001
―クロバール共和国 辺境領ウルダ平原
雪花月 25の日
弾んだ息を鎮めながら、俺は自分の身長を上回る長さの愛剣をもう一度、肩に負うように構えなおした。
本来何十、何百という人がひしめく荒野の戦場には、今や見渡す限り人影はほとんど無い。
目映いばかりで熱量の足りない冬の陽射しの下、ただ、俺と……そして向かい合った一人の剣士だけが、終わらない戦いを続けている。
細身の片手剣を構えて、一時たりとも視線を逸らさない、ハシバミ色の瞳の剣士。肩口に揺れる髪は真っ直ぐな黒。小ぶりだが筋の通った鼻に、薄づくりの唇。得物に似て、小柄で細身の体は女の子のものだった。
だけど……戦場に男も女も、老いも若いも関係ない。
手加減など考えるべくもなく、また、相手も望んでいないだろう。
布地の多い軽鎧を纏った女の子の体には先ほどからの数合の切り合いで刻まれた傷がいくつか、赤い色をまき散らしている。肩を揺らして吐く息も、俺より数段、荒い。
「あきらめが悪いんだね」
俺の言葉に、少女は唇を引き結んだ。
「……それは降伏勧告のつもりでしょうか」
掠れた、柔らかい声。ただ、そこに宿る色は苛烈だ。
「ううん、単なる感想。参りましたなんて言う人じゃないってことぐらい、十分良くわかってるよ。それに、その方が戦いがいがある」
「それは、どうも」
そう、この戦場だけでなく、もう幾度と繰り返した斬り合い。
どれだけ、追い詰められても、叩き伏せられそうになっても、彼女は決して諦めようなんてしなかった。
だから、俺は今度も柄の握りを絞り、両足を撓め、そして、宣言する。
「お望み通り、殺してあげる」
地面を沈み込むほどに強く蹴り、足に蓄えた反発で全身を打ち出す。
突進の勢いと得物の重量を十二分に載せた、袈裟がけの斬りおろし。女の子の持つ片手剣なんかでは、防御ごと押し切る、重量級の一撃だ。
間合いは一瞬で詰まり、体を逸らして剣戟の内側に潜り込もうとする少女の必死の表情が間近に迫る。
いい動きだけど、その反応じゃ間に合わない。
それは彼女自身にもわかるのだろう。泣きそうに、でも決して逸らそうとしない、気丈で、澄んで、綺麗な瞳。
――そういうの、嫌いじゃないよ。
交錯。大剣が一閃する。軽鎧なんてまるで無いもののように、少女の細い体を斜めに切り裂いて。
まだ警告域だった彼女のヒットポイントゲージが真っ黒に染まり、その体が力なく倒れ伏す。
ふぅと息を吐いて、得物を背負いなおすと、俺は背中を向けて地面に寝そべった――死体となった少女に向かい合った。
この世界での生死なんて酷く軽い。あと十数秒もすれば彼女の体はフラッグポイントへと戻され、けろりとして挑みかかってくるだろう。
だけど、そうだとしても、死を目前にしても諦めないことは誰にでもできることじゃない。彼女は決して戦いを諦めないちゃんとした戦士だった。
その気概に報いるべく、俺は右足を持ち上げ。
「雑魚が」
その華奢な背中の真ん中を、笑顔で力強く踏みつけた。
正々堂々、戦いが終わったらお互いの健闘を称えあう。そんなのも一つのあり方だろう。一つの理想だろう。
だけど、俺はそういうものじゃない。そんな正義の味方じゃない。
にっこり笑って敵を倒す、煽り屋だ。
ぴくり、と少女の体が震えたのは気のせいだろう。デッド状態では意識はあれども、体を動かすことはかなわない。どれだけ怒っていようとも。
……だけど、次の瞬間、足元がぐらりと揺らぐ。
「うわぉっ!?」
ふっと足元が消えてなくなったような気持ちの悪い浮遊感。頭の中に鳴るアラーム音とともに、視界がブラックアウトして、体中の感覚が切り替わる。
手に持っていたはずの剣や纏っていた軽鎧の感覚が消え、その代わりに頭を緩く圧迫する感触がフェードインするようにやってくる。
自失は一瞬だった。俺は、ヘッドマウント型の端末を脱いで、辺りを見回した。
異世界から戻ってきたわけでも、痛い夢を見ていたわけでもない。
……ただ、仮想現実型のゲームの世界からログアウトした、それだけのことだ。
システム的な理由や長時間プレイによる強制ログアウトは、時折あることだった。ただ、何度経験しても、仮想現実世界から現実へと一瞬で引きもどされる、この夢から叩き起こされたような感覚には、慣れる気がしない。
見飽きた、あまり物の無い殺風景な自分の部屋。ベッドの上に半身を起して、現実感を取り戻すために、四方をぐるりと見回す。カーテンを敷いた窓の向こうからは、明るい光が漏れ入ってきて、遠く雀のさえずりが聞こえた。
――……ちょっと待って。
