003
逃げ出してしまおうかとも思ったのだけれども、そんな小物の考えはお見通しだったか……。ホームルームが終わるなりつかつかと歩み寄ってきた千早センセに、俺は脅迫まがいに肩を叩かれて、刑場への連行を余儀なくされた。もちろん栂坂さんも一緒。いや、俺としては一緒じゃなくても良いんですけどね……仕事の量は増えてもこう気遣いとか空気とか考えると一人の方が楽なんです。
俺たちが向かった先は旧校舎だった。
美里高校は旧制の中学校として開校し、創設百年を越える、それなりに歴史ある高校であるらしい。
校庭を囲むようにコの字に配置された校舎は、校門から向かって正面が新校舎、右手が体育館。そして左手には主に倉庫や小規模なクラブの部活棟として使われる、時代がかった造りの木造の旧校舎がある。
俺と栂坂さんが所属する1-Aのクラスルームからはちょうど正反対の位置だ。
使われていないせいか渋い引き戸を、千早センセはスパーンッ、と力尽くで開け放つ。
「じゃ、よろしくな」
もはや倉庫代わりにすぎない教室の一つに、積み上げられた得体のしれない段ボールの山。これを中身を確かめて整理するのが俺たちのお仕事ということである。
「ちょっと罪に対して罰が大きすぎるのでは……」
「うるさい、やれ」
にべもなし。
俺よりも背が高く、ちょっときつめに整った顔立ち。教師というよりはやり手の秘書か女社長かといった風体の千早センセの一睨みはそこはかとなく恐ろしい。
「承りました……」
「よろしい、終わったら報告してくれな」
うず高く積み上げられた古びた段ボールの山を途方に暮れて見上げる俺を尻目に、鬼教師は軋む板張りの床を鳴らして去っていった。
何が楽しいやらご機嫌な鼻歌がフェードアウトしてしまうと、特段用が無ければ訪れる人も居ない旧校舎、しんと空気は静まり返る。
廊下側の窓から差し込む初夏の午後の陽射し。換気のために開けた窓に揺れる色あせたカーテン、緩やかに吹き込む暖かい風。
……静けさが、痛い。
「とりあえず……さっさと片付けちゃおっか」
「そうですね……ごめんなさい、私がばててたばっかりに。なんだか四埜宮くんも巻き込んだみたいな……」
「別に良いよ、俺も寝坊したのは確かだし」
頭を下げる栂坂さんに、ひらひらと手を振る。付き合ったのは俺自身の意志だし。
「じゃあ、私はこっちから」
「……了解、俺こっちからやるね」
一緒に――とか、頑張りましょうね、とかでなく、極めて事務的に両端から分担して個人作業に持って行くあたり、栂坂さんもだいぶソロ度高い。ゲームだったらログインして一人で黙々と狩りにいっていつの間にか高レベルになっているタイプ。
ま、俺もそっちの方が気楽で良いんですけどね……
ちらりと横目で覗う、しばって纏めた髪を肩に垂らして、長い睫毛を伏せて少し憂鬱そうに段ボールの山を見下ろす、後ろの席の女の子。
……別に肩寄せあって二人で同じ段ボール覗き込んだりしても良いんですよ? 青春っぽく。
「……どうかしました?」
「いや、なんでも」
こっくりと表情薄く首をかしげてみせる栂坂さんに、そんな考えは1ミリたりとも無さそうだ。
そう、人生無駄な期待はしないことが肝心。
朝あんなこと言われて気にしてるかなーなんて心配したけれど、別に眼中にも無い同級生との関係を揶揄されても、何の気にもならないですよね。
黙々と段ボールを開いては、明らかに要らないゴミを選り分けていく。
舞い上がる結構な量のほこりに、せき込む声ばかりが教室の空気を揺らす。
それにしても、どれだけ適当に詰め込んだんだこの段ボール。
プリントの余り、昔の教科書や資料集。文化祭や部活で使ったのか、謎の衣装やカツラ。
いくつ目かに開けた箱の中身から、百人一首や花札といった日本の伝統的カードゲームの山が出てきて、思わず俺はその一つを取り出してまじまじと見つめてしまった。古典か何かの教材なんだろうか、いや。花札は古典にも使うまいよ。
「百人一首なんて懐かしいですね」
空気の悪さ(物理)のせいか少しかすれた、でも柔らかい声が耳をうつ。
「……何そんなに驚いてるんですか」
随分ポカンとしてしまっていたんだろう、慌てて、俺は手をぱたぱたと振った。
だって栂坂さんの方から話しかけてくるなんて、思っても無かったから……。
「いやごめん。百人一首なんて、なんであるんだろうなぁと思って」
とりあえず百人一首のせいにしておいた。ごめんね定家。
「教材とか……昔は、カルタ部とかあったのかもしれないですね。小さい頃やりませんでした? 坊主めくりとか」
「ああ、あの天下一のクソゲー」
「クソゲーって」
栂坂さんが小さく吹き出す。
