005
「おかえりー、って兄様どうしたの!? そんな埃だらけになって」
「ただいま……」
力なく押し開けた玄関のドアが軋む音に、とたとたと居間から顔を覗かせた妹が驚きと呆れのない交ぜになった声をあげる。
「愚妹よ、俺のことは放っておいてくれ……あとすまん、今日の銀剣はちょっと無しで……」
「そ、それは良いけどさ……」
普段なら約束を反故にしようものなら、延々とぶーたれる雪乃だったが、日もすっかり落ちてから帰ってきた俺のあまりの様子にドン引いたようだった。
腐った魚のように澱んだ目とか、くたびれきって煤けた服とかかな……。
「に、兄様……?」
物問いたげな妹を横目にふらふらと二階への階段を上る。
自室のドアを後ろ手に閉めると、電気も付けないままに、俺はベッドの上に倒れ伏した。
結局、教室の片付けは、千早センセも怖かったので1人でやりきりました。
――お、おう四埜宮随分頑張ったな……?
若干センセも引き気味だったのも仕方あるまい。
枕元には朝のまま、仮想現実ダイブ用のヘッドマウントインターフェースが投げ出されていた。普段なら帰ってくるなりそれを手に取るのだけど、今日ばかりはログインする気にならず、俺はため息をついて、それから目を逸らした。
「ほんと、どうすれば良いんだ……」
肉体労働で疲れ切ったというのもある。
だが、それよりも、何よりも栂坂さんのこと。
ほっそりした見た目にそぐわず太ももが柔らかかった……じゃなくて。
スカートからほんの一瞬覗いたパステルブルーの……じゃなくて。
なんかちょっとショックのあまり記憶映像が混乱しているようだ……おかしいな。
怒りのあまり半泣きになりながら俺のことを睨み付けてきたクラスメイトの女の子。
大人しくて真面目な文学少女だとばかり思っていた女の子。
それが、実は煽り耐性がなくて頭に血の上りやすいネットゲームプレイヤーだったなんて。
別に後ろの席の女の子が、敵国所属とは言え同じネットゲームをやっていたとかなら大歓迎なんだ。
問題は、それを散々煽りまくった上、そのことがバレて大喧嘩したというか、一方的に痛めつけられたことであって……。
なんで俺は栂坂さんことカンナさんを踏みつけてしまったんだ! 一度ならず、数回に渡って! 一度だけだったら言い訳のしようもまだ有ったかも知れないのに! 馬鹿!馬鹿!
だけど、銀剣であんな風に襲ってきた相手と事を穏便に済ませるなんて選択肢も、また、あり得ないことだった。
――なんで四埜宮くんは人のこと煽ったりするんですか。
そんな、難しいこと。
戦いたいから戦う。
気に入らないから、戦って、煽る。正義だとか、そんなお題目を唱えながら戦う連中は力でねじ伏せてやる。
ただ、そう思ってソロで戦い続けているだけなのに。
……なんで、わざわざ色んな人から忌まわしく後ろ指を指されながら、ソロプレイヤーを続けているかなんて、自分でも、良く、整理がついていないのに。
――そういえば、そんなことを他人から訊かれるのは初めてだったな。
みんな悪いことをしてくる奴の、『理由』になんて興味が無いものだ。
悪い奴は倒して懲らしめれば良い。普通は、そう思うだけだろう。正義は正義、悪は悪。そう割り切ってしまった方が、きっと楽なのに。
――栂坂さん……カンナさんは。
少しぐらいログオンしておこうかなと、インターフェースに手を伸ばしたが、急に襲ってきた眠気が体の動作を重くした。
考えてみるまでもなく、昨日は一睡もせず銀剣をずっとやってたんだから当然か……授業中の居眠り程度では補い切れなかったみたいだった。
泥のような眠気は抗いがたくて。
夢を見た気がした。
最初に見た夢は、随分昔のことだった気がした。
◇ ◆ ◇
「はぁ……」
寝れば大抵のことは良くなるとは言うものだけど、残念ながら今回の件は大抵のことに含まれなかったらしい。
気持ちが塞がっているのは、きっと最後に見た夢の中で栂坂さんに散々踏みつけられたからですね……。
昼休み。俺は初夏の良く通る青空を眺めながら、昼飯の弁当をつついていた。
一緒に飯を食うような中の相手は裕真しかない俺だが、裕真は学食派。俺は親が弁当を作ってくれるため、いつもなら教室でぼっち飯をキメている。
だけど今日ばかりは、同じく教室ぼっち飯の栂坂さんからのプレッシャーに耐えられず、こそこそと教室を抜け出して、屋上に来ていた。
いや、栂坂さんが何かしてきたわけではなく……むしろ、朝から何も言ってこないのが逆に怖いくらいで……勝手に俺がプレッシャーを感じてしまっているだけなんですが。
美里高校の屋上は四方をフェンスで囲われた上で開放されている。ただ、季節が初夏に至り陽射しがじりつくこの頃は、わざわざ屋上に昼飯を食いに来ている人は少ない。