ゲームの世界にログインした時は夜だった。ちょっと熱中しすぎかなーなんて思いつつ、あの女の子との戦いを繰り返していたけれど……お外が明るいって。
ついでに言うなら、ログインしたのは水曜日。週もど真ん中のド平日だ。
……おそるおそる、壁掛けの時計に目をやる。
「……うわあああああああああっ!!」
――ネットゲームで対戦相手を煽ったら、何故か同級生の女の子に踏みつけられている――
小さい頃からゲームが好きだった。
最初に遊んだゲームは何だったんだろう。トランプや花札だったのかもしれないけれど、物心つくころには、親父が元は自分用に買ったらしい家庭用の据え置きゲーム機を、所有者が仕事で忙しいのを良いことに、ほとんど自分のもののように遊び尽くしていた。
ゲームの何が好きだったんだろう。
知恵や工夫を凝らして、相手を倒すのが好きだった。あんまりスポーツとか体を動かすことが得意じゃ無かったから、頭の使いようで誰かに勝負事で勝てるのが、単純に嬉しかったのかも知れない。
でも対戦ゲームばかりじゃなくて、ロールプレインゲームも好きだった。
子供の頃は誰でもきっと空想する、剣と魔法の冒険の世界。ゲームをしているときも、それ以外のときでさえ、異世界を空想して浸りきりになったものだ。
そしてそんなゲーム好きは、高校生になって、ゲームの舞台が平面のディスプレイから仮想現実世界へと移り変わった今でも変わりはしない。
いっそのことあちらの世界からログアウト出来なくなってしまっても良いんじゃ無いかと思わなくもないが、まだ親の臑を囓って生きる学生の身。高校生活に支障の出ない程度に自制してはいる。
――そう、ネットゲームのやり過ぎで、遅刻しかけるなんてことはごく希なぐらいには。
「あ、おはよー、兄様」
今日という一日は、そんなごく希な一日として始まった。
おはようございます。
二階にある自室から飛び出して、階段を自由落下する勢いで駆け下りた俺――四埜宮悠木に、妹の雪乃がリビングからひょっこりと顔を覗かせた。
「ちっとも早くない!」
思わず時計をもう一度確認してしまう。壁掛けのレトロなアナログ盤面が指すのは、8時10分を少し過ぎたところ。どんな学校でも有り体に申し上げて遅刻ぎりぎりの時間帯だ。それなのに、まだ寝間着のまま、太平楽な挨拶をしてくるこの愚妹はなんなの。
今日は確かに平日だ。もしかして俺の寝ている間に世界から学校という概念は消滅したんだろうか。能天気な妹が登校拒否や引きこもりになるよりは、まだその方が可能性としてはある。
「お前、学校は!?」
「今日創立記念日でお休み。残念でしたぁ」
何が得意なのかわからないが、余裕たっぷりに腰に手を当てて胸を張ってみせる雪乃に、無性にイラッとした。
「殺す」
「えー、別に私何も悪いことしてないのに」
「態度が悪い」
「どんだけ上からなの兄様……」
態度が人を殺すこともあるんですよ。戦国時代だったら即首を刎ねられてもおかしくない所業、お前安土城でも同じこと言えんの。
「いつもの時間に起きてこなかったんだから、せめて声かけてくれるとかしてくれても良かったのではないかと、兄は妹の優しさに期待していたのですが」
「こんなに優しい妹になんたる言い草。友達なんてお兄さんと口さえもきかないって」
「それはお兄さんのことを意識しすぎちゃって恥ずかしくて素直に口がきけない、高度なツンデレ妹の典型例なんじゃないかな」
「……そういうアニメやゲームでしか無いような妄想はほどほどにしておかないと、いつか道を誤ると思うんだよね……そりゃ、こんな快活で可愛い妹を持つ根暗引きこもりゲーマーの兄様がシスコンになるのはしょうがないと思うけどさぁ」
「ぶっ殺すぞ」
げんなりする俺を横目に、雪乃はふんと鼻を鳴らした。
「だいたい、どうせ昨日だって銀剣遅くまでやりすぎたんでしょ」
「あ……うん。まぁ……」
図星。
「何時ぐらいまで起きてたのさ」
「うん……その、えっと、3時ぐらい……かな」
「同情の余地無しだね」
「はい……」
本当は一睡もせずに、ゲームの中の女の子――一応中身はいる。ただし中身も女の子である保証はない――と、いちゃいちゃ殺し合いを続けていたわけなのだが、真実を伝えたら一体なんと罵られてしまうのか。反論するべき言葉も無く、俺は首をすくめて、すごすごとローファーを引っかけた。どう考えても全力ダッシュ必須の時間的余裕の無さ。これ以上掛け合いで体力を消費している余裕なんてないだけだから。妹に言いこめられて逃げるわけじゃないんだからね!
