぁ、俺もさっきお宅の向かいの勝見さんから聞いたばかりだけどな」

 柿崎は和江に神社での防空訓練の顛末を話した。時々、幸と健二の戯れる声が聞こえていたが、柿崎の声が大きく響き、幸達も柿崎の話しを聞きはじめたようで、暫くすると姑達の部屋はしんと静かになった。

 組長をしているだけあって、柿崎は話上手だった。まるでそこにいたかのように、佐々木の子供達に対しての非道な行いを身振り手振りで説明し、成男の勇敢さを讃えた。

 「佐々木も兵隊くずれの変わり者だったが、付きあってやった。こんなご時世じゃ無理もないと思ってさ。だけど、もうだめだな」

 幸は佐々木に乱暴されたという菊田の子供達を知らなかったが、柿崎の話を聞いて身が震えた。

 「さむーい」

 一平の声がして、戸が開き、一平、続いて父さんが戻って来た。

 「お帰りなさい」

 母さんが、弾んだ声を出した。

 母さんから柿崎に目を移した途端、父さんは伏し目になった。

父さんの表情を見て、柿崎は正座した。

 「今日のことは聞いた。用事があって参加出来なかった。すまなかった」

 「少し面倒があった」

 柿崎を見下ろしたまま、父さんは言った。

 「一緒に呑もうと思って」

 柿崎は傍らに置いた瓶を掲げた。

 「芋焼酎だ」

 一平は父さんの顔を見た。酒を見ても父さんの表情は重たかった。

 「佐々木に持っていくか」

 父さんが呟くように言った。

 「佐々木?なんで」

 柿崎がびっくりして腰を浮かし言った。

 父さんは答えなかった。

 「菊田のところに持って行くんだったらわかるが、何で佐々木に?」

 柿崎が、また訊いた。

「佐々木は、あいつはおかしなことをしたけど、そのうち、皆あいつみたいになる気がしてな。他人ごとじゃないってな」

 父さんが答えた。

 一平はこれ以上父さんの話を聞きたくなかった。黙って後ずさり、俊蔵達の部屋に入った。部屋に入ると、俊蔵は寝たまま、幸と健二は座ったまま、居間でのやり取りに耳を澄ませていた。

 「兄ちゃんも居たんだろ。佐々木さんが暴れた時」

 健二が膝を詰めてきて一平に囁いた。

 「わかった。持ってけ」

 柿崎の怒鳴り声が響いた。

 「騒がしいやつだ」

 俊蔵がしゃがれた声を出した。幸が優しく微笑んだ。

 戸が開き、閉まる音がした。先に健二が部屋を飛び出し、続いて一平が部屋を出ようとすると、健二の肩越しに柿崎が立ち上がるのが見えた。

 「父さんは?」

 健二が柿崎を無視して母さんに訊いた。

 「出掛けたのよ」

 「どこに?」

 「子供は知らなくていいんだ」

 柿崎は低い声で健二を諭すと、母さんに挨拶もせず出て行った。

 「さぁ。ご飯にしましょう」

 母さんが言った。

         二 

家を出て西に向かい、佐賀町に入ると、すっかり日が落ちた。酒瓶を下げる右指先の感覚が無くなってきたので、立ち止り両手を擦り合わせ暖を取った。隅田川に並行して流れる掘割に沿い東に進むと、ほどなくして佐々木の家に着く。

佐々木は会ってくれるだろうか?柿崎の言うように菊田家を慰労すべきなのだろう。佐々木と酒を酌み交わすためにこうして飯も食わずに歩いているとは。

懐中時計を見ると、五時を少し回っている。佐々木と少し話をして、七時までには帰らねば、と成男は考えた。

皆が寝静まる頃、一〇時以降に空襲が来る。壕の中に家族六人の避難空間を確保するため、夜は九時くらいまでに、壕の中の預かり物を片付けて整理しておかねばならない。壕の中の預かり物は、空襲が頻繁なため引き取りにくる人は少なく、預かって欲しいと物を持ち込む人は引っ切り無しで、毎日、増え続けている。佐々木からも一つ預かっていた。成男は、和江から渡された、佐々木が持ってきたという箱を、思った。両手に余る四角い箱で、重たかった。鶯色の風呂敷にきつく包まれていた。

和江から渡された時は何も考えなかったが、箱に何が入っているのか、急に知りたくなった。誰もが大事なものを、預けに来る。金目の物だったり、あるいは他人には価値は無いが自分にとってはかけがえのない物を。空襲で死んでも残したい、と思うものを。佐々木の場合はどうなのか。佐々木には身寄りがないらしい。

