第二話『壁に耳あり天井に目あり』
目が覚めて初めて見えたのは木目だった。
アパート住みの私には、田舎の祖母の家に行った時以来の久しぶりな光景である。
少し古くも感じるが、掃除が隅々まで行き届いているようで汚さは感じない。
そうそう。天井の木目といえば、祖母の家の天井は少し苦手だったなぁ…。
子供がよくする話ではあるが、天井の目が此方を見ていて、悪い子が居たら食べられる。といった噂を聞いてから、天井が怖くなったのだ。その後就寝時に、祖母宅の天井に食べられると大泣きしたのは良い思い出である。
……って、ちょっと待った。
…″目が覚めた″?
私は先程まで何をしていたんだったっけ?
律。噂話。掲示板。迷い路地。
そして、誰かに話しかけられて…
『…あ、何だ起きたのか』
そうだ、こんな風に知らない誰かに話しかけられて…。
…ん?
きょろきょろと辺りを見回し声の主を探すも、そこそこ広い和室には影の一つすら見えやしない。
はて、気のせいだったのだろうかと一息吐いて、改めて天井へと視線を戻した。ら。
『何してんの?頭おかしい系?マジウケる』
目。
目だ。
天井に目がある。
なんてタイムリー。噂をすれば影とはこの事だろうか。
目のように見える、なんて生易しいものではなく、軽く掌くらいはあるだろう大きさの人間の目が天井に生えていて、ぎょろりぎょろりと黒目を動かしては此方を見つめているではないか。
「-----ッ!?!?!?!?!?」
『あ、待って待って。俺ただの監視だから!怖がらせた、なんて知られたら七緒にどやされるだろ!?』
人間、本気で驚いた時には声が出ない物である。
ゆっくりと反芻して、理解した頭は、最早口をパクパクと動かす信号しか送ってはくれない。
しかし、それだけでも天井の目は動揺したようで(怪異のわりにはやたら人間みのある反応だ)一瞬大きく見開いたかと思えば、瞼を閉じて消えてしまった。
まだがたがたと震える身体を両手で押さえ、恐る恐る天井へと目を向けるも、先程の出来事が嘘だったかのように目は何処にも見当たらない。
…なんだったんだ、一体。
とりあえずそろり、と自分が今まで寝ていたのであろう布団から抜け出してみる。
誰の気配も感じない。一先ずは安心のようだ。
「…律。律?何処?」
今のところ一番心配なのは、途中から見えなくなってしまった律。
好奇心は旺盛だが人一倍怖がりな彼女の事だ、こんな状況では平常心を保っていられないだろう。
…探しに行ってみようか。
そっと音を立てないように襖を開け、覗き込んでみた。
どうやらこの部屋は角部屋のようで、少し薄暗い廊下が右に続いている。
「…此処で待ってても仕方ないもんね」
自分に言い聞かせるよう小さく呟いて、一歩ゆっくりと足を踏み出せば、ひんやりとした空気に少し背が粟立つ。
はっきり言って、私だって怖いものは怖いのだ。
出来ることなら夢であって欲しい。
なんまんだぶなんまんだぶ…と呟きながらへっぴり腰で歩く女子高生のなんと滑稽なことか。
*
右手をつき壁に沿ってひたすら歩く。
どれだけ廊下長いんだ…ああ、古いとはいえ壁は土壁ではないんだなぁ…なんて、思考が迷子になり始めた頃の事だった。
キィ、と扉の開く音と共に、怠そうな声で誰かに話かけられた。
「オイコラ阿呆タオル、さっきから部屋の前ウロウロすんじゃねぇよ。おかげでバイト明けだっつーのにろくに寝れやしねぇ…」
「ヒッ」
開いたのは目の前の扉だ。
眠そうに目を細めた男性がドアノブに手をかけ、開けたままの状態で此方を見ている。
薄暗くてあまりよく見えないが、わりと高めの身長で見下ろされるのは少し怖い。
おまけにオレンジと赤のメッシュ、ピアスとくれば、怪異とは別の意味で恐怖を感じる気がする。
小さく悲鳴を上げてしまったのは許して欲しい所である。
「んー…?……あァ?誰だアンタ」
「た、ただの善良な女子高生です…!」
「………人間か?」
「え、あっ、はい…?」
初対面の相手に人間か、とは。
…このお兄さんが人間でない可能性もあるのか、と今更ながらに考える辺り、我ながら随分と呑気な頭だ。
お兄さんは、少し疑問符が入ってしまったものの肯定した私を、品定めするようにじろりと眺め、溜め息を吐いた。
頭をガシガシと掻きながら廊下に出てきた姿は、如何にも「面倒くさいです」といった様子で、なんというか…居心地が悪い。
「なぁ、お嬢サン。もしかしてずっとこの廊下歩いてるか?」
勿論。ひたすら右手をついて歩き続けてきたのは嘘ではない。
こくこくと頭を縦に振り肯定すれば、お兄さんは眉を寄せ、やっぱりなぁ…呟いた。
さっきの"ずっと部屋の前ウロウロしないで"が気になってはいたのだけれど…まさか、私の方がおかしくなっていたのだろうか?
「巻き込まれたんだなァ…可哀想に。特別に助けてやるよ、お嬢サン」
成程。
お兄さんの手から炎が上がっている幻覚を見るくらいには、私はおかしくなっているようである