「だってどう考えてもクソゲーでしょ。ひたすらめくって坊主が出たらアウトとか、運以外に要素がないしほんと今思い返すと何が楽しかったのか」
ご存知でしょうか、坊主めくり。
でも小さい頃はかくいう俺も喜んでやった記憶があるんだよなぁ、雪乃とかと。坊主が出ただけで爆笑できた幼い純粋な心を俺達はどこに置いてきてしまったんだろう。きっと蝉丸が坊主かどうかでいがみあった辺りから心が汚れていったんだろうな……。
「四埜宮くんは、結構ゲームとか好きなんですよね」
「う……なんで?」
思わぬ方向に飛び火した話に、少したじろぐ。
「だって、クソゲ―とかゲーム好きな人じゃなきゃ使わなさそうな言葉ですし」
「そうかな」
「それによく中里くんとゲームっぽい話してますし……あと、四埜宮くん華奢でインドア系の趣味そうですし、あんまり社交的じゃないですし」
そんなことをにっこりと言われてしまった。ゲーム好きとかなるべく表に出さないようにしてたのに。裕真と盛り上がるとどうしても銀剣の話しちゃってたからなぁ……あと、何気に貶された気がするんですけど、気のせいですよね。
「まぁ、うん、やるよ。結構、ゲーム」
後頭部をかきやって、観念した。
「……私も結構ゲームやるんですよ」
「え?」
控えめに、ちょっと含羞を帯びた言葉に、俺は黒髪の同級生をまじまじと見つめた。
栂坂さんが、この絵に描いたような文学少女が、ゲームを?
「……意外。栂坂さん真面目そうだからゲームとか全然やらないものかと」
「昔からRPGとか好きで、最近は仮想現実型のネットゲームとか……」
「もしかして、今日寝坊したのって」
「ちょっと、ゲームに熱中しすぎて夜更かししてしまって」
「……実は俺も。昨日ちょっとやりすぎちゃって」
……これはもしかして、もしかするんじゃないでしょうか。
放課後の教室に二人きり。窓の外からは部活の賑やかな声が遠く。
あまり接点の無かった二人だったけれど、思わぬ趣味の話で盛り上がって……とか、よくある話だと聞きました。主に色んな女の子と仲良くなるのが目的のゲームとかで。
地味な感じが先立つ栂坂さんだけど、顔立ちは良く整っていた。眼鏡の奥の瞳は大ぶりで濡れたようだし、鼻筋は小ぶりで筋が通っていて、唇は艶やかな薄造り。
――ふと、既視感を覚える。
そんな女の子と、学校以外でも会ったことが有る気がして。
これはあれか。ゲームの中でももう出会っているというそういう鉄板な展開……。
いや、鎮まれ俺の心臓と妄想。
「四埜宮くんは、なんていうアバター名でプレイしてるんですか?」
栂坂さんの問いかけに、なんだか嬉しいのが半分、しかし、しまったという躊躇いも同時にやってきた。
……俺のアバターは女の子だ。女キャラでネットゲームをプレイする輩は、俗にネカマとか呼ばれ、こう世間の覚えは相当によろしくない。よろしくないというか、うわぁ……とか、キモいとか、どうせ中身キモオタなんでしょとか、露骨に人格否定されるレベル。うるさいよ、自キャラぐらい理想の可愛い女の子にしたっていいじゃないか。露骨なイケメンキャラの方がよっぽど気持ち悪いわ。
――でも栂坂さんもゲーマーなら、ネカマの存在ぐらいは百も承知なはずだし。
後頭部をかきやって、しばらくの逡巡の後、俺は素直に告げることにした。
ただし、ゲームタイトルは伏せて。栂坂さんが心当たりがあるならそれでも良し、知らないなら知らないで、敢えて恥部を晒さずに済む。
「ユキって名前でやってるんだ」
びくびくと窺うように横目にみやった栂坂さんの表情は、ちょっと俯き気味に落ちかかった髪の毛に遮られて見て取れなかった。
ただ、ぼそりと呟く様な声が、紡がれる。
「ユキ……って女の子ですか?」
いきなり核心を突かれて、うっとなるが、ここで誤魔化しても仕方ない。名前的に普通は女の子だしね……。
「あ、うん……まぁ、その恥ずかしながら」
「もしかしてですけど、金髪のショートカットで、紅い眼をした」
目を見開く。それは確かに俺の、ユキのアバターの特徴だった。
「正解……だけど、もしかして栂坂さんゲームで」
これは、本当にもしかして……。
「……中里くんと話してるの教室で聞こえて、もしやと思ったんです。でも、まさかとは思わなかったです……ねぇ、大剣使い」
同級生の柔らかい声が震える。
そんな、何かの感情が声に滲み出すほど、実は近しい人だったのかな、なんて。栂坂さんは、俯き気味だった顔をきっと上げた。
眼鏡の奥の眦がきりきりとつり上がり、唇は無理矢理貼り付けたような歪な笑みの形に歪む。
「ぜ、絶対っ、絶対許しませんからね……っ!」
……あれ?