「んじゃ、行ってきます。出かけるなら戸締り気を付けろよ」
「あ、兄様!」
玄関から半身を出したところで、呼び止められて振り返る。
「なんだよ、急いでるんだけど!」
「今日帰ってきたら久しぶりに銀剣一緒に遊ぼうよ」
こう全く俺の今の状況とか、それ今言う必要ある感溢れるマイペースな妹の言葉だったけれど。
「ああ、約束な」
熱中しているゲームの話だとつい頬が緩んでしまう。
そう短く返して、俺は後ろ手にドアを閉めた。
――仮想現実
そんなのは随分昔からある言葉だと言うが、本当に『言葉の通りに』体験可能になったのはほんの数年前のことに過ぎない。
脳神経学と量子工学の発展は、自分の部屋に居ながらにして、世界中の観光都市や秘境を歩き回り、物語の彼方の存在だった剣と魔法の世界に生きることを可能にした。
神話の世に鍛えられた剣の精緻な細工の感触。魔法の紡ぐ幻想の光の煌めき。
自分自身の姿さえ、物語の中の登場人物に変えて。
光を、音を、匂いを、手触りを。全て本物のように感じることが出来るようになった。
本当に、技術の発達というのは凄い。
ただ、そんな風に時代は未来へと進んでいるというのに、この山の合間に開けた地方都市の風景はあまり変わらない。
平屋かせいぜい二階建ての家が並ぶ街並みも、ひび割れたアスファルトの道も、どこまでも並ぶ電信柱も。
ニュースの映像なんかで見る、先へ先へと進んでいく都会の景色と違って、地方は何事にも時間が進むのが遅いというのもあるのかもしれない。
それに、仮想現実技術の実用化が進んでいるのは、まだゲームやアトラクションと行ったエンターテイメントの分野だけだった。
せっかくの世界の在り方を変えうる技術なのに、規制や倫理的な問題の議論がなかなか進まないらしい。
――何が本当の現実か、なんて。
学校だって仮想現実の中に収めてしまえば、こんな風に心臓に負担をかけて息を荒くして全力ダッシュする必要だって無いはずなのにさ……。
校門へと続く坂道は、この季節、青々と茂った葉桜に覆われている。普段登校する分には気持ちのいい景色なのだけど、全力疾走してきた後では景色を楽しむ余裕もなく、ただひたすらに勾配が辛いだけだ。
ほとんど歩いているのと変わらないふらふらの足取りになって、生徒指導の教師に呆れた顔をされながら、俺は昇降口にへたり込んだ。
時刻は8時20分を少し回ったところ。俺の通うここ、美里高校のホームルームは8時30分開始。息を整えるぐらいの余裕はあった。こういうときばかりは家が近いことに感謝する。
もうほとんどの生徒は既に教室で雑談にでもふけっている時間帯、辺りはがらんとして恐ろしく静かだった。やけに大きく響く、荒い息の音。それが二つ。
二つ?
