009
栂坂さんの薄い唇が、何かを言おうとして開かれて、何も言葉にならないまま閉じられる。
インターフェースを被っていたせいで癖の付いてしまった髪を整えることもせずに、床にぺたりと手をついて、ぼんやりとした目でこちらを見る栂坂さんは、なんだか酷く幼く、儚く見えて。
だけど、俺はかけるべき言葉を見つけられない。
その姿は、まるで、あちらの世界に心を置いてきてしまったように、そんなことはあり得ないことだとわかってはいるけれど、見えて。
「……四埜宮くん……ユキ」
漸く音になった、囁くようなかすれた声。
「……ごめんなさい、少しだけ付き合ってください。銀剣」
「う、うん? 構わないけど……」
予想もしなかったお願いの内容に、俺は首を傾げて、でも、理由も告げずにインターフェースを被り直した栂坂さんに、従うしか無かった。
―ブライマル自由都市連合 辺境の村ユミリア
若葉月 26の日
――またユミリアで。村の中に居ます。
死に戻りによってシルファリオンまで戻されていた俺は、もう一度同じ道を辿って、ユミリアに降り立った。
疾く流れていく銀剣の世界の時間では、日は巡り、夜が明けかけた薄暗い時間帯。松明は消え、家々の明かりも落ちて、ただまだ山の向こうから顔を出す前のぼんやりとした陽の光だけが、褪せた色に辺りを染めている。
広場を見回して、プレイヤーはおろかNPCさえも姿を消した景色の中に、カンナを見つけた。
道具屋だか装備屋だか、小さな建物の影に、壁に背を預けて佇む、黒髪の女の子。
俺は、小走りに駆け寄る。
「カンナ……っ?」
その隣に立ったその時に、よろけるように肩に額を預けられて、動揺してしまう。
もはや自分の体を支える力さえも残っていないとでも言うように崩れ落ちる、華奢な体。
慌てて、なんとか地面に倒れ込む前に、受け止めることに成功した。
地べたの上に座り込んで、女の子にもたれかかられる女の子。こんな辺境に今更やってくる人は居ないだろうが、見られたらどう思われるだろうと、余計なことを考えた。
だけど、そんな雑念も、押し殺した嗚咽と、顔を埋められた肩から広がる湿った熱い感覚に、消えてなくなる。
「カン……ナ……?」
「ごめ……なさ……い。こんな……勝手だけど……少しだ……け」
激しく声をあげるでもなく、ただ背中を震わせて、涙の作る染みだけが広がっていく。受け止めきれなかった分が粒になってぽたり、ぽたりと砂の上に落ちる。
……何があったのかは、想像できていた。
俺は……ユキは、ただ、カンナの背に静かに、慰めるように手を当てる。
何故、わざわざカンナがもう一度銀剣の中に戻ってきたがったのか、現実ではほとんど付き合いの無い同級生の男の子に泣き顔を見せるのが嫌だったのかもしれないと思った。俺もそうだったが、どれだけ自分の体と同じようにキャラクターを動かしているといっても、どこかゲームの中の自分は違うように感じることがある。意識は一つなのに不思議なことだけど、ゲームの中では、いくつかの戦いを一緒にくぐり抜けて、【フレンド】になったユキとカンナでも、現実では、友達未満とでも言うべき間柄なのだ。
それに、ユキは仮にも女の子というのも、あったのかもしれない。
どっちにしても……きっと、カンナの今抱えている感情は、泣きでもしなければどうしようもないものだろうと、俺は思った。
思い出す……この世界に置いてある心にぽっかりと大きな穴が空いてしまったような空虚な感覚。
落ち着ける足下が無いような感覚。行き先がわからない迷子のような感覚。
そんなのを味わうのはもう二度とご免だし、身近な人にも味わって欲しくないと思っていたのにな……。
「……ごめんなさい」
……涙は止まったのか。カンナが顔を上げる。涙で腫れ上がった目だとか、そんなものまでは銀剣のエモーションエンジンも再現してはくれない。袖で顔を一ぬぐいすると、いつもの通りのカンナの顔に戻ってしまう。
寄りかかっていた体温も離れて、湿った服も数秒でその感触は消え去る。
「……大丈夫?」
「落ち着きました……。
なんだか、現実に戻ったら、色んなことがあったはずなのに全部遠いことみたいに思えて……大事なものをゲームの中に置きっ放しにしてきたような気になって……戻らなくちゃって。
