010
「ユキ……」
伸ばした手は届くこと無く、淡い色の髪をした女の子は顔を伏せて、淡い光のエフェクトを残して消えていった。
一瞬だけこちらを見た、怯えたような目。ユキが一体何を話し、何を思い詰めてログアウトを選んだのかは、カンナに知る術は無く。
ただ、カンナと同じように何も知らないはずの観衆は、口々に囃し立てる。
「何だよ、落ち逃げかよ」
「格好悪いなぁ……」
唇を噛みしめて、戦いの熱狂の去った屋根の上を見上げた。そこにある、すらりとした長身の影に、眼差しを向ける。
「マスター!」
軽い身のこなしで、屋根を蹴り、目の前に着地してみせた、レギオンマスター。……かつての、レギオンマスター。
「私はもうカンナのマスターじゃないけどね」
そんな台詞に、背筋を冷たい感覚がなでる。たったそれだけの言葉に、きっと、オルテウスにはそんなつもりは無いのだろうけれども、自分の罪を糾弾されたように感じて、カンナは怯えたように肩をすくめてしまった。
……だけど、後ろから優しく肩に置かれた手が、黒髪の少女の細い肩を支える。
「慕ってくれていたメンバーに対して随分なお言葉ですね。きっと、直接お会いするのは初めまして、ですよね」
振り返った、優しげな笑顔。それなのに、その奥に高温の炎を宿した、蒼氷色の瞳。
レティシアだった。
ユキやカンナとレティシアが現実では同級生だと言うことまで流石に知るはずも無いオルテウスは、流石に面食らったようだった。
「そうだね、初めまして。こんなところでお目にかかるとは思わなかった、ラウンドテーブルのマスター殿」
「私の友達が随分とご迷惑をおかけしたようで。お詫びと言っては何ですが、私がお相手仕りましょうか」
殊勝げなことを言いながら、ストレージから実体化した古木の杖を構えるレティシアに、カンナでさえ冷や汗をかく思いをした。
いつもにこにこと微笑んだまま、ユキに対しては何かと厳しく当たるレティシア。恐らく本気で怒っている様を見るのは初めてだった。
だけど、オルテウスはそれに気圧された風も無く、ただ、カンナには見慣れた仕草で、困ったように後頭部を掻きやった。
「アグノシアの屋台骨とも呼ばれるレギオンのマスターとここでことを構える気にはなれないな」
「そうですか。ですが、友達がログアウトしたくなるようなことをされて黙っていろとでも? ユキは、何かとどうしようも無い人ですが、戦いには誇りを持ってる人。普通に負けただけで、落ち逃げするとは到底思えないので」
銀剣の中では長い間戦友だったという二人。何ともアレなプレイヤーになってしまって以降のユキしか知らないカンナには、知り得ない頃のことに、そんな言葉はきっと根ざしているのだろうと思う。
カンナは、意を決して、口を開く。
「マス……オルテウスさん。戦いの時ユキと何か話してたみたいですけど、もし、カンディアンゴルトのことなら……ユキのせいじゃなくて、あれは私が……私が選んだことだから」
「別に……誰のせいだとかは全く思ってないのだけどね」
オルテウスはまた困ったような苦笑を浮かべた。
「ただ、やはり私もレギオンメンバーを巻き込まれたのだから訊いてみたいことぐらいあって。なんで彼女はあんな人を煽る戦い方をするのかなって。カンナや、レティシアさんはそう、疑問に思ったことはないのかな?」
「……私は」
疑問に思ったことなんて無かった。最初の出会いがあれだったカンナにとっては、ユキというのはああいう人。当然現実の四埜宮悠木とは随分違うなとは感じていたけれど……自分だってゲームと現実は違う。あれがユキの遊び方なのだと、思っていた。
ただ、レティシアは、少ししてふぅとため息をついた。
「ユキにはユキの考え方があるんだと思いますよ。思うところも、きっと。ただ、それはそんな問いかけに対して数語の答えになるほど、安いものじゃ無いんだと、思いますけど」