佐々木の属する隣組の長に、寄り合いで聞いたことがある。元憲兵で幹部候補生だったらしいが、上官に立て突き除隊となり、除隊後妻子は相次ぎ病死した、とのことだった。

目印にしていた古刹を通り過ぎて直ぐの路地を右に曲がると、二件目の家の前に立った。表札は無い。佐々木の家に着いた。ガラス戸が仄明るい。在宅だ。

「こんばんは」

ガラス戸を叩いた。

「こんばんは」

ガラス戸をもう一度叩こうか迷っていると、戸が開き佐々木が顔をのぞかせた。

お互いに顔を見合った。

「今日は失礼した」

成男が先に口を開いた。

「冷えるから酒でも呑まないか」

佐々木は何も言わず、戸を開けたまま内に戻っていく。成男も家に入った。

玄関の横の和室に佐々木と向い合って座った。仏壇は無く、柱の前に線香立てが置かれていて、線香の匂いがした。

「飯は?」

「朝だけにしてる」

「そうか」

「誰かに言われて来たのか?」

白色灯の光で佐々木の青白い顔が凄絶さ増した。

「違う。自分の意思で来た。今日、俺は間違ったことはしたとは思っていない」

成男はさらりと言った。

「俺は、俺は・・・」

両手を握りしめると、佐々木の目が膝や畳に泳いだ。肩が震えだす。

「酒、持ってきた。呑むんだ」

佐々木は畳に手を突き、大きく叫ぶと泣いた。

成男は和室を出ると向かいの台所から湯呑を二つ持ち、一つを佐々木の前に置いた。

「さぁ」

成男は二つの湯呑に酒を注いだ。

「さぁ」

四畳の和室には家財道具は何もなく、座布団も敷かれていない。成男の酒をすすめる声が響く。

佐々木は湯呑をじっと見ると、手に取り一気に呷った。呑み干すと深く溜め息をつく。

 佐々木が酒を呑み干すのを見ると、成男も湯呑を持ち半分ほど空けた。

 「うまくねぇな」

 成男が言った。

 成男のしかめっ面を見て、佐々木の顔が少し綻んだ。

 「さぁ、もうひとついくか」

 佐々木に酒を注ぐと、成男は酒を呑み干し自分の湯呑にも酒を注いだ。

 酒を一口舐めるように呑むと、佐々木は成男の出方を窺うような眼つきをした。

 成男は間を外すと、少ししてから言った。

 「線香がいい香りだ」

 湯呑を両手で包んで覗きこむと、佐々木が擦れた声を出した。

 「線香だけは上等のものを取り寄せてる。残り少なくなったが」

 「奥さんとお子さんか」

 佐々木は黙ったまま頷く。

 「亡くなったのは・・・」

 「三年になる」

 酒を注ごうとする成男を手で制すると、佐々木は崩していた膝を立て正座し、背中を伸ばした。

 「今日はすみませんでした。菊田さんにも謝りに行こうと思う」

 「そうか・・・まぁ、膝崩しな。今日は呑もう。」

 佐々木の引き攣った青白い顔に、少し赤みが差した。

 成男が酒を注ぎ、佐々木が呑む。佐々木も成男に酒瓶を向ける。

 「皆、同じじゃねんだよな。あんたは奥さんと子供を亡くしたが、俺は女房、子供、今のところ、婆さん、爺さんまで健在だ。不公平ってやつだ」

 佐々木が微かに頷いたように見えた。

 「ほい」

 成男がまた佐々木に酒を勧めた。

 「いや、もう」

 「なんか、おればかり喋ってるな」

 成男は酒を一気に呷ると、湯呑を置き、腰を上げた。

 「残りはそっちで呑んでくれ」

 佐々木の顔は見ずに、成男は言った。

 空腹に酒が入ったので、和室を出て少しよろめき、成男は玄関に落ちそうになった。

 「大丈夫ですか」

 佐々木が抑揚のない声を出した。

 「佐々木さん。あんた、よくわからん人だ」

 佐々木の声に振り向かずに言うと、成男は家を出た。

 父さんは少し酒臭くなって七時過ぎに帰って来た。母さんが心配そうな顔で、食卓に芋の皿を置いた。

 「芋か。さっき呑んだ」

 「食べて」

 母さんは、父さんの横に座った。

 「子供達は?」

 「さっき寝た」

 「いつも早いな」

 「空襲があると夜中に起こされるでしょ。今くらいから寝ないともたないのよ」

 「ああ」

 父さんは箸を取り、芋を齧った。

 「いち、にい、さん、しぃ、ごう、ろく、しち」

 段々と声が大きくなる。

 「いけね。十で食っちまった。はは」

 「子供達には、二十回噛めって言ってるのにね」

 母さんは右手で口を押さえて笑うと、何かを思い出したように立って行った。

 父さんは、今度は殊更ゆっくりと芋を何回も噛み始める。

 母さんは戻り、父さんの前に椀を置く。味噌の香りが漂った。

 「味噌汁か」

 「菊田さんの所からよ。さっきご主人が来て。有難うございましたって」

 「みんな、飲めた?」

 「健二なんて、味噌だ、味噌だって大騒ぎ。指ですくって舐めて」

 「明日も飲めるのか?」

 「あと二椀ずつくらいかな、みんなに」

 父さんは味噌汁を飲むと、長く息を吐いた。酒臭い息に味噌の香りが混じって、香ばしくなった。

 「佐々木さん、どうだったの?」

 「謝ってたよ」

 「どんな風に」

 「すまなかった、てな」

 芋の皿は空で、味噌汁は半分残っていた。

 「お前、飲んでないんだろ」

 「作ってる時に味見したから」

 「まぁ、飲めよ」

 勧められ少し逡巡を見せたが、母さんは椀を胸に押し抱くと目の前で拝むようにし、一口飲んだ。

 「おいしい」

 「ああ」

 「そうだ。明日ね。お母さんから言われたんだけど」

「明日?」

「杉作さんの所に連れて行って欲しいって」

「親父と一緒にか?」

「そう」

「また、あのリヤカー引いてか」

「そうね」

「杉おじさん、元気になったかな」

振り絞るように声を出しながら、父さんは立ち上がった。

一平は目がさえて眠れなかった。いつもなら床に着くと直ぐに、弟の健二よりも先に眠りに落ちてしまうのだが、今日の防空訓練での出来事が絵になって頭の中をぐるぐると回っていた。一平は父さんと母さんの会話に耳を澄ませていた。父さんは佐々木さんと会った、佐々木さんは今日のことを謝っていた、すまなかったって。明日の防空訓練には佐々木さん来るのかな?来たら仕返しされないかな。父さんがいれば仕返ししないか。父さん、明日は仕事で防空訓練に来れなかったら、どうしょうかな。父さんに訊いてみるか。

一平は起きると、襖を開けた。

父さんと母さんがびっくりした顔をして、一平を見た。

「どうしたの」

「父さん、明日、防空訓練来れる?佐々木さん仕返しするよ。きっと」

一平は父さんに向かって一気に捲し立てる。

「仕返し?」

父さんは、笑った。

その時、一平はあることを思い出した。

「そうだ。父さん、あの箱だよ。佐々木さんからの預かり物があるんだよ。いざとなったら、もう預からないって言えばいいんだ」

 「母さんが預かったらしいな。」

 父さんが母さんを見ると、母さんが少し慌てて言った。

 「仕方なかったのよ。押しつけてきて、どうしてもって言うから。あんな重いもの。一体何が入ってるんだか」

 昨日、一平が父さんと壕の中を整理していると、鶯色の風呂敷に包まれた四角い木の箱が奥の棚に置かれていて、いつも父さんがするように、箱の下に預かり人を記した半紙が挟まれていた。半紙には佐々木さんの名前が記されていて、一平としては不満な半面、少し得意な気がした。

 「ねぇ、父さん、あれは大事なものなの?棚に置いてるし、すごく重いって、もしかしたら・・・金塊とか」

 一平の真剣な眼差しを見て、父さんは思わず笑ってしまった。

 「そりゃあ、大事なものだろ。わざわざ預けに来るんだからな。しかし金塊か。一平も色々考えるな」

 父さんも母さんも笑っている。一平は腹が立ってきた。

 「もういいよ。父さんのこと心配してたのに」

 一平は、襖をぴしゃりと閉めて寝床に戻る。

 「なんだ。あのふくれっ面は」

音に反応した父さんが、襖に向かって言った。

「あなたのことが好きなのよ。もっと構ってもらいたいのよ」

母さんに言われ、父さんは少し考え込むようにした。

「寝るか」

「ねぇ」

父さんが腰を浮かしかけたところで、母さんが尋ねた。

「さっきの話だけど」

「さっきの話?」

「佐々木さんの箱の件よ」

「ああ」

「何かしらね」

「中身か?」

「そう」

母さんは父さんを覗き込むようにしている。

「持った時、ごろっと、何か動いたろ」

母さんは、目を伏せると頷く。

父さんが、はっきりと言った。

「金塊だ」

母さんは深く溜め息をつき、何も言わず皿を片づけ始める。

三月九日・朝

   一

 空気が透き通って、気持ちが良かった。幸はもう一度大きく朝の新鮮な空気を吸い込むと、家に入り台所に戻った。釜戸で米を炊いた。半年ぶりだった。今回、この二合を炊けば、幸が所持している米はあと僅かとなるが、朝起きて何故か無性にご飯が食べたくなった。また、俊蔵にも食べさせたかった。

 湯気を立てていた釜が静かになった。もうすぐ炊きあがる。米の甘い香りが漂い、何とも言えなかった。隣家からわけてもらった白菜を水でしぼって塩揉みし、菜とした。

 今日は杉さんのところに行く。一年ぶりに会う。俊蔵は長男で、杉作とはひとまわり、年が離れている。皺だらけで禿げかかった杉作を、いまだに杉坊、杉坊と俊蔵は呼ぶ。年の離れた弟が可愛くて仕方ないらしい。男の人って可愛いな、と幸は思う。口元がほころんだ。

