028
無情にも午前最後の授業のチャイムが鳴る。
普段ならそれは、昼休みという束の間の自由の時間を告げる解放の鐘の音に聞こえるものだったし、購買に向かう人などにとっては、戦闘開始の号砲にも聞こえるだろう。
……今日の俺には弔鐘に聞こえました。
弾けるようにざわめき出す教室の中、俺は息を落ち着けて、ちらりと後ろの様子を窺う。
だが後ろの席の主の姿は既に無かった。
――もう行ったのかな……。
いくらなんでも気が早すぎなんじゃないですかね。なんとなく言われるがまま焦って従うのも馬鹿馬鹿しく感じられて、俺はため息をついた。
――別に栂坂さんが怒ろうと……。
机に伏せってそんなことを思ってみるものの、しかし気分が晴れるわけでも無く。どうにも人を怒らせたままにしておくというのは、すっきりしなかった。栂坂さんの顔色窺っているわけではないんですよ、決して。こればかりは自分の性格というしかないだろう。自分で怒らせておいてそれを気にしていれば世話無いが……割り切れる性格が欲しい。このまま旧校舎にも赴かず、落ち着いて弁当を頬張れるような性格が。
渋々と、席を立つ。処刑台まで自分の足で上るときの心持ちとはこういうものなんだろうか。
旧校舎までの道のりで気持ちを整えよう、そう思いながら廊下に出た。
瞬間、後ろ襟を掴まれる。
「うひゃぁあっ!!」
「大声を上げないでください殺しますよ」
脇腹に銃口を突きつけながらでも言う台詞だと思う、それは。
「あ、あの……旧校舎で待っているのでは」
確認するまでも無い、後ろに居たのは黒髪少女の姿をした死神だった。
「卑怯者の四埜宮くんなら逃げたりするかなと思って。さ、行きますよ」
「俺、ちょっとトイレに行きたくて……」
「我慢したらいいじゃないですか」
「そう言われても、こう……体に悪いし、そんなに経たずに我慢しきれなくなると思うんですけど」
「それはその時になったら考えましょう。高校生にもなって生き恥をさらすのも、いいんじゃないですかね」
唇の端で笑ってみせる栂坂さんだったが、目が完全に据わっているため見る人を全く安心させない表情だった。言ってることも完全ド外道ですし……トイレ行きたいが嘘で良かったよほんと。
黒髪眼鏡の読書好きの女の子ってさ。もっとこう世間知らずで、お淑やかでさ、優しくてさ……。
「ほら、さっさと歩いてください」
深いため息。ご都合の良い空想上の非実在青少女なんて、現実によって打ち砕かれるためにあるもの。気持ちを整える余裕なんて与えられないままに、俺はよろけながら、昼休みの活気に溢れる廊下を歩き出した。
昼休みとはいえ旧校舎にわざわざ行く奴は居ない。文芸系の部室が散在するあたりなら食事がてら仲の良い部員同士で部室にしけ込んで、というのもあるのかもしれないけれど。少なくとも、毎度の暴力現場に利用される物置代わりの教室近辺には、人の気配は全くなかった。
毎度ことあるごとに人気の無い教室に呼びされて、床に引き倒されて足蹴にされるとか何のいじめかと思う。
窓も閉め切られてじっとりと重い夏の空気が籠もった年季の入った教室。
風の通る新校舎とは違い、すぐにじっとりと肌に汗が滲み出す。それは栂坂さんも一緒のはずで……。
人気の無い教室、夏の空気に混じる汗の匂い。
あ、これ、本来ならエロい展開ですね。紳士な四埜宮悠木ですけど、ちょっとした知識として知っております。
「何をにやにやしてるんですかね、四埜宮くんは。人に散々恥をかかせておいて」
まぁ勿論そんなのは空想上のものでしかなく、現実の目の前には怒りで爆発寸前の怖い栂坂さんが居るのみだ。
「良いじゃん、死ぬ前ぐらい楽しい妄想させてくれたって……」
「気持ち悪い人ですね。表情筋弛緩させてどんな妄想してたんですか」
蔑む目をする同級生に、俺はふっと唇の端を歪めた。どうせ何やったって死が待っている。死を覚悟した人間は強いとどこかの人も言っていた。
「あれ、人の妄想の内容知りたいんですか。良いですよ、栂坂さんが知りたいっていうなら教えてあげようじゃないですかー」
「結構です」
「自分で言ったんじゃないですか。ご想像の通りいかがわしい内容でしたけど、ちゃんと教えてあげますからねー」
「…………」
「人気の無い教室に踏み込んだ二人は」
「――っ!」
真っ赤になった黒髪の同級生が、右手をひらめかせる。
危機に際して瞬時に認識回路が切り替わるのは、相変わらず銀剣による訓練の賜物というしかないが、惜しむらくは、やはり現実の低性能な体は認識についていかないということだ。
スローモーションで迫り来る白い掌。とびずさってかわそうと試みて……足がもつれる。
「あ、うわっ……!」
栂坂さんの手は俺の鼻先を掠めるに止まった。
そして、後ろ向きに偏った重心を、俺は復元すること能わず。