でも、一人で戻ったら耐えられない気がして……ごめんなさい。見苦しいところを見せました」
「気にしないで。レギオンマスターに話しに行けって言ったの私なんだし、その結果には私も責任がある」
「レギオン、抜けることになっちゃいました……残れるように頑張れって、言って貰ったのに」
横を向くと、カンナと目が合う。ハシバミ色の瞳はもう乾いていたけれど、その奥には整理の着かない気持ちが揺らいでいるような気がした。いつも気が強くてこっちを睨んでくる目ばかり見ていたから、そんな表情に、少しどきりとしてしまう。
「マスターはなんて? オルテウスさん、だっけ。エルドールのマスター」
「マスターは、きっと自分もソロだったら私と同じようにしただろうって。でも、自分はマスターだから、今の自分なら絶対に聖堂騎士団とは戦わなかっただろうって」
「……うん」
「それで、マスターに訊かれたんです。同じことがあったら、次はどうするって。私は……マスターの話を聞いても、それでも、きっと次も同じ選択をするだろうって答えて……選んだんです。レギオンを抜けることを」
「自分から、レギオン抜けるって言ったの?」
「いえ……マスターに言って貰っちゃいました。レギオンから追放する。
でも……マスターの問いかけの答えは、レギオンを選ぶか、自分のプレイスタイルを選ぶか、そういうことだったんだと思うから……私が選んだのと同じです。抜けるってこと」
「そっか……」
もう一度横目にカンナの方を窺ったけれど、もうカンナはこちらを見ていなかった。夜明け前の消えゆく星の空を遠くに見る、その横顔はどこか途方に暮れて居るようで。
「マスター、ユキのこと知ってましたよ」
「え?」
思わぬ情報に、抜けた声を出してしまった。
「私、オルテウスさんとは面識ないはずだけど?」
「面識があるとかなじゃなくて……昔から戦争しっかりやってる人の中ではそれなりに有名だったって。
後で、教えてくれるって約束でしたよね」
「ああ、そういうこと……。いや、お願いされたけど、約束はしてないような」
そんな言い訳がましい反論は、カンナの真っ直ぐな眼差しに、あえなく打ち砕かれる。
自分の昔のことなんて人に話すような大層なもんじゃない。それはただの失敗談だ。笑えもしないし、大した教訓にもならない。
ため息をこぼして、俺は、カンナがそうしていたように、紫がかりはじめた空を見上げた。
「単に、私も昔レギオンマスターだった、それだけのことだよ。今はこうだからわかると思うけど、半年前にレギオンは解散しちゃった。それだけのこと」
「……それは」
横顔にカンナの視線を感じて、でも、それはすぐに離れていく。深く聞こうとするのを思いとどまってくれたなら、有り難いことだと思った。まだ、それは人に話せるほど自分の中でも整理がついていないような気がした。もう半年も前のことだというのに。
「カンナは、これからどうするの?」
話を逸らすような俺の問いかけに、でも、カンナは素直に答えてくれた。
「正直、まだ考えられないです。マスターからはアドバイス貰ったんですけど、まだ、なんだか色々考えられるような心持ちじゃなくて……」
「……そうだね。そうだよね、ごめん」
「なんで、ユキはすぐ謝るんですかね」
少し不満そうに唇を尖らせられて、俺は肩をすくめた。
「あのカンディアンゴルトのこと……私は、私が戦うと決めたから戦ったんです。マスターにも言った通り、もう一度同じことがあっても、同じように戦うんです。だから、その……ユキが気にしてるなら、それは見当違いで……」
「うん……そうだね、ありがとう」
「お礼を言われる筋合いもないです」
鼻を鳴らす、そんないつもの調子になったカンナさんに、苦笑しつつも少し、安心した。
「……さて、そろそろ帰らないと。お夕飯食べ逃しちゃう」
「あ……そうですよね。ごめんなさい、引き留めて」
「私勝手に帰るから、カンナはもう少し銀剣やってていいよ」
「なんでですか?」
不思議そうに小首を傾げるカンナに、俺は頬を掻く。
「なんか……気まずいでしょ」
「あ……う……」
言葉に詰まって、それから恨みがましそうに上目遣いで睨んでくる魔法剣士殿に、俺はひらひらと手を振った。まあ現実ですぐ顔を合わせたら、何故か殴られそうな確信があったからなんだけど……。