 「おーい。飯は出来たか」

 俊蔵が、幸を呼んだ。

俊蔵の飯椀に米をよそっていると、和江が台所に入って来た。

 「ご飯ですか」

 和江が素っ頓狂な声を出し、幸は笑ってしまった。

 幸が夫婦の膳を整え、お盆に載せ部屋に入ると、成男が起きて来た。和江と同じように米の香りに驚き、それは一平、健二と続いた。

 母さんは薄く溶いた小麦粉で、すいとんを作った。

 「ご飯のいい匂いがするから、飯食ってるみたいだな」

 父さんが言った。

 皆で頷いて、すいとんをかきこんだ。

 「今日は、杉おじさんの所に行く。おじいちゃん達とな」

 「リヤカーに乗せていくの?自転車で引っ張って」

 健二が、弾んだ声を出した。

 「健二も来るか」

 「行ってもいいの」

 健二が母さんを見た。一平は母さんが了承すると思ったが、母さんは渋い顔をして言った。

 「風邪ひいてるから、やめときなさい」

 健二は母さんに執拗に食い下がったが、母さんは健二の外出を許さなかった。

 久しぶりに背負った俊蔵は軽かった。軍隊帽子を被り、襟巻をぐるぐる巻いて、綿入り半纏を羽織り丸々とした俊蔵を、父さんはリヤカーに乗せる。

「落っこっちまうといけねえから、ゆっくりやってな」

俊蔵が張りのある声で、父さんに言った。

幸がリヤカーの脇に立った。父さんが、リヤカーに縛り付けた荒縄を、自転車の座席下のボルトに結び付ける。

「行ってくる」

父さんが言った。

母さんは、幸が緊張している面持ちでいるのに気付いた。

「お母さん、楽しんできてね」

母さんの弾んだ声で、幸の表情が少し和んだ。幸は母さんを見ると、微笑み頷いた。

父さんがペダルを踏む。リヤカーが少しずつ進んでいく。父さんが振り返ると、健二が大きく手を振った。ついていくのに幸が小走りになると父さんはペダルを緩め・・・またペダルを踏み込み、そして又緩める。だんだん三人が遠ざかっていった。

三人の姿が見えなくなると、一平は急に不安になった。

「行っちゃった」

健二が小声で言った。

「家に入るわよ」

母さんは明るい声を出し、家に入った。子供達を見ると、暗い顔で視線を落とし家に上がろうとしている。

「今晩はご馳走よ」

「え、何?」

健二が直ぐに反応した。

「お餅よ」

健二が一平の腕を掴んだ。

「兄ちゃん。餅だって」

一平は健二の手が痛かったので、振りほどきながら訊いた。 

「誰からもらったの?」

 「お父さんのお客さんから。子供が生まれて階段から落ちないようにって、二階の階段の降り口に柵を作ったのよ。父さんの腕が良いって、お餅までくれてね」

 「二階がある家?」

 一平は母さんに訊いた。

 「一平達は見たことがないでしよう。階段で上に繋がってるのよ。上にも部屋があるのよ」

 子供達は不思議な思いで母さんの話しを聞いたが、関心は餅のことだった。

 「幾つ、食べられる?」

 健二が、また訊いた。

 「二つずつよ」

 母さんが答えた。

 健二がびっくりした顔をして、一平を見た。

 健二の顔がまた少し小さくなった、と一平は感じた。健二の削げた頬が胸を締めつけた。

         二

 昨日、永代橋のたもとで、金沢に呼び止められ、その真っ直ぐな眼を見た時の嫌な予感は的中した。金沢は、親戚が重病との理由で一日の休務を申請し、今、佐々木の前に正座している。

 「先輩、先輩さえその気なら、隊にかけあいますから。戻ってきてください」

 金沢は、佐々木に向かって、身を乗り出すようにして言った。

 「かけあうって、連隊長にでもか?」

 連隊長など雲の上の存在である。佐々木の突拍子もない言葉に、金沢は息が詰まった。

 金沢が、かつては佐々木も所属していた近衛歩兵第一連隊は、天皇の御身を守ることを役目としており、皇居の警護に当たっている。

連隊長は大佐クラスがその任に当たる。佐々木は兵長で除隊となっていた。

 「隊に戻して、伍長にでもしてくれるのか?」

 立ち上がろうと、思わず伸びた首を両肩に落とすと、金沢は呟いた。

 「すみません」

 「もう、いいよ。俺もくだらんこと言った。すまなかった。もう昔のことだ・・・忘れてくれ」

 戦時中の食糧は国家の配給制であるが、配

給だけでは足りず、〔闇〕が付く食糧が流通し

ていた。佐々木と金沢の上官で伍長の井沢と

いう男がいた。井沢は、隊の威光で長野県の

複数の農家から大量の米を召し上げ、闇の市

場へ流通させ、私腹を食んでいた。

五年前、金沢が井沢の悪事に気付いた。そ

の年の二月に井沢は軍曹に昇進し、井沢の後任として、佐々木が伍長に就くはずであった。 金沢は、入隊以来何かと目をかけてくれる佐々木を巻き込みたくなかった。又、男同士、礼節を尽くしてしっかりと話し合えば、いかに二階級も上といえども(この頃金沢は上等兵。二等兵、一等兵、上等兵、兵長、伍長、軍曹の序列となる)、分かりあえると思っていた。

金沢は井沢と会い、闇米について問いただす

と、井沢はあっさり認めた。但し、私腹を肥

やしているわけでなく、隊の資金として蓄え

ているとのことだった。日を改めて詳細は説

明するから闇米のことは他言無用に、と井沢

から釘を刺された。井沢は開けっ広げで、や

ましいところは何も見えなかった。

 金沢が井沢と会ってから一週間後、佐々

木と井沢が喧嘩をして、井沢が重傷を負い、

佐々木は営倉送りとなった。佐々木は上背こ

そ人並みだが幼年期から柔道を嗜み、筋肉が

詰まった樽のような体で、井沢は佐々木に投

げ飛ばされ腰の骨を折り、一か月ほど入院の

後、甲府の第九歩兵連隊へ転属となった。佐々

木は、軍法会議は免れたものの、除隊処分と

なった。

 「あの時、何があったのか、何で先輩は井

沢と喧嘩したのか、何度訊いても教えてくれ

ない」

 金沢は佐々木を見上げ、いらついた口調で

言った。

「悪党を退治したんだ。細かいことはどう

でもいいじゃねぇか」

「だけど、先輩は、そのために除隊させられて・・・佐々木憲兵さん、なんてふざけた呼び方されるようになって」

「憲兵じゃなかったのにな」

佐々木が他人ごとのように言った。

「先輩」

金沢が食い下がると、佐々木は右手で目の

前を振り払うようにして言った。

 「工場勤めなんでね。缶詰造ってんだ。もう、出掛けんといかん。お前だって、明日の祈念式典でしっかり行進せんといかんのだろ。こんなところで、くだらんことをしてる暇はないぞ」

 佐々木は腰を上げる。金沢はまだ座っていた。

 「俺はもう終わったんだ。三十五で隊を辞めて・・・御国のためにと思ってな、郷で農業をはじめた。素人がな、三年間、頑張ったんだがな。米は一粒も取れんかった。女房と子供は、色々合わなくて、体を壊して死んだ。」