フェンスの向こう、山肌に張り付いて沸き立つ入道雲をぼんやりと眺めながら弁当をつついていた俺の視界を、ふと、影が遮る。
「こんなところまで逃げなくたっていいじゃないですか」
「え? う、うわぁっ!?」
逆光になったそのシルエットが誰のものなのか見て取った瞬間、俺はひっくり返りそうになった。弁当を取り落とさなくて良かった。
言葉通り。そこに居たのは、俺が教室から逃げてきた原因その人。
「いや、別に栂坂さんから逃げたわけじゃ」
「逃げたんですよね」
「はい……」
「……逃げなくたっていいじゃないですか」
目を伏せがちにして、唇を尖らせた、そんな黒髪の女の子の仕草が子供っぽくて、不覚にも少し可愛いと思ってしまう。いや、油断するな。昨日人のことを散々足蹴にした相手ですぞ。
びくびくしながら様子を窺う俺に、栂坂さんは、相変わらず厳しい視線を送ってくる。
「別に何もしないですよ。あと長居するつもりもないです。屑がうつると困りますから」
「それなら放っておいてくれれば良かったと思うんですけど……」
うん、一夜にしてデレるとか俺も期待していなかったから大丈夫。でも、こう上履きの踵をせわしなく動かすのやめてもらえませんかね。踏みたいの我慢してるようにしか見えないので。
不安が顔に出てしまっていたのか、栂坂さんは小さくため息をついた。
「謝っておきたかったんです、昨日のこと」
「え……」
なんだろう、不意を突かれっぱなしなんですが。
あれだけ酷く怒らせたのに、そんなに簡単に仲直りできてしまって、いいんだろうか。
「言っておきますけど、踏んだことじゃないですからね」
「あ……そうですか」
肩すかしを食らって露骨にがっくりした俺に、栂坂さんはふんと鼻を鳴らして、それから、言いにくそうに目を伏せた。
「その、ごめんなさい。千早先生に言われた片付け、四埜宮くんにだけやらせてしまって。むしろ、私が全部やるべきぐらいのことだったのに」
「なんだそんなことわざわざ、良いのに」
「そうは行かないです、その……そういうの、ちゃんとしないと、やっぱりいけないことだと思いますし」
生真面目な栂坂さんの言葉に、少し苦笑してしまう。
まぁ客観的に見て俺がろくでもないことをして栂坂さんを怒らせて。それで栂坂さんは飛び出していってしまったんだから、普通の人はうやむやにしてしまいそうな話なのに。
わざわざ、そんなことを言いに来るなんて、なんていうかちゃんとした子なんだなと思う。
昨日、いや、一昨日か。銀剣の中の栂坂さんが言った言葉を思い出した。
――こちらから挑んだ戦いです。逃げるなんて情けないこと出来るわけないじゃないですか。
「……じゃあ、まぁ、俺がゲームの中で踏んだのとおあいこってことでいかが」
「それとこれとは別の話」
食い気味に否定されて、諦め気味のため息が漏れた。
「大体、昨日はなんでログオンしてこなかったんですか、四埜宮くん」
「え、栂坂さんログオンしたの?」
「30分ぐらいやって、『ユキ』さんが上がってくる気配が無かったんで、眠かったし落ちちゃいましたけど」
「元気だなぁ……」
そんな感想を素直に呟いてしまい、栂坂さんに一睨みされてたじろいだ。
「勝ち逃げなんて、許さないですから」
ゲームの中で見たのと同じく、強い色を宿した、ただ現実では髪と同じように黒い大ぶりな瞳。
それは俺が負けるまでずっと栂坂さんに追い回されるってことなんでしょうか……。
だけど、本当に見た目だけなら完全に穏やかな文学少女の栂坂さんの口から、そんな物騒な言葉出ることに少しおかしさも感じてしまう。
人は見た目によらないというか。
栂坂さんも、俺と同じように、確かにゲームの世界に半分生きている人なんだなぁって。
「何にやにやしてるんですか……」
「いや、栂坂さんはやっぱりカンナさんなんだなぁって」
「ゲームの中の名前出さないでください。人に聞かれたらどうするんですか」
「それを言ったら、昨日あんな人のこと散々踏みつけてるところこそ人に見られたらどうするだと思うんですけど……」
「元はと言えば、四埜宮くんが踏んできたのがいけないんですからね! あと、また踏んだりしたら今度こそ、許さないですから!」
脚をわずかに浮かせて、ダンっと地面を踏み鳴らす。
それだけで、すっかり昨日トラウマを刻まれた俺としては縮み上がらざるを得ない。
……栂坂さんの場合、普段猫被ってるだけで、実はこっちが本性なのかな。
ちらりと振り返って、それから歩み去る、同級生の華奢な背中。
残っている弁当と、急激に減退した食欲。
……帰りたい。