016
……有り体に言えば、油断していたのだ。
翌日、学校でのこと。
珍しく早めに登校して自席でぼーっとしてた俺は、肩を叩かれて、眠気の残る目を後ろに向けた。
ゲームの中では流している髪を簡素に結わえて、眼差しを隠すセルフレームの眼鏡……いや、ゲームキャラはなんだかんだで別ものなんだから比較するのもおかしいか。
席に座ったばかりと思しき栂坂さんは、相変わらず感情の見えない顔で、小さな紙切れを渡してきた。
「おはようございます、四埜宮くん」
「うん、おはよう……?」
それを受け取るやすぐに、机の上の文庫本を持ち上げ、そちらに集中してしまう。俺は、小首を傾げながら、紙切れに視線を落とした。
――放課後、少し時間をください。旧校舎の4C教室で。
なんだろうと顔を上げてみるけれど、既に本の世界に没入している同級生に問い返すのはなんだか憚られた。
――亡命のこととか、かな……。
夕暮れの差し込む、誰も居ない旧校舎の教室で女の子と二人きり、というシチュエーションに、甘酸っぱい青春を妄想しないでもなかったが、それが現実となりえないとわかるくらいには俺も冷めている。相手が栂坂さんとなればなおさらだ。
昨日のゲームの中での別れ際を思い出し、きっとこれから臨む亡命クエストに関する相談だろうと結論づける。亡命したいと本人が心に決めても、それを実現するには高いハードルがある銀剣だ。ましてや、今のアグノシアとクロバールの状況では、漸くスタートに立ったと言うべき状況で、ゴールに辿り着くためには考えることが山ほどある。
ちょうどつまらない授業の時間つぶしになる、なんて気楽に考えて居たのだ。その時は。
「四埜宮くん」
ホームルームが終わり、鞄も持たずに教室を後にした栂坂さんの後を、俺は慌てて追った。
ちらりとこちらがついてきていることだけを確認して、つかつかとマイペースで歩き続ける栂坂さんと特に会話も無く、微妙な距離を保ったままに、放課後になっても人通りの無い旧校舎へと辿り着く。
夕暮れ、というにはまだ早い時間帯だった。少しばかり黄色がかった午後の陽射しに照らし出された、もう随分使われていない旧校舎の教室の中、椅子も机も積み重ねられて隅に寄せられた無駄に広い空間の真ん中で、黒髪の同級生が俺の名前を呼ぶ。
肩口に髪を揺らして振り返って、漸く声をかけてくれた栂坂さんに、俺はぽりぽりと片頬を掻いた。
「うん……話って、亡命のこと?」
問い返す俺に、栂坂さんは肯定も否定も無く。真っ直ぐに俺の目を見つめて、囁く。
「そのままじっとしていてください、四埜宮くん」
「え?」
予想だにしない要求に、首を傾げる。
だけど、栂坂さんはゆっくりと俺の方に歩み寄ってきて、何故か俺は酷く狼狽した。
「ちょ、ちょっと栂坂さん!?」
現実の栂坂さんの瞳は、ゲームの中より少し濃い焦茶色。それが視界を埋め尽くすほどに大きくなって、シャンプーか何かだろうか、清潔な香りが鼻腔に忍び込む。
――こ、これはもしかして、青春の展開!?
なんて考えてしまった瞬間。
ぐるりとひっくり返る視界になんだかものすごい既視感を覚えた。
ああ、足払いをかけられたんだ、とやけに冷静に分析しながら、俺は床の上にうつぶせに倒れ込んだ。
顔面からいかないように、若干肩を支えてくれたのは優しさと言っていいんでしょうか……。
「ふんっ」
「ぐえ」
そして、背中の真ん中辺りに感じる重圧に、肺の空気が抜ける。
青春の展開……の、わけないですよね……こんな青春があってたまるか馬鹿野郎。
「あの……栂坂さん?」
「なんでしょう、四埜宮くん」
過去二回踏みつけられた時と違うのは、黒髪の同級生が至極平静だということぐらいか。首を捻って見上げた俺を、相変わらず無表情に見下ろす栂坂さん。
「なんで俺踏まれてるんでしょうか……」
「昨日のお返しに決まってるじゃ無いですか」
「そんなさも当然みたいに言われても……昨日ゲームの中でずたずたにされたのは仕返しにならないんでしょうか……?」
昨日は散々やられた後、普通の感じな会話になっていたので、すっかり清算完了のつもりで居たんですけど。
「私もそのつもりで居たんですけど、ログアウトして思い出したら何だかすごくムカムカしてきて、やっぱり踏まれたら踏み返さないと収まりがつかないんだなって思って」
「ゲームの中ではちゃんと我慢してたのに、なんで現実だと躊躇無いの!?」
「不思議ですねー」
栂坂さんはにっこりと微笑んでみせた。なんだかこの人、レギオン回りで色々あってから悪い方向に吹っ切れてしまったような気がしたが、その片棒を担いだのは俺なのでなんとも言えなかった。
ため息をついて、とりあえず足をどけてくれるようお願いしようとした矢先。