 何か言いたそうに突っ張っていた金沢の両肩がだらりと下がった。

 「さぁ、もういいだろ。帰ってくれ」

金沢は立ち上がり、佐々木を見ずに一礼した。玄関で靴を履く。佐々木と向い合った。佐々木も金沢の真っ直ぐな視線を受け止める。

「また、お会いします」

佐々木は目を斜め下にずらすと、唇をゆがめて笑った。

部屋に戻ると佐々木は柱の前に座り、線香を二本立てた。

「金沢が来たよ」

佐々木は、妻と息子に呼びかけ、はなしはじめる。

三月九日・午後

   一

俊蔵は腰が痛くて堪らなくなった。

「止めてくれ」

成男が自転車を止め、リヤカーを道路わきに寄せる。俊蔵は苦悶の表情を浮かべ海老のように体を九の字に曲げている。

「おっかさん、何でもっと早く教えないんだ」

成男は、リヤカーに乗った俊蔵の横を歩いていた幸を詰った。

「甘えるところがあるからね。この人は」

幸がぴしゃりと言った。俊蔵はまだ体を折り曲げたままでいる。暫くそのままにして、俊蔵の回復を待つことにした。

空が高かった。早春の爽やかな、凛とした匂いがした。

「ほら」

幸の声に成男が振り返る。幸が俊蔵に煙草をくわえさせ、マッチ箱を渡していた。

「火は自分で点けな」

煙草は配給が途絶えて久しく、ましてやマッチ箱など何年も見ていない気がした。成男が丸い目をして見詰めているのに気が付くと、幸は照れ隠しからか、成男から目を逸らして、言った。

「ずっと取ってあったの。大切な時にのんでもらおうと思って」

 煙草の良い香りが漂ってきた。俊臓はうっとりと頬を緩め、目を細めて煙を吐き出している。

 「吸い終わったら、行くか」

 成男は嘆息し、言った。

『この夫婦には、かなわないな』

和江にこの煙草の件を話したら、和江もそう思うだろう。

 俊蔵の様子を見ながら何度か休憩し、昼過ぎに東陽町に着いた。久しぶりに見る杉さんは痩せてひとまわり小さくなっていた。杉さんは俊蔵を小さくなったと言った。毎日見ていると体つきの変化には案外気が付かないのかも知れない。杉さんの奥さんの実家は栃木の農家なので、時々実家から奥さんが米を調達するらしく、昼から米の飯がでた。

 「今日は朝、昼って御飯で、豪勢だね」

 幸は無邪気に笑い喜んだ。杉さんは家の奥の部屋に寝かされていて、床離れまで、あと数か月はかかりそうだった。

 「久しぶりに顔が見れて、良かった」

 杉さんが涙ぐんで言うと、俊蔵夫婦は泣き、成男も目頭が熱くなった。杉さんは小学校を出ると木場の材木店に丁稚奉公し、二十余年勤め、奉公先の紹介で奥さんを娶り独立して深川に店を持ったが、信頼していた番頭格に金を持ち逃げされ店は潰れた。その後は四〇の手習いで旋盤工として工場勤めとなった。

 奥の部屋から居間に戻ると、杉さんに会ってほっとしたのか、俊蔵の体から力が抜けて、成男の背が重くなった。俊蔵の奥さんが火鉢に置いた鉄瓶に茶の葉を少量入れる。

「本当はねぇ、もう永くないんですよ」

成男がしゃがみ、幸が俊蔵を成男の背中から受け止めようとした時、杉さんの奥さんが言った。

俊蔵の体を支えていた幸の両腕が止まった。俊蔵は唸り声を出した。

「そんな、わけねぇ。杉坊が俺より早く逝くわけねぇ」

杉さんの奥さんが火箸を忙しく動かした。鉄瓶が音をたてはじめる。

       二

冷気で直ぐに指先の感覚が無くなった。一平が一人で壕に入ったのはこれが初めてだった。入口の辺りは仄かに日の光が差すが奥は全くの暗闇だった。空襲の時は家族皆と、壕の修復や荷物の整理で入る時はいつも父さんと一緒だった。父さんが使うカンテラは持ち込めなかった。

佐々木憲兵さんの預け物が見たかった。氷のような土の感触に耐えながら腹ばいになって、預かり物の積まれた奥へと進んでいく。低く幅は狭いが長さはある壕は、蹲って座れば十人程度を収容出来る規模だったが、壕の三分の一は預かり物で占められていて、一平の家族六人が入れば、きつきつの状態となっていた。

暗闇の中、指先が堅いものに触れた。一平は膝をつき、ゆっくりと中腰になり目を細めて見るが何も見えない。

防空訓練を知らせるサイレンが響いた。一平は思わず溜息を漏らした。再び腹ばいになり、両手に息を吹きかけると壕を出ようと進んだ。

いつものように佐々木が居たら嫌だった。でもなぜか佐々木は来ないような気がしていた。

神社の鳥居を潜ると、境内で子供たちが無邪気に駆け回っていた。大人達も既に半分くらい集まっている。

佐々木はいなかった。

柿崎が一平に気付き、手招きした。

「親父、昨日は遅かったのか」

「わかりません。寝てたから」

「今日は来ないのか」

「おじいさんたちと東陽町の親戚のところに行ってます」

「そうか、親父来ねぇのか」

柿崎は残念そうに目を窄めると、しゃがんで地面に置いたバケツを持ち上げ、一平に背を向けた。

「あの」

柿崎が振り向くと、一平は言い被せた。

「佐々木憲兵さんは、来ますか?」

柿崎は大きく笑った。

「お前と同じことを、今日は三回も訊かれたよ」

一平は俯いた。

「今日は来んだろ。いつもならとうに来てる。もう、来ないかもな。ずっとな」

一平は、ほっとした。柿崎の肩の辺りがとても大きく見えた。

一平の向かいの家の勝見が、大人達を集めて日本軍の戦況の説明をしていた。

柿崎は子供達を集め、バケツリレーの号令をかけ始める。

「ヨーイ、ヨーイ」

柿崎の号令に合わせて、横一列になった子供たちが、水の入ったバケツを手渡ししていく。最後にバケツを受け取った子供が走って柿崎にバケツを渡し、柿崎はまた先頭の子供にバケツを渡す。一平も列に加わる。いつもは辛いバケツリレーが、今日は楽しかった。

「おい」

声がして、いきなり右手の袖を強く引っ張られた。左隣の子にバケツを渡した直後だったので一平はバランスを崩し、大きく尻もちをついた。瞬間、一平は体を九の字に曲げ頭を地面にぶつけないようにした。

目の前に、国民学校で同級の耕治の顔があった。

「馬鹿野郎」

立ちあがりながら一平は叫び、耕治の腰に組みついた。耕治も不意をつかれ、後ろにいる子供達を倒しながら倒れ込んだ。殴ってやろうと、一平が右腕を後ろに引くと耕治の頭突きが鼻柱に入った。一平の目に火花が散った。両手で顔を覆い蹲った。