「そうか、そういうものなのだね」
オルテウスは剣呑なレティシアの言葉から、何か感じ取れるものがあったようだった。
そして、その長身を翻す。
「失礼した。また縁があれば……戦場で」
「嫌でも戦うことになりますよ、きっと」
オルテウスの姿もまた、光に包まれて消える。その帰り先はユキと異なり、きっと、エルドールのレギオン城なのだろうけれど。
主役二人が去っても未だ、ざわめきの去らないメルドバルドの夜の景色に、カンナはぼんやりと佇んでいた。
◇ ◆ ◇
「何やってんだろ……俺」
寝転がったままの目を、朝日が射る。普段なら寝ぼけた意識のまま布団を被り直して、雪乃にたたき起こされるまで微睡みをむさぼるところだが、今日の意識は冴えていた。
当然といえば当然。昨夜一睡も出来ず醒めきった目のまま、朝を迎えたのだから。
全身に満ちる気怠さとは逆に、やけにはっきりとした意識。
掲げた腕で目を庇うと、暗闇に浮かぶのは、銀剣の景色ばかり。
ため息をつく。
「兄様、起きてる?」
ノック無しのところは相変わらずだったが、いつもとは違った調子で寝間着のままの雪乃がドアの隙間から顔を出す。普段ならポニーテールに結っている髪も下ろしたままのせいか、元気がトレードマークの妹がやけにしおらしく見えた。
「ああ、一応」
「もしかして、寝てない?」
「ん、いや……」
その通りとも答えづらく濁した語尾に、雪乃はため息をつく。
「寝てないんだよね。こんな時間に兄様がちゃんと起きてるわけないもの」
看破された理由があんまりで、少しばかり自分の日常生活態度を悔い改める気になったが、まあ、どうせ隠しても詮無いこと。寝返りをうって、雪乃の気遣わしげな視線から逃れた。
「大丈夫?」
「今日は学校休むよ」
「ん……まぁ仕方ないと思うけど、父様にはばれないようにね、それでゲーム禁止なんてされたらきっと兄様死んじゃうから」
「そうだな、きっと死んじゃうな。気をつけるよ、ありがとう」
雪乃の顔を見ないまま、そう応えて、俺は頭から布団を被った。
朝の光からも逃れて、妹が階段を下っていくのを、くぐもった音で聞く。
本当に何をやっているんだろう、俺は。
思い出すのは、昨日の無様な敗北の光景。視界に入りかけたカンナの顔、その表情を知り得ぬまま、さらに無様にログアウトしたユキ。
それだけではなく、随分昔の景色……さよならと、永久の別れの言葉を告げて消えて行ったレギオンメンバーの笑顔までもちらついて、頭を抱えた。
誰かさんのことを、ゲームで学校休むだなんて、と馬鹿にしたばかりなのに、言えた口じゃ無い。自分でもこんなにメンタルが弱いとは思わなかった。豆腐も豆腐、絹ごしも良いところだな……。
……何のためにゲームをするのか、なんて難しい質問だ。
何度か自分に問いかけたことが気がしたが、答えが出た試しは無かった。
何のために、なんて問いかけ自体が間違っているのかも知れない。
楽しいからゲームをする。憧れる世界がそこにあって、痺れるような興奮があって、たまらなく楽しいからゲームをする。
だから、辛いならゲームなんて止めてしまえば良い、さっさと引退してしがらみの無い新しいゲームでも始めれば良いのに、確かにそう思ってもいるのだけど。
こんなにどうしようも無い気持ちなのに、止めようと思えないのはどうしてだろう。
単なる中毒なのか、それとも、得体の知れない意地なのか……。
何かこのゲームで見つけたいものがあるからなのか。
寂しそうだったレギオンメンバーの笑顔。あの日のカンナの泣き顔。
下から母親が名前を呼ぶ声が聞こえた。
それに休む旨の返事をして、俺は薄暗い布団の中で目を閉じた。
……人間現金なもので、あれだけ眠れなかったというのに、休むと決めた途端に眠気が襲ってくるものだ。
ただ、初夏の湿った暖かさに包まれながら、良い夢は見られないだろう、そう、確信していた。