後頭部から、床に落下する。なんか前もこんなことありましたよね……。
「うぐっ!!」
目の前に火花が散って、遅れてきた灼熱の激痛に俺は痙攣する。
「四埜宮くん……」
頭上から降ってくる哀れみに溢れた、同級生の声。優しく介抱してくれるとかそんなことは望むべくもないことぐらいは俺も解っていたけれど。
「雑魚が」
冷めた声に呆然として見上げた、無表情な栂坂さんの口元が昂揚を抑えきれないとでも言うように歪む。
「ぐぇっ」
……その瞬間に、腹部に圧痛を感じて俺はつぶれたカエルみたいな声を漏らした。
俺の体の上にゆっくりと、しかし無慈悲に下ろされたほっそりとした足。
あの、いつものことながら……このタイミングで追い打ちかける? みたいな、栂坂さんどうして……みたいな、こう、整理できない気持ちがわき上がってきて、泣きそうになった。
「何呆然とした顔してるんですか。いつも四埜宮くんがゲームの中でやってることですよ」
ああ、これが因果応報……じゃなくて、だから。
「前も言ったかどうかわからないけど、ゲームと現実の区別は、きっちりつけた方が良いと思うんだよね……」
「私だってこんなことしたくはないです。でもいつも四埜宮くんが私を怒らせるようなことばっかりするから仕方ないですよねぇっ」
「うぶっ……あ、朝は、栂坂さんがあんまり酷い反応するから!」
「それだって、元はと言えば四埜宮くんが、銀剣で変なことを私の友達に吹き込むからイライラしてたんですけど!」
「と、友達!?」
「反応する点そこじゃないでしょうっ!!」
「ふぐぅっ!!」
今のは危なかった、昼飯食べた後だったら確実に討ち死にしていた……。
「昨日って……」
クロバールとの戦い。思い出すのにはそんなに時間がかからなかった。
青い髪と瞳の二刀流使い。彼女と、カンナのことを話したことを。
「……剣の巫女?」
「そうですよ、ガランサスからメッセージがあって、ユキが、私のことを自分のものだって言ったとか、そんなことを……っ」
「……Oh」
眦をつり上げたまま顔を赤らめる栂坂さんに、そんなエセ外人みたいな怪しい感嘆を漏らしてしまった。
確かに、俺は『カンナは渡さない』そう、あのエルドールの女剣士に告げた。でも、なんかそれはニュアンスが違うというか、なにその典型的な伝言ゲームみたいなの。
あと栂坂カンナさんもね、そこは勘違いするのは良いとして、自分のものって言われたことに照れたりデレたりするのが、筋というかしきたりというかジャパニーズトラディッショナルカルチュアだと思うんですけど、なんで踏んだり蹴ったりになってしまうんでしょう、お兄さん悲しいよ。
なんだか、誤解だなんだと弁解するのも面倒だし何か虚しい。
「栂坂さんは、あの子と仲良かったの?」
話を逸らすわけでもないけれど、ふと浮かんだ問いかけに、栂坂さんは少し、目を逸らした。
「エルドールで、最初の頃から一緒だったんです。色々誘ってくれたり、戦い方教えてくれたりして。たぶん、一緒に遊ぶことは多い方だったと思うんですけど」
「仲良かったんだよね。剣の巫女も言ってたよ、カンナを奪っていくなって」
俺の言葉に黒髪の女の子ははっとして、伏せた顔で、でも、唇の端が少し緩む。
「やっぱり亡命するの、やめる?」
「……やめません。決めましたから」
そこに一瞬も躊躇も無かったかといえば、たぶん、そんなことはなかったと思う。
でも、栂坂さんははっきりと言い切った。
「自分のやりたいことやって、その上迷惑かけたレギオンの人とも仲良くしたいなんて、なんだかずるいじゃないですか」
「あんまり、考えすぎちゃだめだよ? レギオンだのなんだのと、誰かと仲良くするのは全く別のことだからさ」
「……四埜宮くんは、そうやって時々変に真面目なこと言って」
「変にって酷くない?」
「だいいち、そんな格好で言っても全然説得力無いですからね」
同級生の言葉にはっと思い出す。普通に会話してたけど、俺は床に倒れ伏して踏まれたままでした……というか、踏んだまま話をする栂坂さんもどうかと思うよ?
「あと、そういえばガランサスから伝言、預かってます」
漸く足をどけてくれた栂坂さんに、ため息をつきながら体を起こして、埃を払う。
「ゲームの中の伝言をリアルで聞くって言うのも、変な話だけど……?」
「次は絶対、倒してやる、だそうです」
「……お手柔らかに願いたいものだけどね」
苦笑いしながら、俺は立ち上がる。
むしろやられそうだったのは俺の方だったというのに。
だけど、栂坂さん――カンナの友達らしい、二刀流の強敵とは、きっとクロバールとの全面戦争の場で再戦することになるんだろうなと、確信めいて、感じていた。
そして、このままではきっと勝てないだろうということも。