耕治は、蹲った一平に馬乗りになり、両拳で交互に一平の頭を殴り始めた。

「こらっ、やめんか」

柿崎が耕治を羽交い絞めにして、一平から引き離す。

一平は立ち上がろうとしたが、眩暈がして再び蹲ってしまった。

「何してるんだ。お前らは。この御国の大事の時に。訓練中だぞ。二人とも帰れ」

柿崎の大音声が境内に響き渡った。一平はゆっくりと立ちあがってみた。眩暈はしなかった。耕治はもう歩き出していた。一平は柿崎に向かってお辞儀をすると、耕治を追った。

耕治が鳥居をくぐろうとしたところで、追いついた。

「お前、何なんだよ」

 一平は耕治の背中に言った。

 耕治は振り向くと、赤らんだ顔をして絞り出すような声を出した。

 「お前らはずるい。人のもの取ってる」

 「何?」

 一平は駆けだす耕治の腕を掴もうとしたが掴めず、前のめりになった。

 「お前の家の奴らは皆、泥棒だ」

 一番の友達と思っていた耕治の背中が、小さくなっていく。信じられなかった。耕治ではない別人の背中のようだった。

 耕治の白シャツが酷く汚れて見えた。一平の体全体が熱くなった。

 「ずるいのはお前だ。取ってなんかいない。泥棒・・・泥棒なんて」

 涙で目がかすんでいた。右手で両目を擦り続けた。柿崎の声がした。

 「そんなに擦っちゃ、倍菌が入って目が開かなくなるぞ。今日はもう帰れ」

 どうやって家に帰ったか、憶えていなかった。気が付くと、上半身裸で布団の中だった。耕治とのことが夢に思えた。顔に触れてみた。頬の辺りが熱を持って腫れていて、痛かった。頭突きされた時の、耕治の頭の感触を思い出した。

 襖が開き、母さんが入って来た。

 「さっき、柿崎さんみえて。耕治君が暴れたんですって?」

 一平は寝がえりをうって、母さんから顔が見えないようにした。

 「今日ね。一平が出た後、耕治君、家に来たのよ」

 一平は思わず母さんの顔を見上げた。一平の腫れた顔から目を逸らすと、母さんは続けた。

「一人でね。大きな風呂敷包み持ってね。預かってくれってね」

「それで母さん、どうしたの?」

母さんがしたことがわかったので、一平の声は怒気を帯びていた。

「断ったわよ」

「何で」

「何でって、お父さんがいないし、また物が増えちゃうでしょ」

「母さんは馬鹿だ」

「なに言うのよ」

「母さんは馬鹿だ」

また涙がこみ上げて来た。一平は蒲団を被ると、母さんに顔を見られないようにした。

三月九日・夜

「お父さん、まだ寝ないの?」

 襖が開き、黒布で覆われた電球の薄ぼんやりした光のなか、娘の良子が言った。

 講談本から目を上げると、柿崎は寄って来る良子を見上げた。

 「眠れないのか?」

 良子は答えず、柿崎の前に座った。

隣の部屋でいつも良子と寝ている女房の微かな寝息が聞こえた。

 良子は一六歳で、螺子工場で働いていた。

 給金は無く、生活物資を購入する切符を毎月与えられていた。柿崎は良子以外に子はいなかった。

 薄明りで、良子の白い首筋が生々しく映えた。

 柿崎は柱に掛った時計を見上げた。

 「もう十時過ぎてる。早く寝なさい」

 「お父さん。なんだか私、疲れてしまって」

 良子が呟いた。

 柿崎は驚いた。良子はいつも笑顔で快活で、弱音を吐いて頭を垂れている姿など見たことが無かった。

 「工場が辛いのか?」

 「工場も嫌だけれど」

 良子は真っ直ぐに、柿崎を見た。

 「お父さん」

 「ん?」

 「私、一人になるのかな?」

 「え?」

「ひとりで生きていくのかな?」

 柿崎は良子の言うことが理解できず、戸惑

い、良子から目を逸らした。

 「みんな、御国のために兵隊さんになって、

帰ってこない」

 「お前、何言ってるんだ」

 確かに、良子より年上の、良子の伴侶と

なる可能性のある男達は殆ど兵隊にとられ、

戦地に赴いている。

 「お父さんとお母さんが死んだら、私はど

うなるの?」

 良子は縋るような目をして、柿崎を見た。

 「もう、寝ろ」

 良子は俯いた。

 好きな男でもいて、兵隊にとられたのか?

明日でも妻に訊いてみるか。

 柿崎は、お茶を飲もうと、湯を沸かすため

立ち上がる。

 外でサンインが、大きく鳴った。

 空襲警報の、いつもと変わらないサイレン

だったが、とてつもなく耳障りに感じたのは、

良子の言動で、柿崎の体が敏感になっていた

からだ。

 「きたわよ」

 妻が擦れた声で起きて来た。

 もう防空頭巾を被っている。

 「外はどう?」

 良子を見ずに柿崎は立ち上がると、台所を

抜け、裸足で土間に降り、外に出た。

 再びサイレン音が耳をつんざく。

 柿崎は空を見た。暫く立って敵機の音に耳

を傾けていたが、音もその姿も無く、空には

ぽつりぽつりと星が浮かんでいるだけだった。

 「お父さん」

 良子が不安そうに玄関口に立っている。

 「行っちまったみたいだな。ラジオは?」

 「お母さんが聞いてる」

 家に戻ると、妻がラジオの前に正座してい

た。

 「警報解除。飛行機逃げたって。」

 妻はほっとして気が抜けた顔で言った。

 柿崎は衣裳箪笥にのったラジオの上の壁掛

け時計を見た。

 「十時半過ぎか。今日はもう来ないから、

ゆっくり寝れるな」

 「おやすみなさい」

 妻は良子を誘わず襖を開け、閉めずに蒲団にくるまい、寝がえりをして柿崎達に背を向けた。

 良子は、くすりと笑った。

 「もう、寝た方がいいみたいだな」

 「うん」

 良子は襖を閉め、部屋に戻る。

 「良子。いつか終わる。ずっとは続かない」

 柿崎は良子を、少し待った。

返答は無く、柿崎も電灯を消し蒲団にもぐ

り込んだ。

 眠ろうとしても良子の寂しく、不安そうな

顔が頭に浮かんで目がさえてしまった。何度

も寝がえりをうち、他のことを考えてみたが

眠れない。煙草でも吸うか。今年になってか

ら配給でもめったに手に入らなくなった煙草

は、三本しか残っていなかった。四月になる

と春めく。湿気る前の三月中に吸わないとい

けない。結局吸うことにして起きあがった。

蒲団のぬくもりに馴染んだ体に冷気がまとわ

りついた。思わず両腕で肩を抱え込む。台所

の食器棚の缶に仕舞っている煙草を取りにい

こうと、襖に手をかけた。

 もの凄い音がして襖が溶け、柿崎は赤い炎

となった。

三月一〇日・未明

       一

けたたましいサイレンで目が覚めた。

一時間前に空襲警報は解除されたはずだが。敵は油断させたのか。

佐々木は起きあがると、着のままで外に出た。

全てが真っ赤に染まっていた。敵機が飛行する轟音がして、目の前が揺れた。煙で目が開けられなくなった。助けを呼ぶ声が四方から聞こえたが、連続する敵機の飛行音に掻き消された。人は皆、火から逃れるため隅田川を目指して走っていた。赤ん坊を背負い、二人の子を両手につないだ母親が、佐々木の脇を走り抜けた。佐々木は母親の懸命の背中を見たが、皆が向かう隅田川とは反対の方向に走り出していた。