どうやら俺と同じように、ぎりぎりで駆け込んできた奴が居るらしい。
特に興味があるわけでもなかったが、息を落ち着けがてらご同輩の顔を確認するべく顔を上げたのと、それは、ほぼ同時だった。
「――っ!」
どさり、という音とともにすぐ隣に人が倒れ込んできて、心臓が口から飛び出そうに跳ね上がった。
「はぁっ……はぁっ」
「……あ、あの大丈夫?」
「はぁっ……っ。だ、大丈夫……です、す、すみませ……」
大分苦しそうな、だけど、柔らかい声。
視線を下ろすと白の半袖ブラウスに包まれた背中が見えた。じっとり汗に濡れた夏物の薄手の生地から肩甲骨の形が透けて、どきりとする。他にも色々透けてた気もしたけど、紳士の四埜宮悠木さんは何も見ていないからね。
鼻先をくすぐる、シャンプーか何かの清潔な匂い。
黒い艶やかな髪を乱して、床にへばったそれがクラスメイトの女の子だと気付くのには、少しばかり時間が必要だった。
「……栂坂さん?」
「っう? あ……はぁっ、お、おはようございます……しの……みやくん」
人違いではなかったようだ。少し顔を上げた、落ちかかった黒髪の間からのぞく、眼鏡越しの大ぶりな瞳。普段は白い頬が血の色を透かして赤く染まっている。
栂坂佳奈さんは、後ろの席という微妙な縁で、時折話したりする女の子だった。
染めたことなんてきっと無い黒髪をお下げにしばり、黒縁の眼鏡と言う、どことなくもっさり感が抜けない(暴言)絵に描いたような文学少女。実際いつも暇があれば独りで読書に耽っている子だ。
「珍しいね」
「四埜宮くんだって……はぁ、珍しいじゃないですか、どうしたんですか」
「まぁ……うん、ちょっと寝坊しちゃって」
――ちょっと、ネットゲームのやり過ぎで。
とはとても言えず、目が泳いだ。仮想現実対応ゲームの普及で、大分間口は広がってきたようなのだけど、ネトゲなんて堂々と趣味として主張するには、ちょっとまだ世間では肩身が狭い。自分で言うのもなんだけど、俺は学校の中では可もなく不可もなく、それなりに品行方正な生徒という立ち位置を維持しているのだ。築き上げたイメージって大事。
真面目な文学少女というイメージの栂坂さんがなんで遅刻しそうになっているのかは気になったけれど、それを聞いてしまったらこちらもきっと理由を話さざるを得なくなるだろうし、人間、人に話したくないことの一つや二つあるものだよね、うん、主に俺が。
特に気の利いた話を出来るわけでもない。挨拶程度の言葉のやり取りが終わると微妙な間が訪れてしまった。何の話題で間をつなごうか、口を開きかけては、結局躊躇して何も言えないまま。昇降口に、カチカチと、掲げられた時計の秒針ばかりが音を刻む。
ちらりと腕時計をみやる。ホームルームに間に合うか正直危ないラインだが、まだ立ち上がる元気の無さそうな同級生の女の子を置いていく気にはなれなかった。
別に自分は、そんなに人に優しいタイプじゃないと思う。ただ、流石に目の前でへたっている女の子が居るのに、じゃ、お先になんていうのは、流石に申し訳ないというか、なんとなく気が留める。ここにいても何が出来るってわけでもないし、むしろ居心地の悪い沈黙を作り出してしまっている気もするんですけどね……。
背負っていってあげられたりしたら、格好いいんだろうか。どうにも自分のそんな姿は想像できなかった。どうせ試みたところで、途中で潰れるのが落ちだ。華奢な肩とかほそっこい手足とか、栂坂さんは女の子としても軽そうだけど、帰宅部インドア派の体力の無さを舐めない方がいい。
ゲームの中だったらそういうことだって恥ずかしげもなくできるのになぁ。
どう考えてもネトゲ廃人の発想です、本当にありがとうございました。
……なんてくだらないことを考えているうちに、無情にも始業のチャイムは鳴り始める。
あー……と、半ば諦めとともにのっそり立ちあがった俺とは対照的に、栂坂さんはびくりと弾かれたように顔をあげた。
「……とりあえず、はしろっか」
俺の言葉に、まだ微妙に乱れた息を吐いて、首だけで頷いてみせる、同級生の女の子。
いつもの登校時間や昼休みなんかと同じ学校とは思えない、しんと静まりかえった廊下をぱたぱたと上履きのゴム底を鳴らして走る。栂坂さんはほとんど、走っているんだか歩いているんだかわからないような様子だ。
「……四埜宮くんは……」
「うん?」
名前を呼ばれて振り返ると、黒髪の同級生は眼鏡の奥から窺うようにこっちを見つめてきた。
女の子にじっと見つめられることなんて、残念ながらあまり経験の無いことなのでどぎまぎしてしまう。
「ど、どうかした?」
「……なんでもないです。その……ごめんなさい、なんだか待たせてしまったみたいで」
そんな言葉と一緒に視線も逸らされて、俺は一瞬きょとんとして、それからほっと内心胸をなで下ろした。顔も緩んでしまっていただろうか。
「気にしないで、別に遅刻くらい、どうってこと無いし。たぶん」
良かった……なんで待ってるんだろうこの人気持ち悪いとか思われて無くて。
折角家からダッシュをかけてきたけれど、別に遅刻したところで命を取られるわけでも無い。5分程度の遅刻なんて、軽くお小言を言われておしまいだろう。
それよりも、今までは授業の時とかに事務的な話をするぐらいだった女の子とちょっと親しくなれたような気がして、良かったと思った。
もちろん、これがロマンスに発展するなんてことは無いとは思いますけどね……うん、万に一つも期待はしていない。