007
夜の街を疾駆する。
鹿角亭から停泊しているゴンドラを飛び石伝いに、メルドバルド本島の煉瓦造りの建物の屋根へと駆け上った。
一際高い尖塔に一足跳びで飛び乗り、あたりを見下ろすと、水面に映える光が星空を逆さまにひっくり返したみたいで本当に綺麗だった。
小さい頃に読んだ童話。星空を駆ける鉄道の中で、どこまでも一緒に行こうと言ったのは誰だったっけ。
「何ユキは勝手に一人で逃げてるのかな?」
だけど、そんな感傷からは一瞬で引きずり下ろされる。夜風に乗ってきたかのように聞こえる、レティシアのちょっと怖い声。
「いやー、鹿角亭で騒ぎなんて起こしたら流石に申し訳ないし、それに」
「クロバールとの悶着の場にラウンドテーブルのマスターが居たなんてことになったら、迷惑がかかる、なんて思ってないよね?」
「……あ、うん、まぁ」
図星というか……何というか。
風の向こうで、ため息が聞こえた。
「その程度で揺らぐような評判でマスターやってないから大丈夫だよ。私が十分無茶苦茶やる人間だって、レギオンのみんなも、他のアグノシアのレギオンの人達もわかってるんだから」
「……そっか」
何ともつかない吐息が自分の口からこぼれ落ちた。
レティシアは凄い。その自信も、そしてきっと、その自信を裏付けている色んな努力も。人の目を気にして、いつだって体面を繕おうと臆病だったキャメロットのマスターなんかとは大違いだ。
ともあれ。
「まあ……それもあるけど、何よりは、あの程度の連中、一人でなんとかしなきゃ、悪逆非道のユキの名が廃るって言うところかな」
「その誇りや意地は、もうちょっと有用なところに使った方が良いと思うんですけどね」
カンナの呆れた声に後頭部を掻く。
尖塔から飛び降り、来た道を振り返れば、5人ばかりの追っ手の連中が遠い屋根の端からこちらめがけて一直線に駆けてくる。
こういうこと自体初めてじゃなかったし、屑プレイをしている以上、如何様に絡まれる覚悟も出来ている。
先に狙ってきたのはそっちじゃないかと言いたいところもあるが、あちらにもあちらの正義があるだろう。レギオンメンバーが煽られたとあっては、捨て置いてはレギオンマスターの名が廃る。そう言う意味では、仲間思いの良いマスターなのかもしれない。そして、おそらくは多くの人はあちらの方を正義と見なすに違いない。
だからといって、それに従ってやる義理なんて一つたりとも無かった。
俺はストレージから清冽の剣を引き出し、ぐるんぐるんと回して肩に背負い込んだ。我ながら芝居がかっていると思わないでも無いが、ここは銀剣という物語の中。
――私はユキ。
我に返った奴の負けなのだ。
屋根の上の異常を見て取ってか、少し辺りがざわめき出す。喧噪を遠くに聞きながら、スキルのフォーカスを絞る。本島といえどそこまで広くも無い島に築かれた建物の屋根は狭く、一本道。そこを一列になって疾駆する集団の先頭の優男。その胸甲に焦点があった瞬間、俺は青白い刀身を星明かりに煌めかせた。
「狼の……」
連中は、俺のことをこんな街の中で囲んでどうするつもりだったんだろうか。デュエルでも挑んでくるつもりだったのか、それとも。
どちらにせよ、相手のやりたいことに俺が付き合ってやる義理も無い。
笑う。精一杯酷薄そうに、口の端をつり上げて。
「……牙ッ!!」
弾丸のように撃ち出される自分の体。煌めく夜景の中、青白い尾を引く清冽の剣は、あるいは、流れ星のようにでも見えるだろうか。
街中のPKは不可能。デュエルも相手との承諾を交わさない限り発動しない。それなのにスキルを全力で発動させた俺に、追っ手の連中は困惑の表情を浮かべて立ち止まった。
だが、その表情はすぐに焦りと狼狽に上書きされた。
一層加速する狼の牙、その衝突コース真っ正面に自分たちが居ることを把握したからだろう。