       二

一平は夢の中で、耕治と会っていた。夢の中の耕治は、今日のことで一平がいくら怒っても何も言わず悲しそうな顔をするだけだった。何も言わない耕治の胸を押そうと伸ばした手が、誰かに強く引っ張られる。

目を開けると、母さんが腕を強く引っ張っていた。

「空襲よ。早く壕に」

健二はもう防空頭巾を被って厚着をして不安そうな顔で、黙って母さんにぴたりと体をつけている。

一平は蒲団をはねのけると、枕元に置かれた頭巾を被り急いで身支度をした。

障子に赤いものが映った。どーん、と凄い音がして家が震えた。

「早く、外へ」

母さんが叫んだ。

母さんが健二の手を握り、足をもつれさせながら戸を開けた。一平の頬が母さんの肩に当たった。

「母さん、早く出て」

戸を開け立ち止っている母さんの肩越しで、向かいの勝見さんの家が炎上していた。

一平は左手で母さんを押しのけると、外に出た。

 どーん、と近くでまた音がして地響びいた。

「壕に入るんだ」

振り向くと一平は動けない母さんに大声を出した。一平は母さんの腕を掴んで家から出すと、壕に走り寄り、しゃがんで壕の扉に手をかけた。母さんを見る。母さんは一平に頷く。健二が母さんに体を擦りつけた。

一平の顔に火の粉が降りかかった。勝見さんの家が炎の中で崩れ落ちた。また一平の顔に火の粉が降りかかり、体中が燃えるように熱くなった。一平は壕の扉を開けた。

まず母さんが、そして健二を母さんの腰の辺りに押し付けると、一平も中に入り、内側から観音扉をしっかりと閉める。一枚扉だと密閉となり、空気が入らず酸欠になるからと、一枚扉の倍の料金をかけて父さんが大工仲間の鋳物職人に作らせた。二枚の扉を閉めても、真ん中の隙間から空気が確保出来る。

「兄ちゃん」

健二が、大声で呼んだ。

壕の所々に、地崩れを防ぐため板張が施されていて、入口の脇に燭台が設けられていた。母さんがマッチの火を蝋燭に移す。とたんに暖かなオレンジ色の光が広がった。三人で燭台の下で輪になった。

「兄ちゃん」

健二がまた呼んだ。

一平は黙って健二の頭を撫でた。

健二は震えていた、唇が白くなっている。

「前の、勝見さんの家、燃えちゃったね。僕、あんなの初めて見た」

「俺だって、初めてだ」

一平が答えると、健二はほっとした顔をして少し笑うと、泣きそうになった。

「家は大丈夫かな。」

健二は言うと、一平を、そして母さんを見た。

母さんは何も言わず、口を真一文字に結んでいた。

「とにかく、ここで待とう。お父さん達もきっと来る」

一平は自分を励ますように、大きな声を出した。

        三

幸は、幸せだった。

若く逞しい俊蔵に、髪を撫でられていた。俊蔵が何か言っていた。次第に俊蔵の声が

大きくなる。

「空襲だ」

幸がゆっくりと目を開けた。そして、隣の俊蔵を見た。

どかん、と大きな音がした。廊下を走る音がして障子が開き、成男が入って来た。

「早く逃げないと。辺りは火の海だ」

成男の顔は煤けていて、火薬の匂いがした。

「ひどいか?」

俊蔵が訊いた。

「皆、川を目指して逃げてる。早くしないと」

「わかった」

俊蔵は幸に手を伸ばし頷いた。幸は俊蔵の上体を起こすと腰に枕をあてがい、俊蔵の体の支えとした。

「直ぐ支度する」

落ち着いた、しっかりした幸の声だった。

成男は、杉作夫婦が待つ居間へ入った。

「もうここにも火が廻る」

言うやいなや杉作は激しく咳きこんだ。

杉作が倒れこまないように、奥さんが杉作の背中を抱きかかえる。

「先に行ってください」

成男は二人を見ずに言った。

「そんなことできるか」

激しい息使いの中で、杉作のしわがれた声が響く。

大きな音がして、隣家が崩れ雨戸に穴が開いた。

「早く行って下さい。親父達は大丈夫だから。必ず連れて帰るから」

雨戸の穴からの煙で、目が痛くなってきた。

両肩を下から体ごと押し上げるようにして、奥さんは杉作を家の外へと向かわせていた。

「僕は親父たちを連れてきますから。また後で」

居間から長い廊下の途中に俊蔵たちがいた。

俊蔵は座って障子に寄りかかっていた。

「おとっつぁん、おっかさん、早く」

煙の勢いが増し、ストーブを炊いたように熱かった。

「勝手口から出るよ。玄関は煙がひどい」

 成男は蹲っている俊蔵を背負い、幸の手を引くと勝手口へ急いだ。

 勝手口の戸を空け、三人は外に出た。

玄関側の通りは火がまわっていて、隣家から黒い煙が大きく立ち上っている。

 杉作の家からほど近い東陽国民学校に避難することに決めた。

 「おとっつぁん」

 成男が、国民学校に向かうことを俊蔵に伝えようと背中に首を回した時、体ごと飛ばされた。俊蔵は成男の背中から落ちて、地面に大の字になり、幸も飛ばされて地面に転がった。

 生温かいものが頭から流れてきて、目に入った。手で拭って見ると血だった。成男たちが出て来た勝手口がばらばらになって、火が吹いていた。

 成男は叫んだ。俊蔵、幸を呼んだ。幸が立ち上がって俊蔵のところに歩いて行く。

 成男も、俊蔵の傍にしゃがみ込んだ。

 俊蔵は微笑んでいた。幸も微笑んで俊蔵に何か言っていた。

 爆風をまともに受けた成男の耳には何も届かない。隣家より西へ数軒先の地面にも人が倒れていた。

火が来た。隣家が炎上し地面を舐めるように火が廻り杉作の家も炎上はじめた。

 俊蔵を背負おうと、右膝を地面につき肩を回し、成男は左手で俊蔵の体に触れようとした。

 幸がその成男の手を握った。成男は肩を大きく回すと幸と向い合った。

 「火が来る。早く逃げないと」大きな声できちんと伝えた、と成男は思った。

 幸が成男に何か言った。俊蔵を見ると、

俊蔵も成男を見て何か言っている。

 成男は、二人の唇を見た。

 ふたりとも同じことを、言っていた。

『行け』、『行って』と。

         四

隅田川に架かる永代橋は、東京下町に住む人々にとっては、外界とを繋ぐ生命線で、夏場は涼を取る人でにぎわう憩いの場であり、無くてはならない存在であった。非難場所の考え方は二つで、一つは消火効果を考え川辺に避難する。もう一つは広い敷地に建っている、木造作りではない耐火性のある建物に避難すること、であった。前者が大河である隅田川へ、後者が国民学校等の鉄骨造の建物へ、人々を導いた。

火の回りが急で、深川地区中央部の未燃地帯も四方から火が迫り、深川区全域を火で舐めつくす様相を呈していた。

佐々木は、南東方向に向かい走っていた。

十分ほど走ると、息が上がった。隅田川から引かれた掘割は人が数珠繋ぎになって、佐々木とは逆の隅田川へと急いでいた。

 佐々木の住む佐賀町の隣町である福住町に入ると、隅田川まで辿り着く力が無くなった人々とすれ違った。人々は南に位置する臨海国民学校へと向かっている。赤ん坊を背負い子供の手を引いた母親を多く見た。佐々木は走り続ける疲労と悲しさで、胸が張り裂けそうになった。