「またね。明日はちゃんと学校来るんだよ」
「なんでそんな保護者みたいな感じなんでしょう……」
カンナの抗議を聞き流して、俺はログアウトを呟く。
短いログイン。幸いなことに、背中や腰にさっきほどの違和感を覚えることは無かった。
インターフェースをそっと、机の上に置いて、ベッドに背中を預けたままの栂坂さんに向かって、小さく囁いた。
「じゃあね、また明日」
◇ ◇ ◇
淡い色の髪の大剣使いが燐光を残して消えて行った後を、カンナはぼんやりと見つめていた。
ゲームの中に残っていても、今は何もする気が起きない。かといって、すぐにログアウトして、まだ同級生が部屋の中に居たりした日には気まずいことこの上ない。
膝を抱え込んで、日の昇り始めた空を見上げる。
新しい日が始まる、というには複雑すぎて、希望に満ちあふれても全く居ない心持ちだった。
だけど……とカンナは思う。
これまで……エルドールが戦争を中心に動くようになってから、なんとなくしっくり来ない気持ちを抱えながら、銀剣をプレイしてきていた。本当は、そういうことをマスターやレギオンの仲間達と話して来るべきだったんだろう。それを、どうせゲームだからと、どこかそんな風に軽く考えて、面倒くさいことを避けながら遊んできたような気がした。
ゲームだけど……みんなの向こうには、ちゃんと現実の人間が居て、人と人の関係ということなら、何も現実と変わらないのに。
きっとそういうつけを払うことになったのだと、思う。
レギオンを追放する、と言ったときのマスターの悲しそうな顔。
レギオンに入った頃からのメンバーで、私がマスターと話したということを聞きつけて、1対1のチャットを飛ばしてきてくれた人。
また涙が零れてしまいそうになって、慌てて腕で目を覆う。
そういうことを考えると、マスターから貰ったアドバイスに従う気にはまだなれない。
ただ、きっと明日からは、そういうことに漸く気付けたから……今日までとは違う気持ちで、銀剣をプレイすることになるのだろうと、カンナは思った。
もう少し、この銀剣の世界の綺麗な景色をただ、ぼんやりと眺めていようと、そう思った。
◇ ◇ ◇
「おはようございます、四埜宮くん」
「あ……おはよう」
……翌日。
いつも通り。相変わらず眼鏡の向こうの表情の薄い目で、そう事務的な挨拶の声をかけてきた同級生の女の子を、俺はびっくりしてみやった。
何の感情もこもっていない挨拶だったけど……そもそもわざわざ挨拶してきてくれるなんてことが、これまで無かったことなので……。
何か言うべきか、そう栂坂さんの方を横目でちらちら窺っていたコミュニケーション能力の無い俺だが、栂坂さんは早々に鞄から取り出した本で、俺との間に壁を作ってしまう。
流石、実質フレンドゼロは割り切りが違いますね。あ、俺がフレンド承諾したからフレンドワンか。
「……何か?」
「……なんでもありませんが……」
だから、人の心読みすぎでしょう。
ふうとため息をついて、正面に向き直る。
俺も鞄から文庫本を取り出して、まぁそんなに読む気は起きなかったのだけど、ページをぱらぱらと手繰りながら、授業開始までの時間を潰そうと思った。
だけど……。
「おい、悠木」
教室に入ってくるなり、俺の机にバンと手を突いて、裕真がそう声をかけてくる。
びくりと肩をふるわせて、俺は乱暴な友人に抗議の声を上げた。
「なんだよ、いきなり」
「なんだよってか、お前その様子だと昨日ログインしてないな。雪乃ちゃんから何も聞いてないのかよ」
「昨日はちょっと俺も、雪乃もログインしてないな……何かあったん?」
なんだろう、今日緊急メンテで銀剣遊べないという嘆きか、それとも何か大規模なアップデートでも発表されたんだろうか。
そう太平楽な感じで、鷹揚に裕真の言葉を待っていた俺は、すぐに絶句させられることになる。
「クロバールが、アグノシアに全面宣戦布告してきた」
後ろで、ぱたりと本を取り落とす音が聞こえる。
……つくづく因縁の尽きない国らしい。クロバールというのは。
栂坂さんち編(?) はこれにて一段落。
戦争を描きたいと言いながら少しも描いてない……!
しかし次章こそは戦争メイン、銀剣の醍醐味を描いていきます!