PK不可能……それはノーダメージなだけで、街中であろうと攻撃もスキルも、ダメージ以外の効果を十全に発揮する。
スキルエフェクトで派手に煌めく清冽の剣の切っ先が、触れる先から追撃者達を派手にはじき飛ばしていく。そしてここは狭い屋根の上、バランスを崩した連中は片っ端から屋根から転落し、軽装で運悪く天高く跳ね上げられた奴は、水路まで吹き飛んで高い水柱を上げた。
靴底が煉瓦を擦る制動の音も高く、片手をついて停止すれば、屋根の上に残ったのは俺一人。
事情を全く把握していないだろう野次馬連中は、しかし、やんややんやと歓声を上げた。見世物としてはそれは面白かっただろう、水路で水浸しになる羽目になってその上笑われる奴らにとっては溜まった者では無いだろうけど。いつだって、第三者は言いたいことだけ言って身勝手だ。
「きゃー、ユキちゃんーっ」
そんな黄色い歓声が聞こえてきて、思わず微笑んで小さく手を振ってしまう。戦場で悪目立ちするユキさんにはたまにファンもいるらしく、時折見ず知らずの人に声をかけられたりするもので……。
……だけど、手を振ってしまってから、その声の主が見知った白銀の髪の美少女であることを把握して固まる。
満面の笑みのレティシアと、その隣で、ゴミ屑を見る死んだ目をしたカンナさん。
「何やってるんですか、気持ち悪い」
パーティープライベートのトークで、そんな氷点下のお言葉。
「あ、あのですね……ファンサービスと言いますか、名前呼ばれたら誰でも返事するよね?」
「そうですね、気持ち悪い」
「あ……はい」
暗澹たる気分でふうとため息をついた。戦闘と呼ぶほどでも無いがその高揚も一瞬で冷め、テンションは低空を突き抜けて地面に激突気味。いつまでも見世物になっているのも居心地が悪い。愛剣をストレージにしまい直そうとしたその時、おぉっ、と突然どよめいた周囲の気配に、俺は動きを止めた。
ほんの数瞬の差で、後ろに遠く鳴るゆったりとした足音を耳が捉える。
連中懲りずに舞い戻ってきたんだろうか……そう思いながら振り返った、だが、同じ屋根の上に気取らない格好で佇んだ男は、息の乱れも無く……見覚えの無い顔だった。
所属国家はクロバール。それにレギオンエンブレムは……。
「……何かご用ですか?」
清冽の剣の切っ先を垂らし――ドイツ流剣術でいうところの、愚者に構えて、俺はそんな問いを相手に投げかけた。
「いやね、同国の人間が今や不倶戴天の敵であるアグノシアの人に酷い目に遭わされてるのを見て、黙ってるのも愛国心にもとるという気がしなくも無くて……なんてことはこれっぽっちも思っていないんだけどさ」
立ち振る舞い共々、飄々として今ひとつ読めないそんな言葉に、俺は小首を傾げ……だけど。
「……本当のところは、うちの元メンバーをたぶらかした人がどんなものなのか、ちょっと手合わせ願いたくて」
鼓動が跳ねて、寒気に似た感覚が背筋を這い上がった。
レティシアよりさらに色の薄い、白のような白銀の髪の上に浮かんだ名前は、『Olteus』
レギオンエンブレムは、空色の地に映える白の翼。エルドール。カンナの元所属レギオン。
クロバール共和国中央評議会執行官――オルテウス。
最強国家クロバールの執行権を握るメンバーの一人にして、大手レギオンエルドールのマスター。その名前を知らない人は、銀剣プレイヤーにほとんど居るまい。
「……マスター」
呆然とこぼれ落ちたカンナの声が、耳を打つ。
ストレージから実体化されて、オルテウスの両手に握られた長得物。その煌めきと、そして目の前にポップアップした、
――『Olteus』からデュエルの申し込みを受けました、承諾しますか?
そんなインフォメーションに、俺は乾いた口の中で唾を飲み込もうとして、失敗した。