 佐々木は空を見た。炎で空は赤く燃え尽くされていた。何も考えず、体を動かし続けることに集中した。

 木立が、ざわめく音がした。

 女の悲鳴がして、佐々木は足を止め、振り返った。

 手を繋いでいる親子の防空頭巾に、火が付いて燃えていた。マッチ棒に、火が付いているようだった。親子は手を繋いだまま、仰向けに倒れた。

 佐々木の足元に、火に包まれたこけし人形を一回り大きくしたものが転がって来た。目線を上げると、それらが無数の列をなし、地面を這う細長い虫のように、家屋や人々を焼き払いながら佐々木に向かってくる。

 佐々木は再び全速力で駆けだした。深川公園の茂みが赤く煙っていた。もうすぐ着く。

        五

 「おかあさん、熱いよ」

 健二が言った。

 観音扉の隙間から、炎と煙が入って来る。蒸し焼きだ、一平は思った。

 三人は吹き込む熱風から逃れようと、壕の奥へ移動し始めた。

 「もうだめかな」

 また、健二が声を出した。

 何か、ないか、この熱を防ぐものは。一平は両手で壕の中の預かり物を手繰る。

 箱ものが多く、楯になる物が無い。

 母さんはぐったりと、横たわっている。

 一平は泣くのも忘れて、壕の最奥まで這って行った。

 大きな掛け布団の感触が手にあった。柿崎さんの放り込んだ蒲団だった。冷たくひんやりしている。

 「健二、かあさん、こっちに来て。蒲団に顔つけて」

 二人とも何も言わず無表情のまま一平に寄り添い、三人で頭から蒲団を被った。

 「煙から守ってくれる」

 一平が言った。

 扉を叩く音がした。

 「父さんだ」

 健二が叫び、一平が止めるのも聞かず蒲団をはねのけた。

 途端に煙が顔に飛び込んでくる。一平は健二の足首を掴むと、健二の体を蒲団の中に引き入れた。

 「何するんだ、兄ちゃん」

 「じっとしてろ。蒲団に顔付けて息吸え。言うこと聞かないと、死ぬぞ」

 一平は、布団に顔を押し付け息苦しい中で、本当に父さんが来てくれたのか、耳を澄ました。

暫く音に集中する。

扉を叩く音はしない。

蒲団も少しずつ熱を帯びてきた。

どん、と扉に大きく響く音がした。

健二が蒲団の中でまた大きく体を動かした。

「じっとしてろ。父さんだったらもう中に入ってきてる。何かが風に飛んで扉に当たったんだ」

蒲団から、少しずつ空気を吸い込んだ。ひんやりとしていた布団は燻され、じきに空気浄化の用をなさなくなるだろう。

「熱い」

健二が呻いた。

「一平」

健二の横の母さんが首をもたげた。

「何?」

一平が訊いた。

「ごめんね・・・こんなところで」

母さんの嗚咽が、耳に刺さった。

布団の中が熱く、首の汗が顎につたった。

健二が、動かなくなった。

一平は手を伸ばし、健二の唇に触れた。

微かに、息はある。

「かあさん」

母さんを呼んだ。

「かあさん」

母さんは応えない。

頭の中がはっきりしなくなってきた。布団に押しつけていた顔が横を向いた。煙の匂いも気にならなくなった。

健二の体を弄った。左手が健二の右手に触れる。冷たいな、と思った。健二の手を握った。微かに健二が握り返した気がした。

一平の意識が遠のく。

        六

行けども行けども、火の海だった。走っているうちに、聴力は少しずつ回復してきた。警防団が拡声器で、近くの東陽国民学校へ非難するように呼びかけていたが、成男は国民学校を南下し川辺を西に向かった。和江、一平、健二、そして俊蔵と幸。俊蔵と幸の笑顔が浮かんだ。眉毛が焦げ睫毛は溶け、右目は煙に刺激され、涙が出つくして開けられない。目の前に黒焦げになった女が倒れていた。防空頭巾だけは、焦げてはいるが半分以上残っていた。

滝の流れるような音がした。焼夷弾が成男の足元に落ち、成男の右足が火に包まれた。熱と煙が襲ってきた。

成男は倒れている女から防空頭巾を剥ぎ取り鼻を覆うと、川辺から川へ飛び込む。

「いてえ」

成男の足が川の中の男の肩に当たった。

男の腫れあがった瞼の中の真っ赤な目が、成男を睨んだ。

「ご免」

「気を付けなよ。あんただけじゃないんだよ」

言い続けるのを妨げるように、男の右横に焼夷弾が降った。男は火だるまになった。

男が悲鳴し万歳するように両手を上げるのと同時に成男は川に潜り川底に膝をつき、両手をかきわけ出来るだけ遠くに移動しようと進んだ。

息が続かなくなり川面に顔を出す。まわりを見ると。あちこちに焼夷弾が降っている。煙の熱風で右目は完全に塞がってしまった。

岸から十メートルほど離れたところにいて、水嵩は成男の肩まである。降ってくる焼夷弾を避けながら川の中を移動するしかないな、と成男は思った、川面は煙が立ち込め、熱風が顔をなぶった。成男は女から奪った防空頭巾を手でしぼり顔に当てて直接煙を吸い込まないようにした。熱くて耐えきれなくなると水に潜った。