がたっと、教室の入り口の辺りで物音がする。
「っ!」
慌てて足を俺の背中の上から引っ込める栂坂さんに、俺も必死で起き上がった。
栂坂さんと目を合わせて……背中を脂汗が伝う。ちょっと……こんなところを誰かに目撃されるとか本気で笑えない。旧校舎で同級生の女の子に踏みつけられてました、なんて……社会的な死も良いところだ。
「ごめんね、お楽しみのところ邪魔して」
だけど……幸いなことに、というべきなんだろうか。入り口のドアに姿を現したのは、警察に投降する犯罪者の真似か、両手を挙げた裕真と、そして……やたらとにこやかな藤宮さんだった。
なんだろう……これはこれで、笑えない気がするのは俺だけでしょうか……。
「べ、別にお楽しみじゃ全然ありませんから。ちょっと四埜宮くんにおわかりいただいていただけです」
「四埜宮くんはお楽しみだったみたいだけど?」
「……どうしようもないですね、このヘンタイ」
とりあえず体を起こして床に座り込んだ俺に思い切り蔑む視線を向けてくる栂坂さんに、俺は何とも言えない理不尽を感じた。さっきまで思いっきり笑顔で人のこと踏みつけてたじゃないですか。
「許せ、二人の様子が怪しいから、つけてみようって藤宮さんが聞かなくて」
「裕真はもっと自主性をもって行動しろよ……」
親友に文句を漏らすものの、どうも立場の弱い男子2人、愚痴以上の物にはなり得なかった。
「ゲームの中で私に踏みつけられた時も嬉しそうだったもんねー、四埜宮くん」
「……うわ」
「ちょっと待って全然嬉しそうじゃなかったからね、いきなり出会い頭に踏みつけられるとか意味わからなかったし!」
俺の必死の抗議も暖簾に腕押しだ。氷点下に冷え込んだ黒髪の同級生の眼差しが痛い。
一通り俺のことをからかって満足したのか……ほんと、見た目に似合わず良い性格してると思うんですけど……藤宮さんは、こほんと咳払いして、栂坂さんに眼差しを向けた。
「亡命することに決めたんだってね、栂坂さん。ユキから聞きました。ごめんね、こんなところでだけど教室じゃこういう話あんまりできないから」
ちらりと栂坂さんが、俺の方に視線を向けてきて、俺は頭を掻いた。
「ごめん、昨日あの後、みんなと話した時に」
「いえ、別に良いんですけど……」
……あのあと、エクスフィリスに向かった俺を待っていてくれたのは、レティシア、ジーク、ゲルトさん、それに、ネージュだった。
他にも旧知の人達は居たのだけど、いきなり積もる話をみんなでというのも俺が気兼ねするだろうと、レティシアが気を利かせてくれたのだという。
色んなことを話した。
俺がキャメロットを解散してエクスフィリスを離れてから、どんなことがあったとか、誰々はどうしているとか、レギオンの運営はやっぱり大変だとか……とりとめも無いことから、込み入った話まで、色々。
これからどうする、という話の中で、レティシアに問い詰められて……俺は、カンナと少し話して、亡命するかどうかを賭けてデュエルをしたことを白状したのだった。もちろん、勝ってから踏みつけたとかそんなことはおくびにも出しませんでしたけど、ええ。
「改めて、これからよろしくね」
そんなことを言って優しく微笑む藤宮さんに、栂坂さんは、少しの間どうしていいか解らないという風に視線を彷徨わせて、それからぼそりと、小さな声で答えた。
「よろしく……お願いします」
「まだ亡命も成功したわけじゃないからなんだけどね、そこは四埜宮くんが絶対に成功させるって言ってたから」
「言ってませんからね」
適当宣う藤宮さんに、抗議の眼差しを向ける。だけど、藤宮さんは相変わらずの澄ました顔をしてみせた。
「言って無くても、そのつもりなんだよね」
「さぁ、どうなるかね。相手が相手だし、一筋縄でいくようなものじゃないと思うけど……」
「……でも、負ける気は無い、でしょ?」
「……ああ」
頭を掻きやる。
昨日、ゲームの中で色々なことがあって、それからずっと考えて居た。
色んな迷いや心配事はあったけれど、それらは解決したのかは良くわからないけれど、今は、とにかくみんなと一緒にクロバールに勝つことを考えて居たいと思った。
それは、半年前のことをわだかまりもなく許してくれたレティシアやジーク、心配してくれたネージュ、そして自分のやることを決めてくれたカンナのおかげで。
だから、ここからは勝つことだけを考える、いつものユキのように戦っていけると……この時は、そう思っていた。
いつからあれで終わりだと錯覚していました? ってカンナさんが。
これにて「戦う理由」は一段落です。
次からはクロバール戦メインの大戦略! 少し執筆速度落ち気味で申し訳ないですが、継続していきたいと思います。よろしくお願いいたします!