何度も潜っているうちに熱風と煙に晒された顔も、体も感覚がなくなってきた。

このままでは川の中で終わってしまう。

成男は残された左目で川辺を凝視した。降下する焼夷弾が少なくなってきた感じがした。成男は川辺の一点を目指して両腕両足を動かし、懸命に泳ぎ続ける。

       七

深川公園の西側に建つ矢崎家と、その一帯は真っ赤に燃えていた。

佐々木は壕に駆け寄った。

壕の前の掘割には焼夷弾で燻され真っ黒になった人達が折り重なって浮かんでいる。

壕の中のものは無事か。扉を開け入って確認するか、否か。

中に誰かいるか、扉を叩いて応えを窺うこととした。

右の拳で思い切り叩いた。黒ずんだトタン板が熱かった。

火傷しないように、トタン板に耳を近づけていく。壕の中から応えは無い。

もう一度扉を叩く。

更にもう一度。

待ったが壕の中から反応は無い。

熱で耳が痛い。

大きな音がして、矢崎家と軒並びの家が崩れ落ち、佐々木に大量の火の粉が降りかかる。

同時に頭上で何かが弾ける音がして、掘割に積み重なる死体に焼夷弾が落ちた。

掘割の死体の炎がガスバーナーのように壕を直撃してきた。じきに、死体を焼く大量の煙が辺りに充満するだろう。壕の中のものは人も、そして物達も、燻され穢されていく。

佐々木は、炎に晒される壕を凝視すると、

壕に向かって頷く。

そして、歩を進め壕の前に立つと、炎を体で受け止めた。

佐々木は火だるまになった。両腕を上にあげ燃え続けながら、壕の扉に抱きつくように倒れ込んだ。

        八

どのくらいの時間が経ったのか。猛烈な喉の渇きで一平は目を覚ました。頭が割れそうに痛かった。顔に掛った布団の隙間から明りが差していた。

布団を、両手ではね上げた。

壕の中は、光で満ちていた。

充満していた煙も消え失せていた。

生きていた。一平は生きていた。

「一平」

母さんが擦れた声を出した。

「空襲は・・・」

「助かったんだ」

一平は、自分でもびっくりする位の大きな声で応えた。

「健二は」

母さんが、訊いた。

一平は、健二を見た。

健二は、隣に寝ていた。

動いていなかった。

「健二」

一平は大きく叫んだ。

抱き起こし何度も揺さぶってみたが、健二は起きなかった。

母さんが一平をはねのけ、健二にむしゃぶりつく。

母さんと一平の泣き声が、狭い壕を震わせ続けた。

三月十日・朝

 鼻から入ってきた水にむせて目が覚めた。

 いつの間にか、明けていた。

成男は固いものにしがみついて、川の中に浮いていた。潰れた右目がかゆくて堪らなかった。頸を回し左目で右腕に抱え込んでいる固いものを見た。男の死体だった。顔が膨れて西瓜ほどの大きさになっている。成男は慌てて死体から右腕を離そうとしたが、長時間水につかり同じ姿勢でいたため右腕に力が入らず動かない。体を回しこみ、左手で何とか死体を振りほどく。両足を伸ばしてみると、川底に足がついた。立つと、顎下くらいの水位だった。

成男は川底を踏み両足の感覚を確かめながら、ぐるりと四方を見渡した。

海が、見えた。東京湾が一望できた。全てのものが一晩で焼き尽くされ、何も残っていなかった。

青い海は、憎たらしいほど美しかった。

声を出して泣いた。涙は出なかった。

海に背を向け、向こう岸へ歩きはじめた。

幸いなことに川は隅田川へと流れていて、岸に這い上がると成男の家からほど近い数矢国民学校が見えた。

三階建ての数矢国民学校は、奇跡的に焼けずに残っていた。

濛々とした煙が立ち込める中を、成男は早足で急ぐ。

家はあとかたも無かった。

「和江、一平、健二」

成男は叫びながら、壕へ走った。

 壕を護るようにして人が覆い被さっていた。

佐々木だった。顔は真っ黒で判別できなかったが、いつもの帽子で佐々木と分かった。佐々木が、空襲の炎と煙と熱から壕を護ったのか?

佐々木を壕から離し、壕の扉を開けると、中から声が聞こえた。

「和江、一平、健二」

呼び、壕の中に飛び込む。

「父さん」

一平が叫び、母さんは泣いて応えた。

三月一八日

「父さん、本当に燃やすの?」

父さんは頷いた。

「本当にやるの?」

一平は心配そうに訊き、父さんの顔を覗き込んだ。

「ああ、やる」

健二は空襲の翌日に荼毘にふされ、昨日が初七日だった。

掘割の水も静かに澄み、一平達の背後に広がる海の青さに呼応している。

「でも、あそこは・・・壕は、健二の最期の場所だよ。あそこで死んだんだ。健二は・・・」

「そんなことは、分かっている」

父さんは低い声を出すと、壕から目をそむけた。

「それに、佐々木さんの物や、まだ取りに来ない人達の物も焼くの?」

「そうだ。今日で、終わりにしたいんだ」

今度は、父さんは一平をしっかり見据えて言った。

「空襲だ。空襲と同じに焼くんだね。父さんも同じことをするんだ」

父さんの顔が、どす黒くなった。右拳を胸に構えて、近づいて来る。

一平は逃げず、真っ直ぐに父さんを見た。

「やめて」

母さんが叫び、一平と父さんの間に体を入れた。

「健二と一緒に死にたかったと想ってるのは、あなただけじゃないのよ。私も、一平も、同じ気持ちなのよ」

言うと、母さんは地面に膝を着き、泣き崩れた。

母さんが泣きやむと、父さんは母さんの肩に手を置いた。

一平も母さんの肩に手を置いて、そして抱き起こしてあげたかった。

「お前達の好きにするがいい」

父さんが、くぐもった声で呟いた。

平成二十六年・現在

 一平の回りを、子供達と、孫達、そして曾孫の女の子が一人、囲んでいた。

 「傘寿のお祝い、ありがとう」

 少し嗜んだ酒で上気した赤ら顔で、皆を見渡し、一平は言った。

 「あと二十年頑張ったら、百歳だよ。おじいちゃん、頑張って。」

 孫の一人が言った。

 一平は、額はかなり後退しているが老人としては豊量の白髪を、右手で撫ぜる。

 「もう充分に、生きた」

 「さぁ、お父さん。呑んで。取っておきの大吟醸だから。中々手に入らない、秘酒ですよ」

 来年五十に手が届く長男が、酒をすすめてきた。長男は誰かに似ている、と思った。

 父さんだ。父さんの顔だ。

一平の脳裏に、父さんの顔が・・・浮かんだ・・・母さんの顔も・・・この母さんの顔は・・父さんに必死に抵抗した時の・・・防空壕か・・・乱暴された子・・・芋焼酎を持ってきた柿崎さん・・・真っ黒焦げになった佐々木さん・・・そして、健二・・・七十年も前の出来事が走馬燈のように映し出される。

 「お父さん、どうしたんですか?」

 何かに思いを巡らせている一平見て、長男が心配そうな声を出した。三年前に一平は伴侶を亡くし、長男家族から同居を誘われたが断り、一人暮らしを続けていた。

 長男の声で我に返った。皆が、心配そうな顔をして一平を見ている。

 「昔のことを、想いだしてた」

 一平は桶に箸をのばし、中の鮨を摘まむと口に放り込んだ。

 「うん。この穴子はうまい。」

 皆は安堵し、長男は少し曖昧に微笑むと頷いた。一平はよちよち歩きをし始めた曾孫の女の子を呼ぶと、膝の上に抱く。

 小一時間で宴は終わった。一平は少し呑み過ぎて足元が覚束なくなり、タクシーを呼んでもらった。

 皆に見送られて、タクシーに乗り込んだ。

 「気をつけてね」

 長男より三つ下の長女が声をかけた。

 「家に着いたら電話してね」

 大学生の孫が言った。

 タクシーの中は適度に空調が保たれ、気持ちが良かった。

 目を閉じると、又父さんの顔が浮かんできた。

 壕は燃やされなかったが、佐々木さんからの預かり物も含め壕の中の物を引き取りに来る人は無く、食糧以外は区の役人が引き取りに来た。

 壕の中の物が運び出されるのを、父さんは黙って見ていた。

 一平は、壕の前で佇んでいる父さんに訊いた。

 「父さん、佐々木さんからの預かり物、大丈夫かな。大事にされるかな」

 父さんは、ちらりと一瞬、一平を見たが、何も言わず下を向いた。

 父さんの、あの時の顔・・・。あんな悲しそうな顔を見たことは、無かった。

 「カモメが、たくさん来た」

 母さんが大きな声を出し、指を差した。

 一平は、父さんと一緒に振り向き、海を見る。

 煌めく東京湾の青に、カモメの群れが島となり浮かんでいる。飛来するカモメは途切れず、白い島が次々に出来あがる。

 一平の体から力が抜けていく。遠く、夢の中にいるみたいだった。

                【終】



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